第3話 初めての試合
一周してベンチに戻ると、監督が満面の笑みでハイタッチしてくれた。
数合わせで入った新人がホームランを打って、そりゃあご機嫌だ。
「打ち方、いいか?こうやって上から叩くんや。やってみろ」
そう言いながら見本を見せてくる。俺は言われた通りに、慣れないダウンスイングをやって見せた。
「筋がええなあ」と褒めてくれた監督に、
「でも俺、ダウンスイングじゃ打ちませんよ」なんて言えるわけもなく、「はいっ!」と元気よく返事をした。
守備機会は4回表。
二遊間の深い所に転がってきたボテボテのゴロを、ステップを意識して捌く。そして一塁に――ヘロヘロの送球。当然セーフ。
「うーん、ライト前ヒットがセカンドヒットになっただけだったな」と心の中で苦笑い。
第2打席は、ライト前に落ちる二塁打だった。
普通ならシングルヒットだけど、処理にもたついてる間に二塁まで走れた。
スコアボードのエラー欄は“0”のままだ。スコアラーをしてくれてる保護者の人に、そこまでの厳密さは求められないよな。ボランティアなんだし。
塁上から投手を見た。
リトルリーグではリードは禁止されてるけど、それでも盗塁できそうなくらい投球のクセが出てる。
でも、身体が仕上がってないうちに無理はしたくない。走力でアピールするのはまだ先でいい。
試合は5回表、うちの二番手投手が打ち込まれて逆転され、そのまま1−3で敗戦。
ウチのエースは悪くない投手なんだけど、二番手がなぁ……ストライクが入らないと、試合にならないよ。
試合後、母と一緒に帰路につくと、母は満面の笑みだった。
「ホームランだなんてすごいわね! こんなに活躍するなら、グローブとバット買ってあげなきゃ」
その言葉に、内心ほっとした。チームの用具を借りていたが、特にグローブが使いづらかった。変な癖がついてるし、そもそも外野手用だったし。
翌日、俺たちは西宮へ向かった。西宮は僕の最寄駅と同じ路線にある繁華街だ。
スポーツ用品店を何軒も回ったが、なかなか「これだ」というグラブが見つからない。
あるにはあるんだ。ただ、良いものはとにかく高い。
妥協に妥協を重ねてようやく選んだグラブは、1万円ちょうど。
「これ、1万円もするのね」と言いながら、母はそれをレジに持って行った。
本当にありがたかった。
その足で、母は西宮球場にも連れていってくれた。
パリーグの球団、阪急の本拠地だ。
「せっかくだからホームランボールを取ってね!」と上機嫌で、買ったばかりのグラブを左手につけさせる。
新品は革が硬いし、慣らしたいし、本当はちゃんと手入れしてから使いたかったけど――母が嬉しそうにしてるのを見て、何も言えなかった。
チケットは新聞屋さんでもらってきたらしい。パ・リーグ名物のタダ券ってやつだ。
一塁側内野席に入ると、休日だってのにガラガラの客席が広がっていた。
外野席なんかもっとひどい。おっさんたちがキャッチボールしてる。
「……これは、なかなかだな」
心の中でつぶやいて、母を見ると、周りの様子を気にすることもなく、ミノルタの小型カメラを構えたまま、ニコニコと俺にいろんなポーズを要求してきた。
――母よ、内野席では、ホームランボールは取れないんだぜ。
そう突っ込みたくなる気持ちを抑えながら、俺は笑顔でポーズを取っていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
記憶が戻った日から、俺はテレビの前で選手を分析する練習をしていた。
とはいえ、アナログテレビでは限界がある。画質の粗さで、ボールのコースがなんとか分かる程度。変化球の種類なんて見分けがつかない。
でも――球場なら違った。
グラウンドの全体が見える。打球の軌道も、守備の位置取りも、投手のフォームも、テレビとは比べ物にならないほど鮮明だ。
連れてきてくれた母に、素直に感謝した。
もちろん、前世で当たり前のようにあったトラッキングシステム――回転数や回転軸、初速・終速の計測なんてものは、ここにはない。球速表示さえない球場だ。
でも、そんなの関係ない。目の前の投手がどんな球を投げて、打者がどう反応するか。それだけで十分だった。
この球場、西宮球場は特にグラウンドが近い。
スタンドからでも、選手の表情が見えるくらいだ。
ファンのおじさんが選手と口論してる場面もあって、ちょっと笑ってしまった。プロと距離が近いって、こういうことなのか。
俺は普段から持ち歩いているノートを膝にのせて、両チームの投手陣を記録していった。
この日、1回表にマウンドに上がったのは阪急の長身右腕――野口。
セットポジションを使わず、常にワインドアップで投げている。
「これ、走られ放題じゃないか?」と思ったけど、意外にも走者はあまり走らない。
一度だけ盗塁を試みた選手がいたが、鋭い送球で見事にアウトにされた。捕手の肩がいいのか、投手がタイミングを上手くずらしているのか。
牽制はあまり上手くないように見えた。モーションが大きくて、牽制球も単調だった。
でも、そんな粗はあっても、ワインドアップから投げ込まれるストレートは圧巻だった。
スピードガンはないけど――150km近く出ていてもおかしくない、そんな迫力。
ちなみに阪急の試合を見るのはこれが初めてだ。テレビで放送されているのを一度も見たことがないから、選手のクセや投球パターンを観察できる機会は貴重だった。
初回はさっぱりだったけど、中盤になるとようやく配球の傾向が見えてきた。
サインをのぞく限り、球種の組み合わせや配球パターンはそこまで複雑ではない。
ときどきランダム性を入れてはいるけど、全体的にはセオリー通りのリードが多い。
球種までは遠目では分からなかったけど、リードの読み合いを追うだけでも十分面白かった。
ノートにペンを走らせていると、母がフランクフルトを持って戻ってきた。
チラリとノートをのぞいたが、何も言わなかった。
テレビの前で俺がいつも書き物をしてるのを知ってるからだろう。驚く様子も、呆れる様子もない。ただ、ふふっと微笑んで、隣に腰を下ろした。
けれど、どうやら母は少し――いや、かなり退屈しているようだった。
せっかく球場に来たのに、野球のルールがよくわからないんじゃ楽しめない。
「お母さん、自分の試合を見るときも、ルール知ってたほうが面白いよ」
そう言って、俺は即席の“母向け野球講座”を始めた。
ストライクって何? ボールってどう違うの?
リード?タッチアップ?
母は最初は首を傾げてたけど、次第に興味を持ってくれた。
うなずきながら俺の話を聞いてくれて、時折質問も飛んでくる。
ルールを覚えるってより、俺の話を聞いてくれてるって感じだったけど――それでも嬉しかった。
フランクフルトの香りと、照り返すような夕日の光と、母の笑顔。
プロの試合を見ながら、俺は改めて思った。
「野球をやれるこの世界に、もう一度立てたんだ」って。




