第25話 ビッグボス
次の試合は、ひどい乱打戦になっていた。
相手の徳島三好は、前年の夏に優勝した名門だったが、代替わりに失敗していた。まともな投手がいない。まあ、うちも人のことを言えるほど投手層が厚いわけではないが。
それでもここまで勝ち進んでこられたのは、ひとえに打線の力だろう。
7回表の徳島三好の攻撃を終えてスコアは6対9。飛鳥台がリードしている。
ここまでの俺の打撃成績は、スリーベースにツーランホームラン、そしてソロホームラン。センバツ高校野球の1試合最多本塁打記録は「2本」だ。あまりにも少なすぎる記録だと前々から思っていたし、いつか更新したいと願っていた。
そしてこの試合、いまがそのチャンスだ。富浦先輩の球数はすでに140球を超えていて、次の回から俺がマウンドに上がる予定になっている。つまり、打者として集中できるのはこの打席が最後。
投げながらホームランを狙うなんて芸当は、俺には無理だ。
マウンドには事前情報のなかった控え投手が立っている。徳島三好も、さすがに9点も取られればエースを下げる。普通の判断だ。
そして、1アウトでランナー二人。こんな状況なので、俺と勝負してくる空気はまったくない。案の定、キャッチャーが立ち上がった。敬遠だ。
――それでいい。いや、むしろ正しい選択だ。俺がそこまでの強打者でなくても、ここは満塁策が定石だ。次の打者でゲッツーが取れれば、最小失点で済む。バッテリーとしては当然の判断だろう。
一球目、大きく外れて高め。完全に外しにかかっている。主審も気を抜いているのか、ぼんやりとした態度でボールを宣告。だが、俺は感じた。これは――いける。
一応アリバイ程度にベンチを見る。監督は俺には目もくれず、富浦先輩をなだめていた。先輩は「最後まで投げたい」とごねていたからな。……とはいえ、敬遠とはいえ、バッターを見もしないのはちょっとひどくないか? まあ、サインもなしということは、好きにやれってことなんだろう。監督の聡明な判断にはいつも感心する。
二球目もかなり遠い。そして三球目――漫然と投げられたその敬遠球を、打席から左足を思いっきり「外して」踏み込み、ぶん回した。
打球は信じられないほどの速さでライトへ。そしてラッキーゾーンの中に突き刺さった。
甲子園が、静まり返った。
まるで全員が時を止められたかのようだった。俺だけが動いているような、そんな錯覚。
ようやく動き出したのは一塁塁審だった。我に返ったように、手をぐるぐる回す。その瞬間、甲子園球場が轟音のような歓声に包まれた。
ホームベースに帰ると、先輩たちに頭をガンガン叩かれて祝福される。
「よく敬遠打ったなお前!」
「失敗したらどうすんねん、アホちゃうか! ……でも、よくやった!」
痛い。これパワハラだろ。脳天まで響いた。
一方、相手ベンチでは監督が激昂し、審判に抗議しようとして選手に止められていた。高校野球では、監督が直接抗議すると退場になるという謎ルールがある。
監督の代わりに出された伝令が、主審に食い下がっていた。主審は何度も首を振って対応。俺はその様子を横目に、ベンチで祝福という名の暴行を受け続けていた。今、どさくさに紛れて誰かにケツを蹴られた。振り返ったが、誰がやったのかは分からなかった。
伝令の抗議は5分近く続いたが、最終的には塁審たちも集まって協議の末、押し返されてベンチに戻された。試合再開。つまり――この一発は、正式に「ホームラン」として認められた。
これで俺は、センバツ史上初の1試合3本塁打を達成した。
やったぜ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
スコアは6対12。
相手投手は明らかに動揺していた。俺の敬遠ホームランの直後、四番にフォアボールを出し、五番には痛烈なホームランを浴びてしまう。
これで6対14。
試合が完全に壊れた。
さて、種明かしをしよう。
普通、敬遠された球を打つことはできない。ましてや、それをホームランにするなんて、なおさら不可能だ。
理由は単純。物理的にバットが届かないからだ。届いたとしても、バットの先っぽでは力が伝わらず、まともに飛ばない。
そこで俺は、打席から大きく左足を踏み出し、ホームベースをしっかりと踏みこんでリーチを伸ばした。
だからこそ、バットのスイートスポットで捉えることができたのだ。
……では、これがルール上どう扱われるかというと、実は「アウト」である。
野球規則 6.06
打者が片足または両足を打席外に置いて打った場合は、(中略)バッターはアウトを宣告される。
つまり、俺のホームランは、厳密には反則だった。ちゃんと見られていれば、即アウトである。
ただし――審判は、打者の足元なんて見ていない。特に敬遠のような漫然とした場面では、集中力が切れている。
この作戦は、未来の阪神のスーパースターであり、後に日本ハムの名物監督となる男が放った「敬遠打ちサヨナラヒット」から着想を得た。
敬遠球をヒットにするなんて、あまりに面白すぎるプレイだ。
