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第二十六話



 母の名で呼ばれ、シルビアは我慢できず、父を突き放した。   

 

「なぜ、あなたはいつもそうなのっ」

「レイシア……」


 声を荒げるシルビアに、父は動揺し、許しを請うようにひざまずく。父とはいえ、一国の王をひざまずかせたことに、軽い動揺を覚えたものの、かまうものかと開き直り、シルビアは続けた。


「私をよく見てっ」

「許してくれ……許してくれ、レイシア」


 父は目に涙を浮かべながら、シルビアの手をそっと掴んだ。


「わたしを罰するために、死者の国から戻ってきたのだろう。わたしと出会った頃の姿で……飾らない美しい姿で……」


 仮にも王である男が、多くの民衆を前にしても超然とした態度を崩さない偉大な父が、むせび泣いている。侍女や小間使いの証言を信じて一切の事情聴取を行わず、王族に刃を向けるなど万死に値すると、ガジェ・ノーマンに死刑を言い渡した彼の、あまりにも脆すぎる一面に、シルビアは目を疑っていた。これまで、父がなぜ、自分に会いに来てくれなかったのか、周りの臣下たちが、なぜ自分を父に会わせようとしなかったのか、その理由がようやく理解できた気がする。


 ――自国民の不安をあおりかねないから。


「レイシア……愛しい君、愛していたんだ、心から。幸せにするつもりだった……君を苦しめるつもりはなかった……ましてや死なせるつもりなど……」


 シルビアは唐突に悟った。父の、母に対する妄執――罪の意識が消えぬ限り、これは続くのだと。自分が、何とかしなければならないのだと。母とうり二つの顔を持つ自分にしか、できないことだと。


「わたしを恨んでいるのだろう? 殺したいほど憎んでいるはずだ」

「……だとしたらどうなの」

「殺したくば殺せ。愛する者のために死ねるのなら、本望だ」


 その時、ガジェ・ノーマンの顔が脳裏をよぎり、シルビアは覚悟を決めた。


「顔をあげて、ギルバート」


 表紙がぼろぼろになるまで、繰り返し読んだ母の日記。母との思い出はなくとも、レイシアという女性のことなら、よく知っている。もし彼女が生きて、この場にいたら、何と言うか。想像できる。生まれてこの方、王女として育てられ、教育された自分が、町の看板娘だった母の言動を完全に再現することはできないかもしれないけれど、城下町で暮らす人々との触れ合いを経験した今なら――、


「しゃんとしてちょうだい。みっともなく泣きじゃくる男なんて嫌いよ」


 父が、はっと息を止めた。

 立ち上がり、こわごわとシルビアの肩をつかむ。

 

「やっぱり君なんだな、レイシア」


 うつろだった父の表情が変化が現れた。必死に、見えない糸をたぐり寄せようとする、子どものような熱心さで、シルビアの身体を揺さぶってくる。――どうしたって、私を母だと思いたいのね。だったらいっそのことなりきってやると、シルビアは開き直っていた。


「バカね。私がこんなに若いわけないでしょ。あなたがあんまりしつこく私の名を呼ぶもんだから、娘のアマーリエの身体を借りて、戻ってきたのよ。もちろん、アマーリエは生きていてよ。でなければこうして触れられませんからね」


「アマーリエ……? この娘が、赤ん坊だったあの子なのか?」

「もう十八よ。そんなことも覚えていないなんて」


 この際だと思い、責めるように睨みつけると、父は心底申し訳なさそうにうなだれた。


「すまない。君が死んで以来、まともに顔を見ていなくて」

 

 そうか、あれからもう十八年も経つのかと、父は信じられないというようにつぶやく。この様子だと、シルビアの葬式があったこと自体、覚えているかも怪しい。ふと、父の髪の毛に白いものが混じっていることに気づき、シルビアは目を伏せた。


「ひどい人、この子は私の忘れ形見だというのに。甘やかせとは言わないけれど、会って言葉をかわすことくらいはできたはず……あなたの愛情を疑ってしまうわ」


「許してくれ。何度も会おうとはしたのだ。しかし周りに止められた。アマーリエがあまりに君に似すぎているから、私がかまいすぎて、公務をおろそかにする危険性があると……」


「それでも無理を通せば会えたはずよ。あなたはこの国の王様なんですからね。誰があなたに命令できるというの」


「……怖かったんだ」


 吐き出すような言葉に、シルビアははっとした。


「どんな顔をしてアマーリエに会えばいい? 君は私のせいで死んだ。あの子は君を恋しがって泣くだろう。そんな時、なんと言葉をかけてやればいい?」


「大の男が情けないことを言わないでちょうだい」


 ぴしゃりと言い、シルビアは父の手をとった。


「私のことに関して、誰もあなたを責めないし、責められる人間もいない。私があなたを愛したのも、あなたの元へ嫁いだのも、私が決めたことよ。むしろ、あなたに謝らなければならないのは私のほうなの」


 ――お母様。


 シルビアは祈るような気持ちで言葉を続ける。


「ギル、あなたを幸せにしてあげられなくて、ごめんなさい。そばであなたを支えてあげられなくて――あなたより先に逝ってしまった私を、どうか許して」


 父は、声もなく泣いていた。


 優しく抱き寄せられて、シルビアもまた、気づけば涙を流していた。自然と父の背に腕を回した時は、本当に自分に母の霊が乗り移ったのではないかと錯覚するほど、胸が締め付けられて、苦しかった。


「……許そう、君がわたしを許してくれるのなら」


 嫌われていたわけではなかった。

 疎ましく思われていたわけでもなかった。

 愛されていたのだ。


「許すわ」とシルビアは答えた。「もう二度と、アマーリエに悲しい思いをさせないと誓うなら」


「誓う」


 力強い言葉を聞いて安心したのか、涙が止まらなくなってしまう。けれどここで泣き崩れるわけにはいかない。最後まで、やり通さねば。


「……もう、行かなくては、ギルバート」

「死者の国へ戻るのか」


 こくりとうなずく。


「次はいつ会える?」


 シルビアは唇を噛み、残念そうな表情を浮かべてかぶりを振った。


「もう二度と、ここへ戻ってくることはないわ。あなたがいくら私の名前を呼んでもね」


「なぜ」


 昔読んだ、死者の国に関する書籍の内容を思い出しながら、シルビアは慎重に口を開いた。


「あなたに会うために、禁を犯してしまったから。本当は、会いに来てはいけなかったのに。でも大丈夫よ、あなたが私の分まで生をまっとうすれば、私の罪は許される……そんな顔をしないで、ギル。いずれ、死者の国で会えるから」


 さあ次は、母の霊が自分から抜け出たことを父にわからせなければ。


 これまで読んだ本の知識を総動員して、この場に相応しい対処法を必死に考え、実行に移す。貴族令嬢の十八番、失神である。


 シルビアはわずかに苦しむふりをして、全身から力を抜いた。すかさず父が身体を支えてくれて、ほっとする。大理石の床に倒れて、頭でも打ったら、それこそ目も当てられない。今までの苦労が水の泡だ。


「……レイシア、行ってしまったのか」


 気絶したふりをして薄目を開けると、目に涙を浮かべながらも、晴れやかな顔で窓の外を見上げる、父の姿があった。


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