第55話 坂の街
6月。特に波乱もなく、ドラフト一巡目14番目で指名された俺は、サンフランシスコへの引っ越しを進めていた。
アメリカでは引っ越しに専門の業者を使うのはそこまで一般的ではない。基本的には自分の車を往復させるか、知人に手伝ってもらうのが普通だ。
俺も愛車のアコードに家具を積んで600kmの道のりを往復する苦行を行っていた。
ほとんどの荷物は無事に自力で運ぶことができたが、UNIX機のSun-3を運ぶ時に問題が生じた。
先輩は、Sun-3が夜間に出す騒音に迷惑しているようで、引越しを良い機会として捨ててしまおうと強く提案してきた。
しかし、俺はSun-3にしがみついて、涙ながらに訴えた。
こいつは…俺の長年の相棒、家族なんだ…!
俺の決死の泣き落とし作戦は功を奏し、サンフランシスコへと運べることになった。
こうして、新天地での俺、先輩、そしてSun-3の新しい生活が始まった。
引っ越した翌日、朝になってもSun-3の筐体はじんわり熱を持っていた。夜中に爆音を立てながら予測モデルのパラメータ探索をしていたからだ。
夜中の計算結果を確認すべく、探索結果のパレート分布を可視化してみたが、探索は全然進んでいなかった。
どうやら局所解にハマって足踏みしていたらしい。少し抜けてるところも、このSun-3の愛嬌ってやつか。まぁこれに関しては、悪いのは俺のプログラムなんだけど。
急速に進化するコンピュータの世界で、4年前に発売されたSun-3はもうすでに時代遅れになりつつあった。
そろそろこのボロを捨てて、新型に買い替えたい。
今年Sunが発売したSPARCstation 1は、Sun-3の約3倍以上の処理速度を誇り、NEC 9801と比べたら実に10倍以上の差がある。しかも、8bitのカラー出力に対応。
プロ仕様なだけあって、価格もSun-3の倍近い。もちろん騒音も倍だ。
思いついたアイデアに浮かれた俺は、勢いそのままに先輩に相談してみた。
「今のボロを捨てて、新しい大型のマシンに買い替えていいですか?2万ドルです」
……その日、先輩はなぜか一言も口をきいてくれなかった。あと、晩御飯のおかずは冷凍のフライドチキンだけ。
電子レンジの「チン」という音が、新居に冷たく響いていた。
新しい住まいはサンフランシスコの中でも治安の良いエリアにした。入口に守衛がいて、セキュリティがしっかりしているタイプのアパートだ。
サンフランシスコはアメリカ全体で見れば比較的マシな方だが、あくまで「アメリカ基準」での話。
俺のように治安の良い日本、しかもその中でも特に治安がいい街である尼崎で育った人間からすると、この街の治安はやっぱりカルチャーショックを受ける事が多い。
このアパートは家賃がかなり高かったけど、安全には替えられない。何年も住むところなので投資と割り切るしかない。
……ただ、一つだけうっかりしてた。
俺が契約してる3A球団の本拠地、実はここから1000キロ以上離れたアリゾナなんだよな。
いきなり単身赴任生活をすることになった。
俺の記憶では近くにあるサクラメントだった気がしていたんだけど、この時代は違うらしい。流石に3Aの球団の本拠地が遠すぎないか。
◇◇◇◇◇◇◇◇
契約した直後に振り込まれた契約金を使って俺は、早速企業を立ち上げた。
企業設立の目的は投資とビザだ。
アメリカは一定額を投資すれば、比較的簡単にビザが下りる。
投資主体が企業の場合は、従業員に投資ビザを与える事ができる。
俺は球団が就労ビザの手続きをしてくれたから問題ないが、先輩は今は観光ビザでアメリカに滞在している。USCPAの勉強と試験でバタバタしてるから現時点では観光ビザでも問題はない。
ただ、いずれは適切なビザに切り替えたいと思っている。今のままだと、労働することすら制限されているので。
俺の会社で投資をして、その従業員として先輩も雇う事でビザ問題もクリア。
一石二鳥ってわけだ。
今の時代は、IT株は割安で狙い目。IT株の中でもAppleの株を大量に買っておいた。
この時代のAppleは初代Macintoshが大コケした影響もあって、現在のApple株価は超低空飛行中だ。この商業的な失敗によって、Appleの創業者は自分の会社を追い出されている。かわいそう。
俺は好きなんだけどな、Mac。
この時代のMacはPOSIXに準拠してないから買うことはないけど。
株価の伸び率とか詳しいことは分からないけど、IT関係に突っ込んでおけば金が減ることはないだろう。
◇◇◇◇◇◇◇◇
契約を結んでから2週間、俺はマイナーリーグ3Aのチームに合流していた。
マイナーの特徴を一言で言えば――ケツが痛い。
なにせ、広大なアメリカをバスで移動し続けるからだ。
俺が所属している3Aは、まだマシな方らしい。遠征距離が長い場合は飛行機を使う許可が出る。
その下の2Aになると、費用削減の為に全ての移動がバス。バスで1000キロ移動して試合とかザラにある。
3Aですら、選手寮はボロいし、食事も出ないし、コンディション管理は自己責任って感じだ。
ほんと、早くメジャーに上げてくれと心の底から願う毎日だった。
この日は、バスで400キロの移動して試合。
普通にケツが痛い。