彼は、ただの面白監督ではない。プロ野球の歴史に名を刻んだ名選手であり、迷選手でもある。
申告敬遠が導入された令和のプロ野球や高校野球では、もう不可能になったこのプレイ。だが、この時代ならまだ有効だった。
もっとも、これが一発限りの奇襲であることは分かっている。今後俺を敬遠する投手は、もっと大きく外してくるだろうし、VHSで見返されれば、あのプレーが“反則打法”だったこともすぐにバレてしまう。
ちなみに阪神のスーパースターの「敬遠打ちサヨナラヒット」も、ルール上ではしっかり反則打法だ。
だが、それでもいい。記録に残る本塁打として成立したのだから。
7回裏、俺はマウンドに上がった。
バッターの視線が強烈すぎて笑ってしまう。完全に大振り狙いになっていて、打ち取りやすい。
俺はこの春、初めて「本気の投球」を行うことにした。
俺の武器――シンカーはなかなかの出来だ。怒り狂った野手を相手にするにはちょうどいい。淡々と打ち取っていく。
8回裏、さらに点が入り、俺に再び打席が回ってきた。
相手投手の目は据わっていた。あ、これは──。
俺の胴体めがけてボールが飛んできた。余裕で避ける。帽子を取って謝ってくるが、次の球も、明らかに死球狙い。
さすがにタイムを取って主審にアピールする。明らかに故意死球だ。
主審は深いため息をつき、やや面倒くさそうな顔で「警告試合」を宣言した。
これにより、この試合では以後ラフプレーがあれば即退場になる。
もちろん、何も悪くない俺たちにも規制がかかるのは理不尽だが、自分の身を守るためには仕方ない。
その直後、キャッチャーはホームベースから大きく離れた位置で捕球する、露骨な敬遠体勢を取った。
ちょっと離れすぎだろ。ウケる。
大荒れの試合はそのまま終了し、俺たち飛鳥台が勝利した。
前年夏の屈辱──あの1点差での敗北。その借りを、ここでついに返すことができた。
江崎先輩。そして引退していった先輩たち。
徳島三好に打ち込まれたあなた達の仇は、俺たちがしっかりと取りましたよ。
今ごろ草葉の陰で、喜んでくれているはずだ。
……ちなみにウチの元エースの江崎先輩はかなり頭が悪かったのに、明治大学への野球推薦が決まっている。
六大学野球を勧めたのは、ほかでもない俺だ。
だが、正直なところ――あのバカが名門大学に行くなんて、世の中って本当に理不尽だと思う。
球場は、まだ俺のホームランの衝撃が残っているのか、ざわざわと落ち着かない空気のままだった。
スタンド全体がざわめき、興奮と混乱が入り混じったまま沈静化の兆しもない。
そんな中、ふと視線を相手のアルプス席に向けると──
阿波弁混じりの怒声が聞こえた。
「このアホー!」「卑怯者ー!」
──江崎さん聞こえますか?オレ達から貴方への鎮魂曲です。
そして、試合終了後。俺たちがベンチ裏へと引き上げるときも──
球場のざわめきが静まることはなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
翌朝の朝刊──俺たちは一面を、まるごとジャックすることに成功していた。
いや、正確に言うとジャックしたのは「俺の3本目のホームラン」の写真だ。
左足を思いっきりホームベースに乗せて、敬遠球をフルスイング。
打球がライトのラッキーゾーンに突き刺さった、その瞬間の一枚。
“敬遠を打ってホームランにする”──
そんな前代未聞の出来事に、日本中が仰天していた。
けれど、意外なほどに世間の反応は明るく、面白がっている様子だった。
相手チームの監督はインタビューでブチギレていた。
「スポーツマンシップに反する!」とか「審判の目は節穴か!」とか、まあ言いたい放題だったけど。ウケる。
だが、俺を責める記事はひとつもなかった。
責められていたのは、甘い敬遠を選択したバッテリーと、足元を見落とした審判の方だった。
それでも、試合後にうちの飛鳥台高校には“祝福”の電話が殺到していたらしい。
不思議なことに、その多くが阿波弁だったそうだ。
監督には嫌味を言われたが、俺は「サインなかったですよね?」と、
ノーサインの一点突破で正当化を貫き通した。
うん、これは作戦勝ちだ。
テレビをつければ、どのチャンネルでも俺のホームランが繰り返し流れていた。
普段は高校野球に厳しいコメンテーターたちまで、爆笑しながら「伝説だ」「もはや芸術」とまで言っていた。
……さすがに仲間からの冷やかしが鬱陶しくなってきたので、俺は外出することにした。
煙草屋でスポーツ新聞でも買って、ひとりでニヤつこうとホテルの外に出た瞬間──
大歓声が上がった。
目の前には、差し出される色紙、色紙、色紙。
足を止めるたびに増える人だかり。前に進めなくなる。
岸原。
あの日、お前が銀行強盗みたいな格好で喫茶店に来たのを笑ったけど──
あれ、正しかったよ。
気づけば俺も、岸原、桑原のKKコンビに並ぶスーパースターになってしまったようだ。
もう、この街はまともに歩けない。




