第44話 庄内デリバリー
ある日、俺は本郷キャンパスの研究室に紛れ込んでいた。
基本的に研究室配属されていない一年生がここに来ることはない。でも、数学研究会OB経由のツテをフル活用する事で研究室に居場所を作る事に成功した。
野球好きの教授と仲良くなって、野球を分析する野望について熱く語った。
俺の試みを面白がった教授の好意で研究室の隅に転がっていたUNIXマシンを使わせてもらえることになった。俺は一応学籍を持っているので、これくらいは教授の裁量の範囲で許可できる。
俺が使える事になったUNIXというOSは、Windowsと並ぶ──いや、それ以上に重要なOSだ。
スマートフォンや家電製品、ありとあらゆる機器が、いずれこの系譜に連なるOSで動くようになる。
この時代、UNIX搭載のコンピューターは大学や企業でしか使えないほど高価だった。のちにフィンランドのある人物がUNIX互換のOSを開発し、世界中に広めたことで、UNIX系のOSは世界標準OSとなる。それはもう少し先、90年代後半の話だ。
このUNIXでは、C言語が使える。
プログラミングをやったことがなくても、C言語の名前はどこかで聞いたことがあるんじゃないかと思う。
確かに古い言語だが、今でも多くの機械がCで書かれたプログラムで動いている。互換性が守られているのと、軽量なCPUでも動くという利点があるからだ。
ただ、今回の目的はデータ分析なので、C言語はあまり使わない。
C言語は数値計算には向いていない。そこで選んだのが、FORTRAN。
この時代の理数系が使う言語No.1だ。科学技術計算にはとても強く、データ分析ツールを作る上で必要な道具としては申し分ない。
現在、分析用のプログラムはBASICで書かれている。これは残念ながらこのUNIXでは互換性のない言語だ。
このプログラムをFORTRANに書き換える作業を、元数学研究会で東大二年生の山本先輩には依頼している。
元々のプログラムを書いただけあって、実装の腕は確かだし、俺のやりたいことも理解してくれている。
時給は5,000円。高いが、それに見合う価値はある。先輩の時給の原資は──まぁ、俺が金策で工面した。
FORTRANで書いたコードは、東大のスーパーコンピュータでも使える。
現在、教授の協力を得ながら、利用申請の手続きを進めているところだ。
いまデータ分析ツールで使っているパラメータは、実はまだかなり大雑把な設定だ。
それをスーパーコンピュータで最適化していく。
事前に予想された球種と、実際に来た球を比較し、予測精度を高める。そのためには、多くの要素を複合的に扱う必要がある。
単純な最適化問題ではなく、多目的最適化と呼ばれる種類の課題になる。解析が複雑になればなるほど、計算量は爆発し、計算資源の力がものを言う。
もちろん、高校野球で得たデータを使って導いたパラメータをそのままMLBに応用できるとは思っていない。
ただ、それぞれのプレイ環境に合わせて、最適なパラメータを導き出せる仕組みをつくる。それが目標だ。
山本先輩には、学部の卒業研究に匹敵するような作業を無茶振りしている気がするが……その分の報酬は払っている。どうか頑張ってほしい。
東大にあるスーパーコンピュータは、「日本初のスパコン」ともいわれる日立製のHITAC S-810。
ベクトル型と呼ばれる機種で、数値演算に特化しており、プログラミングの自由度も高い。
さすがに古さは否めないが、CPUクロックは700MHz。
俺が使っていたPC-9801のざっと200倍のクロックだ。
このスパコンの性能をわかりやすく言えば、家庭用ゲーム機のWii Uくらいか。あるいは、PS4の半分程度の性能とも言える。少々微妙な例えかもしれないが。
◇◇◇◇◇◇◇◇
とある平日の夕方、俺は顔に笑顔を張り付けたまま、小学生の男の子に野球を教えていた。
「お、バットの振り方、いい感じだね。もうちょっと肘を畳んで打ってみようか」
「はいっ!」
隣には、仕立てのいい服を着たおじさんが笑顔で腕を組んで練習を見守っている。
ここは大田区の高級住宅街にある一軒家。
ここで俺は時給5万円で雇われている。
──やっぱり、知名度ってのは現金に換えてこそ意味がある。
正直、東京でも俺の名前を知らない人間はいない。普段は迷惑でしかないその知名度も、こういうときばかりはありがたい。
週に何件か、富裕層向けに“家庭教師”のバイトを始めた。
とはいえ、実質的には野球指導だ。東大生という肩書きもあって営業は簡単。いまも新しい顧客を開拓しているところだ。
報酬はもちろん、ニコニコ現金払い。
実は日本では、現金で報酬をもらうと納税しなくても良いという素晴らしいライフハックがある。
俺が苦学生であることは、頼んでもいないのに新聞が盛大に宣伝してくれている。そのおかげで、バイト先では飯まで出してもらえることもある。
