閑話:岸原くんの野球星人観察日記 中編
岸原は春季キャンプで、ドラフト1位指名の新人野手にアドバイスをしていた。
彼は自分を育ててくれた球団に恩返しをしたい気持ちがあった。
今年が最後の西武での春季キャンプだからだ。
彼は今年FA権を取得する。西武には感謝していたが、出ていく覚悟を固めていた。
もうそれは首脳陣にも伝えてある。
この新人のフォームは、最近アマ球界で流行し、問題視されているものだ。
とあるメジャーリーガーを真似した極端なアッパースイングで打ち上げるスタイル。
アマチュアではこれが大流行していて、本塁打か三振か外野フライという、大味な試合ばかりになっていた。
彼のフォームを見ていた岸原は一言伝えた。
「そのフォームを木製バットで続けたいなら、スイングスピードが足りないな」
それに対して新人が答える。
「岸原さんから見てもそうですか。コーチからもプロでは通用しないと言われました」
ウチのコーチはきちんと仕事している。コーチは最初、この新人をまったく違うフォームに矯正しようとしていた。
岸原はこの打法について、ある程度の理解がある。
アマ球界をこのフォームの選手だらけにした、諸悪の根源である男から教えてもらったことがあるからだ。
コーチと少し話をして、打撃フォームの改造を保留してもらっている。
この新人のように、映像だけでフォームを真似して、アマチュアで無双できるのも才能の一つだ。
その努力を一からフォームを組み直すという形で全面的に否定する事はしたくはなかった。
「ちょっと付いてきて、スイングスピードを測る機械を用意してるから貸したるわ」
一メートルほどの高さの三脚と、その上に設置する機械を数個ほど室内施設に設置していた。
この機械は球速、スイングスピード、打球速度、打球角度を分析してくれる。
一つ500万円する最新の機械だ。去年アメリカで発売されたこれを日本で持っているのはおそらく岸原だけだろう。
横には「ShowSpeed」と英語でロゴが書いてある。
これは庄内が開発させた装置で、ロゴの下にはわざわざ直筆のサインがある。
見た目に似合わず、高性能なコンピュータやセンサが内蔵されているらしい。
庄内曰く、「移動式」測定装置ということだが、設置にキャリブレーションなどが必要で半日かかるので、実際のところ移動するのは難しい。
球団スタッフに頼んで設置してもらった。
機械は、去年末に突然、球団事務所宛に俺への荷物として送られてきた。
データ派を自称している岸原だったが、最初はこれの扱いに困っていた。
機械に表示される値が何の役に立つのか分からなかったからだ。
添付されていた20ページ近い英語の論文を、語学に強い妻の助けも借りてなんとか読み、ようやく理解できた。
そして、新人の課題解決に使えるかと思って持ってきたのだ。
「じゃあここで打ってみてくれ」
「……これって、何ですか?」
新人はおずおずと覗き込む。
「最新型の移動式打撃解析機だ。球速、打球速度、打球角度、スイングスピード……ぜんぶ数値化できる」
ティースタンドの前に立たされた新人は、半信半疑でバットを振る。
金属音とともに、すぐに測定器の8セグ表示に数値が浮かんだ。
「打球速度、145キロ。打球角度、32度。スイングスピードは時速135キロだな」
「……すごい。こんなに細かく出るんですか」
10回ほど測って平均をとった。
岸原は画面を指でなぞりながら説明を続ける。
「バレルゾーンってのがある。打球速度158キロ以上、角度は26~30度。ここに入ると打率5割、長打率1.500とかになる。まあつまり、本塁打になりやすい理想の組み合わせってやつだ」
新人の目が大きくなる。
庄内フォームを真似する選手は多いが、理論をしっかり意識している奴はほとんどいない。
彼は論文も出しているし、インタビューでも答えている。
