第51話 アメリカ上陸
カクヨムに番外編を本日投稿!
日本での涙の別れを経て、一回り成長した俺はアメリカに住み始めていた。
西海岸、ロサンゼルスの夏は驚くほど涼しい。
気温が日本よりも低めなのに加えて、湿度が圧倒的に低い。夏にはほとんど雨が降らないほど湿度が低い。日差しは強いが、汗がベタつくような不快感はほとんどない。
ただし、日本と違ってエアコンが設置されていない家も珍しくない。俺が新しく借りたアパートもそうだった。
もっとも、今まで暮らしていた駒場寮は、猛暑に加えてエアコンも扇風機もロクにない環境だったから、それに比べたらここは天国みたいなもんだ。
窓を開けて風を通せば、昼間でも過ごせるし、夜になればひんやりと肌寒いくらいになる。
2つある部屋の1つ、その一角に、場違いなほど巨大なコンピュータが鎮座している。
サン・マイクロシステムズ製のSun-3。UNIXワークステーションの中でも最先端の機種だ。
ちなみに、ディスプレイと本体を合わせて1万ドル以上。学生が気軽に買える代物じゃない。
サン・マイクロシステムズ。個人的には、コンピュータの歴史を語るうえで最も好きな会社だ。
この企業ほど、技術革新のたびに惜しみなく自社の技術を業界に解放してきた存在はない。
「オープンソース」という概念がまだ一般的ではなかった時代に、先駆けて開かれた技術の価値を信じて実践してきた。
もちろん、UNIXのソースコードを公開したAT&Tも偉大だ。だが、あちらは訴訟で敗れて公開に追い込まれた面がある。
その点、サンの姿勢は最初から「自発的」だった。そこに美学を感じる。
俺は日本から持ってきたフロッピーディスクをドライブに差し込み、分析ソフトを立ち上げる。
この時代のUNIXはメーカーごとに仕様がバラバラなので、移植がうまくいくか内心不安だったが、運よく同じBSD系統のUNIXだったおかげで、致命的な問題は起きなかった。
というか、動いてくれないと困る。
このソフトの開発のために、山本先輩に100万円近くも寄付しているんだから。
USCの投手陣――その中には、日米大学野球で直接対決したリッキーの名前もある。
今、彼の投球データが端末に表示されている。
あの時は、リッキーの突然の乱調に救われた。だが、次はそうはいかない。
国際親善試合だったからこそ多少の挑発や無茶が許されたが、リーグ戦で同じことをやれば、本当に乱闘になるかもしれない。
モニターには、開発中の分析ソフト《Baseball Analyze》のシンプルなタイトルが表示される。
その下で、無駄に凝ったローディングアニメーションがくるくると回っている。これは別に仕様書には書いていないので山本先輩の趣味だ。
まずは動作確認も兼ねて、リッキーの過去50回分の投球データを読み込ませてみる。
データの整形が終わると、次球を予測するアルゴリズムが動き出す。
今回のFORTRANに移植されたバージョンは大幅に強化されている。
東京大学のスパコンを使ったパラメータの最適化に加え、処理能力の向上によって、従来は負荷が大きすぎて回せなかった高度な予測アルゴリズムの実行が可能になった。
その結果、推定成功率は平均40%から46%へと上昇。
一見すると低く感じられるが、これは「次の一球が完璧に的中する確率」だけを指した数値だ。
実戦では、球種かコース、あるいはその両方の一部を絞り込めれば十分に意味がある。
それらを含めた「狙い球に近い球が来る確率」で言えば、70%近くにまで跳ね上がる。
つまり、三球見れば一球は“狙いどころ”が的中するという計算だ。
この読みの精度があれば、対リッキー戦でも十分に戦える――そう思いたい。
ただし、これはあくまで日本のリーグで得られたデータに基づく精度だ。
アメリカの大学野球では打者の傾向も投手の配球ロジックも異なる。
ここロサンゼルスで、再度パラメータの最適化と現地検証が必要だろう。
そして今回、新たに搭載された機能がある。
なかでも一番重要なのは、「出力形式を柔軟に変更できるようになったこと」だ。
パソコン上では、あらゆる条件を指定して検索をかけることができる。だが当然、グラウンドにパソコンを持ち込むわけにはいかない。
実際、1〜3塁の走者パターンだけで8通り、カウントは36通り、打者は左右の2パターン。
つまり、盤上の基本的な状況だけで576通り存在する。一球前、二球前の配球まで考慮すれば、その組み合わせは爆発的に増える。
