第33話 塚口
秋季大会が終わると、野球部はオフシーズンに入る。俺はいま、大阪・日本橋に来ていた。
お目当てはスピードガン。価格は約40万円。この時代、1ドル250円程度だから、輸入物はとんでもなく高い。
本当なら、来年あたりに起きるプラザ合意で円高が進んでから買えばいい。でもそれを待っていたら俺が卒業してしまう。
プラザ合意で円は2倍の価値になる。この時代の経済政策は無茶苦茶なんだよなぁ。
スピードガンを買うのはもちろん投手の球速を測るのが目的だが、もう一つ理由がある。スイングスピードが知りたい。
今まではVHSで録画した映像をもとにフレーム単位で割り出していたが、正直しんどい。一人分出すのに一時間はかかる。
スピードガンはドップラー効果を使って速度を測定する。正確ではないが、相関性はある。
最悪スイングで使えなくても、投球速度には使える。だから買う価値はある。
日本橋は大阪屈指の電気街だ。東の秋葉原、西の日本橋、というのは少々言い過ぎだが、それでも雰囲気は似ている。
秋葉原の数分の一の規模とはいえ、電子部品やパーツ、工具がずらりと並ぶ街並みは歩くだけで楽しい。
「領収書は“飛鳥台高校 野球部”でお願いします」
顧問がそう言うのを耳にしながら、俺はカメラスタンドを探していた。
スピードガンを固定するためのものだ。バッティングフォームの高さには個人差があるから、スタンドの高さを微調整できるタイプが望ましい。
しばらくすると、店主らしき人が近づいてきて握手を求めてきた。サングラスにマスク姿でも、顧問の一言でバレてしまったらしい。
サインも求められたので、ぐにゃぐにゃした格好いいやつを書いておいた。
このサインはこの前考えた。最近求められることが多いので時間短縮の為だ。
顧問の話では、ちょっとだけスピードガンの代金を割引してくれたそうだ。
自分でも読めないサインが、割引券になるのなら儲けもんだな。
ただ、こうして不審者ルックをしないと歩けないのが、最近の悩みだ。
顧問とは現地で別れ、俺は荷物を抱えたまま不審者ルックで日本橋をぶらつく。帰りは尼崎まで帰るつもりだった。
意外だったのは、この時代の日本橋がまだ純然たる電子街だったこと。アニメショップがほとんど見当たらない。
クラスメイトと話を合わせるために、アニメグッズでも買おうかと思っていたが、肩透かしだった。
もちろんメイドカフェもない。観光しようとしていた俺は、ちょっとだけ落胆していた。
大阪の電子街である日本橋から尼崎に行くには、梅田を経由するしかない。阪神なんば線はまだ西九条までしか開通していないからだ。
必然的に地下鉄と阪急電車を使うことになるが、この出で立ちで阪急に乗るのはさすがに気が引ける。阪神電車なら、パンツ一丁でも周りから浮かない気がするんだが。
そんなことを考えながら、塚口駅前のさんさんタウンにあるダイエーで、コーラを箱買いしておく。実家ではコーラがいつも不足気味だ。まとめて買っておくに越したことはない。
ダイエーはこの時代、小売業界の王者だった。神戸発祥らしい。
将来プロに進んだら、きっと何かと縁もできるかもしれない。
家では母が出迎えてくれた。コーラを両手に抱えて帰ったことに小言を言われる。
テーブルにはリンゴが山盛りに並んでいた。
「今年は青森に帰らないから」
母の一言に、俺は頷く。電話線を抜かれた黒電話が、その理由のすべてを語っていた。
俺は何も聞かないことにした。
正直、年末年始に帰省してもやることがない。暇なだけだ。
塚口では声をかけられることもあるが、市内ほどではない。
途中、中学の同級生を見かけて声をかけたが、目をそらされた。たぶん気づかなかっただけだろう。