だが、自分のスイングを定量化する方法はほとんどないので理論を実践するのは難しかった。それに野球選手の多くは、教科書的な資料など読まない。
数字を眺める新人に岸原は伝える。
「今のままだとフライ製造機になるな。角度はもう少し抑えたほうがいい」
そして、岸原は彼の二頭筋を叩く。
「もうちょっと、スイングスピードも上げないとな」
しばらく、フォームをどういった観点で変えていけばいいかを伝える。
岸原は直接的なフォームの指導はしない。それはコーチの仕事だ。ただ弱点を伝えるだけ。
コーチの言う通りにフォームを変えるのは簡単だ。プロアマ問わず、大抵の選手はそうしているだろう。
だが、選手自身も自分のどこに欠点があるのかを考えながら野球をしなければならないと、彼は考えていた。
かつて岸原はインコース攻めを苦手にしていた。今では逆に得意な球になっている。
それは才能だけに頼った打ち方をやめ、フォームをしっかり見直した結果だ。
岸原自身は庄内打法と呼ばれるやり方を取り入れてはいない。自分には合わないと感じているからだ。
だが、全否定するつもりはない。
指導を終え、立ち去ろうとした岸原に新人が声をかける。
「岸原さんって庄内選手と友達なんですよね!もし良かったら紹介してください!」
「奴は冬にいつも若手を集めて自主キャンプしてるから、推薦しといてやるよ」
俺は行かないけどな、と岸原は呟く。
しかし、友達……そうかもしれないな。あいつがどう思っているかは知らないが。
岸原は、そんな「友達」との日々を思い出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇
俺の運命を変えたあのドラフトの日。
桑原は大学に進学すると言っていたが、巨人に指名された。
巨人スカウトから「1位指名は確実」と言われていた俺は、裏切られたような気分になった。
だが、それも運命なのだろう。高校生である俺は受け入れるしかなかった。
抽選の結果、交渉権を得たのは縁もゆかりもない埼玉県に本拠地を置く球団、西武。
迷った末、母の言葉に背中を押され、指名を受け入れることにした。
「花は咲く場所を選ばない」
その言葉は今でも胸に残っている。最終的に俺は西武で活躍し、俺を指名しなかった巨人を見返してやろうと心に決めた。
一方、野球星人・庄内は、咲く場所を選ぶ気満々だった。
根っこにロケットを付けて海の向こうまで飛んでいくような男だ。
日本ハムが交渉権を得たとき、奴は喜ぶでもなく、無表情のままだった。
「パ・リーグなら入団しない」――そんな宣言を本気にする関係者は少なかった。
高校生はドラフトでの立場が相対的に弱い。大学生ならともかく、高校生が堂々と指名拒否をするなど、めったに聞く話ではない。
しかも、彼がどこかの大学に進学する予定があるという話もなかった。
その後、庄内は日本ハムのスカウトに一度断りを入れたあと、徹底的に逃げ回ったという。
関係者が実家を訪ねても、もぬけの殻だったらしい。
付き合いの長い俺にはわかっていた。
彼はプライドがエベレスト並みに高く、自分以外を常に下に見ている。
決して自分の非を認めることはない。
「勝手に強行指名されただけなのに、なぜ俺が頭を下げる必要がある?」――たぶん、そう思っていたのだろう。
結局、最後まで日本ハムのスカウトと顔を合わせることはなかったそうだ。
世間は知らないが、庄内には短所が山ほどある。
その中でも一番致命的なのは、人の名前を覚える気がまったくないことだ。
チームメイトであっても、奴に実力を認められなければ、名前すら覚えてもらえない。
ただし、覚えられたら覚えられたで、碌なことはない。
「ちょっとした悪戯」と称して、豪速球を胸元に投げ込んできたり、球団事務所に意味不明な年賀状を送りつけてきたり、外国のクソ不味い飴を何十個も送ってきたり。……いや、こうして並べると、俺は相当悪戯されているな。
