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灼熱の昭和にデータ野球で挑む  作者: メモ帳ぱんだ
メジャー編

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第70話 引越し

「ここが新しいハウスね!」


 俺が宣言すると、隣にいた先輩が声をかけてきた。


「どうしたの、毅くん」


「いえ、なんでもありません」


 俺が購入した家に足を踏み入れるのは、これが初めてだ。

 この家は、かつてプロバスケットボール選手が所有していたものだが、引退後に破産。

 不動産業者も持て余していたようで、安値で購入することができた。


 内見は先輩が撮影したビデオを見ることで済ませていたものの、実際に現地に来ると感慨深いものがあるな。

 所有権はすでにウチの会社に移っており、今後さまざまな改修を施す予定だ。

 オフシーズンで時間もあるため、今日はその最終確認のために訪れた。


 家の中を見て回りながら、要望を口にしていく。それを先輩が手帳に丁寧に書き留めていく。

 後でまとめて工事を手配してくれる予定だ。


「無線用に20メートルのアンテナが必要ですね」

「ここのバスケットコートは撤去しましょう。芝を張って犬が遊べるようにしたいです」

「ここにはトレーニングルームを。とりあえず、アブローラー、ケーブルマシン、それから…」

「この部屋はコンピューターを置くので、防音壁と冷房が必須です」


 この家を選んだ最大の理由は、二面のテニスコートがあることだった。ただ、それらも改修が必要な状態らしい。

 前の所有者がろくに手入れをしていなかったため、かなり劣化が進んでいるとのことだった。

 俺としてはテニスコートにあまり細かいこだわりはないので、「お任せします」と頷き続けるだけだった。


 想定よりも居室と寝室の状態が良く、内装工事は不要と判断した。

 防虫処理とクリーニングの業者を入れて、数日後に引っ越すつもりだ。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


 今日は朝からアパートにある細々とした荷物を愛車のアコードに積み込む作業をしている。

 大型の家具はすでに業者に任せており、部屋の中はかなり殺風景になっている。


 愛着のある部屋だった。常に移動の多い自分にしては、珍しく腰を据えて過ごした場所でもある。

 買ったけど忙しくてほとんど使えなかったSPARCstationが先輩の視界に入らないよう、さりげなく体で隠しながら声をかけた。


「そろそろお昼なので休憩しましょう」


「そうだね!昼ご飯はどうしようか。もう、色々片付けちゃったし」


 ちょっと困ったような眉をする先輩。やはり、眉がチャームポイントだと思う。可愛い。

 退去の立ち会いがあるため、出発は夜になる予定だ。

 すでに調理器具はすべて梱包済みで、食事の準備もできない。


「僕が行きつけの中華料理屋でテイクアウトしてきますよ」


 この家の電話はすでに解約済みで、出前も利用できない状況だ。

 どうせオフィスへ立ち寄る用事もあるので、その帰りに買う事にした。



 オフィスでは山本先輩が分厚い法律書に向かって調べものをしていた。山本先輩は飛鳥台高校の数学研究会の先輩で、データ分析プログラムを実装したスーパーマンだ。

 現在、彼にはデータ分析とは違う作業をやってもらっている。


 映像ベースの選手分析には、そろそろ限界が見えてきた。

 分析の材料が増えないと、これ以上のアルゴリズムの改良を行なっても効果が薄いと判断した。

 となると、単調なデータ分析作業に高給取りのエリートを使うのももったいない。せいぜい有効活用させてもらう。


 今は、本のネット通販事業の立ち上げに向けて動いてもらっている。俺の副業の一環だ。

 目指すのは、世界中の書籍流通を自前のサイトで独占すること。そのため、法規制、実現技術、物流、広告、ネットワークインフラまで、あらゆる項目を精査してもらっているわけだ。