今回の顧客は特に気前がよくて、3時間分の報酬をくれただけでなく、知り合いを数人紹介してくれた。
入学してから、すでに何件かこなしており、手元には30万円がある。
渡米する前に、できるだけ荒稼ぎしておくつもりだ。アメリカではこの知名度は活かせない。
寮に戻ると、新しい依頼の連絡が郵便受けに入っていた。
公衆電話から折り返して日程を調整する。次は金曜日の夕方、渋谷区で2時間コース。
──庄内デリバリー、出動だ。
俺の指導は「優しい」と評判だ。
まあ、真剣に教えていないんだから当然だろう。
本気で教えようと思ったら、まず一日中筋トレをさせるだろうし、そんな練習が楽しいはずもない。
俺は野球をやっている全員がプロを目指す必要はないと思っている。
実際、高校・大学を経てプロに指名される確率なんて、わずか0.02%だ。
大きくなったとき、俺と撮った写真や、サインボールを見て「こんなこともあったな」と懐かしんでくれれば、それで十分だ。
多くの人間にとってスポーツは、楽しんで思い出を作るための道具にすぎない。
そういう意味もあって俺は体罰などには否定的だ。
プロを目指している学生に対しては好きにすればいいと思うけどな。明大の学生とか。
いや、やっぱりあの体罰はそういう次元を超えてやり過ぎかもしれない。
木製バットはとてもデリケートで人を殴る為にできていない。やっぱ人を殴るなら金属バットだな。
──という冗談は置いておいて、
俺はサインを書く為にいつもペンをポケットに入れている。
10秒で書いたサインが、誰かの一生の宝物になると思うと、なかなか簡単には断れない。
ただし、ひとつ学んだことがある。
この前、駒場キャンパスの正門前で出待ち全員にサインをしていたら、講義に遅刻してしまった。
こっそり講義に忍び込むつもりだったが、教室中から注目されてめちゃくちゃ恥ずかしかった。次からは裏門を使うつもりだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
昼休み、駒場キャンパスをひとりで歩いていると、後ろから声をかけられた。
振り返ると、広瀬先輩とその友達が立っていた。
「先週の試合、すっごくカッコよかった! もしよかったら、一緒にお昼どう?」
そう言いながら、隣の友達はずっとコクコク頷いている。きっと広瀬先輩本人の要望というより、友達の気持ちを代弁してくれたんだろう。
それでも、広瀬先輩とご飯を食べれるのは素直に嬉しかった。
話を聞くと、どうやら月曜からずっと俺を探していたらしい。
「駒場に全然いないよね」と軽く文句を言われたが、まあ仕方ない。
授業をさぼって、本郷キャンパスに入り浸っていたのは事実だから。
そのまま学食のテラス席で、先輩とその友達三人で昼ごはんを食べることにした。
周囲からの視線がすごい。だけど、先輩はまったく気にしていない様子だった。
野球部のチームメイトから聞いた情報によると、先輩は毎日のように告白を受けているらしい。
たしかに、あれだけの美人で、明るくて社交的。モテないわけがない。
そんな彼女が、“知名度だけはナンバーワン”の俺と話していたら、そりゃ目立つか。
テーブルでは、先輩の家で飼っている犬の話や、取っている授業の話に花が咲いた。
先輩は英語が得意らしく、お願いして話してもらうと、俺のジャパニーズ・イングリッシュとは比較にならないほど流暢だった。
話の流れで、うっかりアメリカ進学の話までしてしまった。
本当は秘密にするつもりで、母親と関係者数人くらいにしか言っていなかったのに。
先輩は目を輝かせて「いいなぁ、私も留学してみたい」と言っていた。
先輩の英語力なら問題ないだろう。俺の英語力は…、多分問題がある。
帰り際、「今週末、試合あるんだ。よかったら見にきて」と言われた。
それを伝えたくて、俺を探していたらしい。
俺の試合に来てくれたお礼に、俺も「じゃあ俺もテニスの試合見に行きます」と約束した。
ただ――
帰ってから思い出したけど、春季リーグってほぼ毎週末試合があるんだよな。
今週の日曜も、ばっちり早大戦が入ってた。
神宮での試合が終わったあと、ミーティングを抜けて即タクシーで移動すれば……ギリ間に合うか?
練習をサボってバイトしてるし、ミーティングを抜ける。
俺は少し不真面目な野球部員かもしれない。
カクヨムで新連載始めました。
もしよかったら読んでくれると嬉しいです!
異世界でゆるふわテロリスト 〜もし異世界人のエンジニアがマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』を読んだら〜
https://kakuyomu.jp/works/16818792439729321594