東大時代には、俺が東京遠征で滞在していたホテルに、前金まで払ってピザの出前を勝手に送りつけてきたこともあった。
宛先は俺の名前で、部屋番号までバッチリ指定されていた。
配達員の話によれば、店頭で注文したのは「赤・白・黒の三色帽子――阪急ブレーブスの帽子を深く被った謎の青年」だったという。
すでに夕飯を食った後だったのに、俺はLサイズのピザを三枚も処理させられる羽目になった。
逆に名前を覚えていない「その他大勢」に対しては驚くほど優しいのが彼の特徴だった。
後輩にアドバイスを求められれば必ず応じるし、それが試合前の対戦相手であっても変わらなかった。
俺が一番好きなエピソードは、ある練習試合の前のことだ。
庄内に10分近くも丁寧に打撃のアドバイスを受けた対戦相手が、感動して試合後にお礼を言いに行った。
ところが庄内はその相手を全く覚えていなかったらしく、初対面のように自己紹介されて相手がショックを受けていた――というものだ。
高校時代、二人で変装して喫茶店で話していた時も、ファンにサインを求められれば必ず応じていた。
しかも、押し寄せてきた店中の客全員に。
バッグから自前の色紙とペンを取り出し、サイン会を始めてしまう徹底ぶりだった。
時間がなくてファンに対応できないときは、あらかじめ用意してあるサインカードを配って立ち去る。
その優しさの十分の一でも桑原に向けてやれば、もう少し仲良くできたと思うんだがな。
大学に入っても、奴の人気は変わらなかった。
むしろエスカレートしていたかもしれない。
六大学野球の東大戦はやたらとテレビ放送され、露出は俺の10倍以上あっただろう。
だが俺には、奴が何をしたいのかまったく理解できなかった。
大学野球はプロに比べて決してレベルが高いわけではない。
六大学野球の人気は根強いが、他にもっとレベルの高いリーグはいくらでもある。
しかも東大は伝統的に弱い。
庄内は大学でも真面目に野球をやっていなかった。練習にもほとんど参加せず、暇を持て余していたらしい。
俺が休みのときや、東京に本拠地を置く対日ハム戦のときなどは、よく飯を奢らされた。
彼は野球にも勉強にも興味がなく、金稼ぎと恋愛にだけ夢中なようだった。
ある日会ったとき、いきなりファッションモデルのように垢抜けた姿になっていて俺は唖然とした。
それまで毎回同じパーカーばかり着ていたのに、雰囲気がまるで違ったのだ。
問い詰めると、子供のように不貞腐れた顔で一言。
「大学の先輩に選んでもらった……」
詳しく聞けば、女の子とのデートだという。
人格破綻者の庄内と付き合うことができる女の子がいる事に驚愕した。
特にあのダサいブレーブスの帽子を脱がせることに成功したのは大したものだと思った。誰の言うことも聞かない庄内に、言うことを聞かせるとは相当な手腕だ。
その時の彼女――今の庄内の妻には数回会ったことがある。
俺から見れば、あれは一種の完璧超人だ。
庄内は野球が上手いことしか取り柄のない、人の心を理解することができない悲しきモンスターだが、妻は美貌、知性、運動神経、すべてを兼ね備えていた。
性格も真逆で、友達を作るのが驚くほどうまい。
あの彼が惚れるのも当然だと思った。逆に、彼女がなぜ庄内を好きになったのかは謎だが……。
庄内の妻はダメ男が好きなのかもしれない。きっとそうに違いない、
今でも俺は、庄内が「彼女探し」のために東大に進学したのだと思っている。高校の頃、雑談の中で「頭のいい女性が好みだ」とポロっと漏らしたことがあったからな。
そのまま甘い学生生活を楽しむのかと思いきや、奴は何も言わずに突然アメリカに行ってしまった。
それからしばらく、俺と庄内は疎遠になった。
接点といえば、年に一度届く悪戯年賀状くらいだった。