あの頃と違って、今は阪急帽をかぶっていないしな。俺ももう簡単にかぶれる立場じゃない。
少し散歩していたら、どこかで情報が回ったのか、子どもたちが群がってきた。
ダンボール、みかん、ロボットのおもちゃ、子供服……いろんなものにサインをする羽目になった。
このロボット、マジンガーZか? もう10年も前のアニメだから、続編かもしれない。
国鉄塚口駅は、昼間は閑散としているが、通勤時間帯には人が溢れる。
大手電機メーカーや製菓会社の工場が近くにあるからだ。
ただ、俺自身は国鉄を使わない。
料金は高いし、この駅には普通列車しか止まらない。都市部にありがちな贅沢な不満だ。
この地域の“あるある”で、国鉄の特急に特急券なしで乗って怒られるというのがある。
阪急の特急が無料だから、つい感覚で乗ってしまうんだ。
そのまま駅前まで歩いて、子どもたちへのサインを続ける。ペンを持ってきていて正解だった。
この時代、野球ファンは本当に多い。もっとも、そのほとんどは巨人と阪神のファンだが。
とはいえ、今後は野球人気が一時的に落ち込む。Jリーグが開幕し、空前のサッカーブームがやってくる。
令和の人間には信じられないかもしれないが、Jリーグブーム当時はJリーグの試合がゴールデンタイムに地上波で放送されていた。
小学生のなりたい職業ランキングでは令和になるまで、サッカー選手の方が人気になるほどだった。
差し出されたプロ野球カードの“ハズレ”にサインを書きながら、俺は願う。
この子たちが、10年後も野球を好きでいてくれますように――と。
ちなみに、子どもたちの言う“ハズレ”とは、どうやらパ・リーグの球団すべてを指すようだ。
俺は、全く無関係な高校生のサインが書き込まれてしまったオリオンズの三冠王、日本初の一億円プレーヤーのキラカードを、少しだけ撫でてから、少年に返した。
◇◇◇◇◇◇◇◇
母がこぼすところによると、最近は熱烈な阪神ファンからの電話攻勢に頭を抱えているらしい。
「庄内クンは絶対タイガースに!」と、まだ逆指名制度すら存在しない時代に、わざわざ実家へ熱意をぶつけられても困る。
そんな案件は海老江の阪神電鉄本社に言ってほしい。どうやら雑誌に掲載された「有望選手リスト」に俺の自宅電話まで載っているのが原因で、カープファン名物“座り込み戦術”を真似て、訪問してくる人までいるという。
母は疲れ果て、ついには黒電話の線を引っこ抜いた。青森の親戚からの“帰省しろ攻撃”より阪神ファンの勧誘のほうがはるかにウザいんだとか。
とはいえ最近は、交番と自治会の巡回で家の前の“張り込み”は一掃されたそうだ。後日、差し入れの菓子折りを持ってお礼に伺おうと思う。
野球部直通の番号を非公開にしているのも理由の一つだと思うけど、阪神ファンは野球熱の濃さゆえ、分母が大きい分“濃い”人も多い。
毎晩地上波で放送される阪神戦、たまに放送されない巨人戦。地上波で野球を浴び続ける土地柄だから当然か。逆に阪急・南海・近鉄の中継をほとんど見た記憶がない。
「ガバガバ個人情報保護め……」と愚痴りつつ、俺は手元の雑誌をめくる。俺の住所も電話番号も丸見えだ。
俺は記者の個人情報はあらかた握っているので、PC通信でこっそりばら撒いて、少しは痛みを思い知ってもらおうか――などと軽く復讐心が芽生える。
そんな事を思いながら、久々に同じリトル出身の友人へ新年会の誘い電話でも掛けるかと、黒電話のコードを壁に挿した瞬間にベルが鳴った。受話器を取ると、案の定「庄内クンは阪神に来てくれるよね?」の大合唱。……母が線を抜きたくなる気持ちもわかる。
肝心の友人には「悪い、年末はムリ」とあっさりフラれた。きっと忙しいだけだ。きっと……。




