第16話 泥まみれの死闘
一回戦は勝つことができたが、頭を切り替えなければいけない。
次の試合の徳島三好高校の分析を始める。
夏春連覇中の優勝候補筆頭チーム。
夏の甲子園に来ることは春の段階でほぼ確実視されていたので、データはかなり集まっていた。
先発はこの時代の標準、1エース制。ただし地方大会で投げた控え投手が2人いる。
準決勝で投げた1人については2イニングだけ映像があり、おおよその球筋は見えたが、もう1人はデータがない。準決勝まではテレビ放送がなかったのも痛い。
徳島三好のエース・大嶋については、完全に丸裸にしてある。
春の分も含めて試合数が多く、各局が取り上げてくれていたのがありがたい。
今回はミーティング前に表を配布した。
その上でVHSを再生し、2ストライク1ボールの場面で一時停止。
「このあと何が来ると思う?」
ほとんどの選手が「高めのストレート」と答えた。
その通り。このバッテリーは2球連続でカーブを見せたあとの勝負球は、高めの速球で空振りを狙う。定番の緩急配球だ。
投手の分析に加えて、打者の分析も試みてはいたが、あまり上手く行ってない。データも少なく精度も低い。
徳島三好は全員フルスイング。個々の打撃技術よりも、徹底したスイング哲学で強引に打ち勝ってきた。
つまり、「歴代最強打線」といって差し支えない。対策できることは特にない。
試合は中4日。
朝から甲子園の上空はどんよりと曇っていた。
朝に雨が降ったらしく、土の質感も違う。阪神園芸の仕上げは見事だが、やはり細かいバウンドの変化は気になる。
内野ノックの時間でしっかりと跳ね方を確認する。守備はグラウンドを信用しすぎてはいけない。
そして試合が始まった。
初回表、飛鳥台の攻撃。
徳島三好はまさかの二番手投手を登板させてきた。
想定していた大嶋ではない。
エースで来ると思っていたので、少し当てが外れた。が、対策は一応はできている。
一打席目、ランナー一塁の場面で回ってくる。
俺は今日は特に気合いを入れていた。
今日のスポーツ紙の朝刊を独占していたのは、PF学園の岸原のホームラン。1年での甲子園本塁打だ。あいつが打てて、俺が打てないわけにはいかない。
初球は外角、逃げるような変化球。読み通り。
二球目、低めにフォーク。見送りでストライク。
三球目、高めに抜けたフォークを思い切りフルスイング――だが、かすかに芯を外した。
曇り空に放物線を描いた打球は、定位置から動かなかったライトのグラブに収まった。ライトフライでアウト。
ちょっと力んだな。抜け気味で変化量が少なかったのも誤算だった。
裏の守備、江崎先輩がいきなり2点を失う。
でも、すぐに2点取り返して2-2。
俺の2打席目は、また外野フライに終わった。
徳島三好の打線は凄まじい。
とにかく全員が全力のフルスイング。
これが甲子園、そしてラッキーゾーンを活かす最適解なんだろう。
来年からはチーム全員をアッパースイングでフルスイングするスタイルに矯正した方がいいと思った。時間はかかるが、勝つためには必要な変化だ。
3回裏、相手の4番がスタンド中段に突き刺さる特大のソロホームラン。
江崎先輩が投げた球は決して悪くなかったが、相手が悪かった。
4回表、2-3で一点リードされている。打席に向かう前に監督が声をかけてくる。
「かなり大振りになってきてるぞ。お前らしくない。ここで1点とれるかが勝負や。転がしてつないでくれ」
俺は元気よく「はい!」と答える。
ランナーが2塁。狙うのはもちろんホームランだ。
1球目、高め。フルスイングで空振り。
監督がこちらを見て、首元を掻いて、右膝をタッチ……。
蚊に刺されて痒いのかな。俺は転がし指示のサインを見なかったことにする。
2球目、甘いカーブ。スルー。
3球目、低めに来たストレートを思いきりすくい上げた。
打球は高い弾道を描いて、曇天の空へと上がっていく。
「入るか……?」
手応えは悪くない。だが完璧とは言えなかった。
確信歩きするには微妙な当たりだった。確信歩きして、ただのフライだったら恥ずかしいからな。
俺はバットを投げて、全力で一塁へ走り出す。
ぎりぎりか。いや、伸びてる。いける、か?