いわゆる「組み合わせ爆発」だ。総計で100万通りを超える局面があり、それぞれに対する投球予測が存在する。
すべてのパターンを記憶するのは不可能だし、紙に印刷すればベンチが埋まってしまう。
これまでは投手ごとに重要そうな条件だけを勘で取捨選択し、無理やり10枚程度の表にまとめていた。
今回からは、その負担を減らす新方式を採用している。
最終的な予測確率ではなく、中間パラメータ――たとえば「カウント別の球種分布」など――をベイズネットワークごとに5種類ほど出力する。
グラウンドでこれらの表を状況に応じて合成していくのだ。
たとえば次の球種は近似的に以下で求められる。
P(球種 | A, B, C, D, F) ≒ α × P(球種 | A) × … × P(球種 | F)
ここでαは正規化係数で確率の合計を1にするためのものだ。P(球種 | A)などは、試合中に手元にある表から簡単に参照できる。
紙は5枚で済み、覚える負担も最小限に抑えられる。
問題があるとすれば――俺以外には使いこなせないという点だ。
実際、俺ですら打席で計算するのに数十秒かかる。
前のチームメイトならともかく、一般的なアメリカ人にベイズ推定の素養があるとは思えない。9×9すらも怪しい国民性だ。
でも構わない。
俺の関心はチームの勝利ではない。個人成績だけだ。
目指すのは、MLBドラフト一巡目指名。
チームの勝敗なんてどうでもいい。プロを目指すレベルの選手なら、みんな思っていることだな。わざわざ周囲に言いふらすことはしないが。
◇◇◇◇◇◇◇◇
ところで、実はアメリカでは秋は野球のオフシーズンだ。今は完全にフットボールの季節。
野球部の公式戦はほとんどなくて、あるとしても練習試合程度。
おかげで、思ったよりは暇な生活を送っている。
それにしても、ロサンゼルスという街は車がないと人権がない。
いや、本当に。UCLAは少しロサンゼルス中心部から離れた位置にある。車がなければ通学すらまともにできない。
俺も来てからそれを痛感して、中古で1984年式のホンダ・アコードを買った。
この車、ロサンゼルス中どこに行っても見かける。定番車種らしい。家に置いてあるSunのコンピューターより安い。半額くらいだった。
車のことは正直よくわからない。
メジャーリーガーになって金が余ってきたら、フェラーリでも買えばいいんだろうか。
とはいえ、これまでの買い物で、持ってきた渡米資金はすでに半分近くが消えた。
まぁ、学生ローンの手続きが終われば、もう少し自由に使える金も増えるはずだ。
免許を取るのは超絶簡単だった。
筆記も実技も日本と比べると拍子抜けするほど緩くて、これで本当にいいのかと心配になるレベルだ。
取った後も、左車線を走ってしまうことが何度かあった。でも、すぐ気づいて車線変更したので多分セーフだと思う。
オートマ車なのは本当にありがたい。
ただし、たった4速しかないし、ギアが変わるたびに「コンッ」と衝撃がくるのが不思議な感覚だ。普通に乗り心地として不愉快だ。慣れるのだろうか。
あと当然の様に窓は自動じゃない。グルグルとハンドルを回さないと開かない。
1年の授業は基礎的な内容ばかりで、正直あまり面白くない。
コンピュータのもっと深い話を学びたくて来たのに、今はまだ前座って感じだ。まぁ、大学の1〜2年ってのは、どこもそうなのかもしれない。
数学の講義はまだ分かる。
けど、それ以外――特に人文系の授業はまったく歯が立たない。
今も謎のレポートを書かされている。
「ゲティスバーグ演説は南北戦争の目的をどう変えたか?」
……知らねえよ。
そもそもゲティスバーグ演説って何だ?ってとこからスタートだ。
アメリカ史をちゃんと学んできたわけじゃない俺には、いきなりハードすぎるお題。
しかもこれを3000語で書けっていうんだから、しんどいにも程がある。
広瀬先輩に聞けば、きっと一発で答えてくれる。
でも国際電話は高いので、2週間に1回、10分だけと決めている。こんなネタでその貴重な時間を潰すわけにはいかない。
結局、図書館にこもって、資料をかき集めて、意味が分かったような分からないような論文をどうにか完成させた。
結果は……C評価。
おそらく、英語が怪しい外国人学生への温情だろう。
大学生活は順調な感じでスタートした。多分。