 ネット通販というのはコンピュータサイエンスで学ぶ技術の集大成と言ってもいい。山本先輩ほどの適任者はなかなかいない。


 もっとも、インターネットはまだ一般公開すらされていない。構想に過ぎず、実現は数年先になるだろう。World Wide Webも、今はPC-VANにすら負ける小さなネットワークに過ぎないが、将来的には1兆件を超えるサイトを抱える巨大な存在になる。


 乗るしかない、このビッグウェーブに。


 と言っても本格的な投資は数年後の予定で、今はまだ準備しているだけだ。

 事業の準備の一環として、本の流通を肌で理解するため、小さな書店を近くに構えてみたりもしている。

 この試みに先輩の理解は得られなかったので、完全に俺の小遣いで運営している。看板に野球選手の顔が描かれた謎の書店。無駄に日本の書籍や漫画を取り揃えているおかげで、現地の駐在員や一部のマニア層にはそこそこ人気があるらしい。

 が、現状は若干の赤字。ちなみに俺は小遣い制で、年100万ドルの範囲内でしか遊べない。サラリーマンの悲哀だな。


 それ以外の資産は、すべて先輩が管理してくれている。証券口座の履歴を見る限り、某通訳のような野球賭博には手を出さず、誠実に運用してくれているようだ。


 今日はネット通販事業の進捗確認のために、オフィスに立ち寄った。ついでに、そこに置きっぱなしだった高額なアマチュア無線機材も回収する。新居からこのオフィスまでは車で20分ほどかかるようになる。これからは気軽には来れない距離になるわけだ。用事がないので二度と来ないかもしれない。



 帰りによく利用している中華料理店に立ち寄った。今日も店内はアジア系のお客で賑わっている。俺が店に入った途端、中国人の客が何かを喋りながら、どんどん集まってくる。これがあるから、普段は出前にしているんだよな。


 中国人の波をかき分けて、カウンターに顔を出す。店のおばちゃんが中国語で声をかけてきた。ちなみに中国語は喋れないので、その意味は全くわからない。


「哎呀,今天不是叫外卖啊。我一直都在为你加油哦(あら、今日は出前じゃないのね。いつも応援してるわよ)」


 今日はコーラはいらない。家にペットボトルの紅茶がある。いつもの注文テンプレから末尾の部分だけを抜けば、コーラ抜きの注文になるはずだ。


「我要一份宮保雞丁,一份炒飯(宮保鶏丁と炒飯を一つずつお願いします)」


 それに対して何か返事が返ってくる。


「你忘了点可乐哦。新品的鸡排我送你一份当赠品吧(コーラ頼むの忘れてるわよ。新商品の鶏排っていうチキンの揚げ物、サービスで付けとくね)」


 あれ、おかしいな。普段ならここで料理を作りはじめてくれるんだが。

 会話フローチャートが崩れた。リトライするか。


「えっと…。我要一份宮保雞丁,一份炒飯(宮保鶏丁と炒飯をお願いします)」


 良かった。今度は注文が通ったようだ。

 こういうリトライ処理は、まさにコンピュータサイエンスの基本だ。コンピュータサイエンスって本当に実用性のある学問だよな。


 その後、料理を待ちながら、握手を求めてくる中国人客の相手をする羽目になった。


 自宅に戻ると、抜いたはずのコーラがきっちり袋に入っていて、しかも巨大な鶏の唐揚げが2つ追加されていた。

 いつもの定型文から、単語を一つ減らしただけで商品が増えるとは…中国語って奥が深いな。どういう仕組みなんだ。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇


 今日は、フロリダの空港に来ている。日本から自主トレに参加するメンバーを迎えに来たのだ。フロリダは、アメリカの中でも冬が暖かくてちょうどいい。


 ちなみに、うちの妻である先輩も同行している。通っているテニススクールの姉妹校が近くにあるそうで、そちらに通いつつ、俺の食事も用意してくれるとのこと。


 空港の到着口から、高校時代の同期・浜田と、7人の選手が現れる。何人連れてきてもいいとは言ったが、さすがに多すぎるんだよなぁ。俺を含めると野球チームが作れてしまうじゃないか。