球場が静まり返る中、打球はそのままライトスタンド、ラッキーゾーンに吸い込まれていった。
歓声が聞こえる。三塁塁審が頭上で腕を回しているのが見える。
ツーランホームラン。逆転だ。
ベンチに戻ると、監督の背中への祝福ビンタがいつもの3倍強い気がした。逆転打を打ったのに酷い扱いだ。
雨が降り始めた。
4回裏、江崎先輩が死球。太もも。滑ったか?
ゲッツーで救われるが、そのあとにソロ被弾。4-4。
さらに二失点で4-6。流れが不穏だ。
6回表、グラウンド整備で試合が中断。
銀傘のない外野席は閑散としていて、アルプスの応援団もずぶ濡れで頑張っている。
あとで何か差し入れしないとな……選手より応援のほうが過酷かもしれない。
七回表、雨が本降りになってきた。
一死一三塁、俺に打順が回ってくる。
空を見上げる。止みそうにない。このままだと、試合が成立する可能性がある。
つまり、この回が終わって七回裏が行われなければ、後攻がリードしているためにそのまま徳島三好の勝利になる。
公認野球規則のコールドに関する規定の通りだ。逆に言えば、ここで同点以上に追いつけば成立条件を満たさず、試合は継続される。
監督を見ると、サインは「好きに打て」だった。
お墨付きだ。ホームランを狙う。
初球、抜け気味のスライダー。
迷わずフルスイング。
弾道は高く、綺麗な放物線を描いてライトスタンドのラッキーゾーンに突き刺さった。
逆転のスリーラン。7対6。
雨で沈みかけていたベンチが沸く。
この一発で、徳島三好のエース・大嶋を引っ張り出すことができた。
ただし、この状況ではもう遅いかもしれない。
雨脚はさらに強まっており、マウンドに立つ彼の表情には明らかに投げにくさが出ていた。
内野はすでにグチャグチャだ。ボールを前に転がせば守備はまず不可能だ。
監督からのサインは「ゴロを打て」。
だが、四番は気合いが入りすぎて外野フライを打ち上げてしまった。攻撃終了。
7-6、逆転はしたが、ここでグラウンドにシートがかけられる。
試合中断。空は鉛色に染まり、球場全体が沈黙に包まれた。
おそらく今日の試合はこれが最後だ。
だが、この試合の行方だけはまだ決まっていない。
審判団が集まって話している。
このまま終了すれば、ノーゲーム。再試合だ。
だが、やがてシートが外され、阪神園芸のスタッフが水たまりに白い砂を撒いていく。
どうやら試合は続行されるらしい。無理やりにでも。
セカンドに走って守備に就く。
この回からウチは二番手の山本先輩。
俺に出番はなかった。
俺は「打たせて取る」投手だ。
こんなグラウンドで打たせたら全部ヒットになる。出なくて正解だ。
ピッチャーは足元が滑って投げにくそうだ。
速球はさらに遅くなっている。
一つ目のゴロ、完全に水たまりにボールが止まり、俺が拾って一塁に投げるもセーフ。
スコアボードにはエラーの「E」はつかなかった。記録員に人の心があったようだ。
そして、ランナーを溜めた状態で、徳島三好の四番。
投げられたスライダーは雨のせいか真ん中に抜けた。
フルスイングされた打球は、一直線にラッキーゾーン内側に飛び込んだ。
打者が本塁を通り過ぎた時点で、主審の拳が天に掲げられる。
「試合終了。雨天コールドゲーム」
ベンチは沈黙した。
ああ、終わった。勝てると思ったんだけどな。
でも冷静に考えれば、雨がなくても長期戦になればウチは負けていただろう。
打力の地力は向こうが上。
温存していたエースが最後に控えていたし、勝負を決められる場面はここしかなかった。
相手の校歌が流れた後、先輩たちはスパイク袋に土を詰めていた。
甲子園の土。
直前に阪神園芸が新しい乾いた土を補充してくれていた。
が、補充されたその土も、容赦なく泥へと変わっていた。
俺はその光景を黙って見ていた。
今回は俺は土は持ち帰らない。
理由は単純。袋から泥が漏れて荷物がぐちゃぐちゃになりそうだから。
次に来るときは、ちゃんとビニール袋を用意しておこう。
また来れるだろう、きっと。
俺はまだ一年だ。雪辱を果たす機会は残っている。