この程度の距離では飛行機を使わせてもらえない。アメリカでは「近距離」に分類されるからだ。
3Aに来て1ヶ月、打率は.330程度。
大学リーグ時代はコンピュータで解析してデータを集めてから対戦していたけど、3Aではうまくデータを活かせていない。
パソコンもないし、選手の入れ替わりも激しいからだ。
そのせいで、俺はただの好打者程度の成績しか残せなくなってしまっていた。
だが収穫もある。
感覚頼りで対処しても、ヒット狙いに徹すればそれなりに打てる事が分かった。
最近の悩みはポジションの迷走だ。
ライトで勝負させてくれと言っているのに、なぜかここ数試合はセカンドを守らされている。
監督に抗議すると、「君の代理人は、セカンドもパーフェクトに守れると言っていたと」と返される。
…あー、そうだった。
入団時の契約金アップを狙って、自分で交渉材料にしたんだった。完全に自業自得である。
俺のセカンド守備は、自分では良いとは思っていない。
筋トレで体重と筋肉が増えている分、どうしても軽快さが犠牲になってしまっている。
エラーは0だけど、誇れるところはそれくらいだ。
俺は確かに、エラーはしない選手だ。
だが、それは守備がうまいことを意味しない。
守備のうまさを評価する指標として、この時代には「守備率」というものがある。
守備率 =(守備機会 − エラー数) ÷ 守備機会
一見、この指標は理にかなっているように思えるかもしれない。エラーを減らせば、数値は上がる。
でも、この指標には致命的な欠陥がある。
球に触れなければエラーにならないってことだ。つまり、守備率を上げたいなら、無理に飛びつかず、ただ見送っていればいい。
守備機会そのものが減れば、分母が小さくなり、エラーさえしなければ数値は高くなる。
そう、全く動かない選手の方が守備率は高くなることすらある。
本当の意味で守備がうまい選手ってのは、届かないと思われた打球に届く選手のことだ。
だが、そういう選手は届いた結果としてエラーになるリスクも増える。
現代野球では、守備のうまさ――特に内野手の守備力は、「UZR」って指標で評価されることが多い。
正式名称はアルティメット・ゾーン・レーティング。
これは簡単に言えば、
「そのポジションに平均的な選手を置いた場合と比べて、どれだけ守備で失点を防いだか」を数値化したものだ。
グラウンドを細かいメッシュに分けて、
打球の飛んだ場所、速度、角度、状況なんかを全部記録して、
「その打球は平均なら何%の確率でアウトになる」って統計を元に、そのプレーを実際にアウトにしたかどうかで評価が決まる。
それだけじゃない。
送球の正確さや、併殺プレー、打球処理の早さなんかも加味される。かなり複雑な仕組みだ。
また、完全に客観的とは言い難い。
トラッキング技術やレポートの制度に左右されるし、どうしても主観的な要素が混じってしまう場面もある。
だから、他のセイバーメトリクスと比べると少し信頼性に欠けるって言われることもある。
とはいえ、守備力って数字に出すのが一番難しい部分だから、欠点もありつつもUZRが最適だと思っている。
内野のエラーが出やすい球場の代表として、阪神タイガースの本拠地である甲子園球場がある。
例えばある年の阪神は甲子園でプレイした場合は、他球場の場合に比べて1試合あたりのエラー数が3倍になっていた。
なぜこんなに阪神が甲子園でエラーしまくるのか。これは内野が土の球場だからだ。内野が芝の球場と比較して、ボールがイレギュラーに跳ねる事でエラー数が爆増する。
UZRと守備率の関係を語る上でこんなエピソードがある。
阪神で長年ショートを務めた名選手は、UZRの指標において常に球界トップクラスの数値を記録していた。
ある年、この選手は「エラーを一桁に抑える」と宣言し、実際にそのシーズンを通してわずか5つのエラーしか記録しなかった。
甲子園というイレギュラーの起きやすい球場を本拠地にしながら、これは驚異的な数字だった。当然、守備率はかなり良くなった。
だが、その結果、どうなったか。
UZRが大きく下がってしまったのだ。
それまで「守備で最も得点を防ぐ選手」と称されていた彼の指標は、リーグ平均に近い水準にまで落ちてしまった。
要するに、リスクのある打球を避けて確実なプレーに徹したことで、守備機会の広さという意味での貢献が減ったと評価されてしまったのだ。
ちなみにこの名選手、晩年にはレフトの守備難を補うため、ショートとレフトの中間――いわゆる「ショフト」と呼ばれる謎の守備位置を任されていた。その結果、UZRは球界最悪レベルに…。かわいそう。
その日の試合後、俺は監督に呼び出された。
無言で渡されたのは――サンフランシスコ行きの航空券。
どうやら、上でセカンドの怪我人が出ているらしい。その代役として、俺が選ばれたってわけだ。通りでセカンドばかりを守らせられると思っていた。テストされてたんだな。
「打率はあるし、エラーもしないし、こいつでいいか」という消去法的な抜擢だろう。
サンフランシスコの球団事務所でメジャー契約をして、即座にチームがいるアトランタに飛ばされるらしい。
俺の守備範囲は酷い。セカンドとして使わないほうがいいぞ。
もちろん、早くマイナーから抜け出したい俺は、そんな事をわざわざ口にしなかった。