 先輩が一人ひとりに丁寧に挨拶している。


「庄内彩香です。よろしくお願いします」


 浜田がニヤけながら小声で言ってきた。

「お前の奥さん、美人すぎないか?」


 その通り。しかも東大卒で頭もいいし、家柄も良い。すごく優しい。英語も堪能、家事も完璧という超人っぷりだ。そう説明すると、浜田は笑ってこう付け加えた。


「唯一の欠点は男の趣味かもしれんな」


 なんだァ?てめェ……



 一目見てわかるが、浜田が連れてきた選手たち全員が細い。浜田に至っては、高校時代の筋肉質な体が嘘のようにスマートになっている。


 本人いわく、俊足を売りにキャラ変したとのこと。それでスタメンが取れてるから立派なもんだが、正直、迫力に欠ける。余計な筋肉が敏捷性を損なうのは理解できるが、それにしても筋トレを減らしすぎていると思う。


 というわけで、こいつら全員を徹底的に鍛え直す。一人一人に合わせた筋トレメニューも外注して準備済みだ。

 事前アンケートを見る限り、彼らは俺から打撃理論を学べると期待しているようだが、まずは身体づくり。筋トレをみっちり仕込んでやる。打撃はその後だ。


 続いてテレビ局のスタッフが到着し、先輩が笑顔で対応している。自主トレの密着取材をしたいらしい。シーズン中に来られると球団との調整が面倒なので、今のうちに来てくれるのはまだありがたい。


 ぼんやりその様子を見ていると、女子アナが勢いよくこちらに駆け寄ってきた。


「お久しぶりです、アナウンサーの宝田です。2週間、よろしくお願いしますね!」


 距離が近い。明らかに俺の腕に胸を当ててきている。

 話を聞くと、実は初対面ではないんだとか。

 彼女は慶應野球部の元マネージャーで、六大学時代に何度かベンチに挨拶にも来ていたという。

 俺の大ファンだとか。

 綺麗な人だし、記憶に残っていてもおかしくないが、全く覚えていないな。


 着痩せするタイプのようだ。胸のサイズは先輩より大きい。感触からすると、Dってところだろうか。

 そんなことを考えていると後ろから視線を感じる。振り返ると――先輩が無表情でこちらを見ていた。


 無表情な先輩を見るのは初めてかもしれない。普段が笑顔なだけに、新鮮さを感じるな。

 真顔だと、普段よりも整った眉が強調されている気がする。可愛い。

 以前、眉を舐めさせてほしいと頼んだら断られてしまったけど、リトライしてみてもいいかもしれない。リトライ処理はコンピュータサイエンスの基本だ。

 先輩は俺に甘いので大体3回くらい頼めば、どんなに嫌な要求でも渋々応えてくれるのだ。

 この前も膝の裏を舐めさせて貰ったし。


 先輩は大股で歩み寄ってきて、宝田アナを俺から強引に引き離した。


「選手への過度な接触はご遠慮いただいています」


「えー? これくらい別にいいじゃないですか。庄内選手も喜んでましたよ……ね?って、いない」


 俺は少し離れた場所で電話をしていた。送迎用のマイクロバスをロータリーに呼ぶ為だ。


 その後、二人はバスが来るまで話し続けていた。もう友達になったのかな?さすが先輩。コミュ力お化けだ。

 難関大学を卒業した者同士、話が合うのかもしれない。


 ホテルに到着後、先輩が急に「明日の練習に私も同行する」と宣言してきた。俺をマネジメントする上で、普段の練習の様子を知っておく必要性を感じたらしい。


「取材依頼は必ず私を通すこと」

「宝田アナとは50cm以上離れること」


 この2点を、笑顔で厳命された。


 サイン目当てで近づいてくる女の子は密着してくる子が多いので、宝田アナみたいなタイプの対応には慣れているんだけどなぁ。

 ただ、それを言ったら面倒なことになりそうだと、なんとなく思ったので、黙って従っておくことにした。

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