第13話 一年生夏 地方大会
5月になり、夏季大会のメンバーが発表された。
俺は、一年生で唯一メンバーに選ばれた。
日頃の真面目な練習態度――という名の、安定した打撃成績と走力と守備力と、まあそのへん全部の総合力のおかげだろう。
そして、俺の高校野球初めての“夏”が始まった。
奈良県大会は、だいたい5〜6試合勝ち上がれば、甲子園への出場権が手に入る。
ウチはシード校になっている……が、奈良は全体で40校という中途半端な規模なので、シード校は実質“山の形を整えるための存在”だ。つまり、シードになって当たり前ということ。
初戦の相手は公立校。
練習はサボって、敵情視察に向かった。もちろん今回も、顧問の古文教師をアシとして同行させている。
試合を見ていたが――どっちが勝っても、負ける気はまったくしなかった。
途中からは観戦に飽きてしまい、スコアを取るのをやめて、構想中のプログラム設計に意識を切り替えた。
手元には統計学の入門書。
ベイズ推定を活用したモデルがいちばん目的に沿っていそうなのだが、PC-9801の処理速度では正直、荷が重い。
加えて、中間計算に必要な一時データを格納するメモリも足りない。外部記録装置で強引に処理することもできるが、実際の運用を考えるとあまりにも煩雑すぎる。
なにしろ、このPC-9801には標準で128KBしかメモリがなく、俺が奮発して増設しても256KBだ。
その制約の中で使える現実的な手段として、ナイーブベイズという簡易的な手法を採用することにした。
これは、カウントや打者の左右など、特徴ごとの出現傾向を使った推定手法で、必要な計算量も軽く済む。
これに加えて、以前から使っていた条件付きマルコフ連鎖の結果を重みとして重畳すれば、メモリの制約内でも十分な予測精度が得られる。
少なくとも、フロッピーをカチャカチャ差し替える羽目にはならないだろう。
そんなことを考えながら、試合場に向かう途中で買った瓶入りのコーラを飲む。
顧問の古文教師は、俺の様子に気づかず、律儀に配球を記録してくれていた。健気だ。
ちなみに、顧問のデータはまだ使い物にならない精度だと判断しているので必死に取ってるものは死蔵される事になっている。
◇◇◇◇◇◇◇◇
俺たち、飛鳥台高校の夏が正式に始まった。
初戦の相手は、前に視察に行ったあの公立校。
俺の打順は3番。4番という案もあったが、俺が「3番の方が打席が多く回る」と説明して変えてもらった。
この時代は何も考えずに強打者は4番という強迫観念に近いものがあった。
初回、ウチが先行だ。2番がフォアボールで出塁し、俺の第1打席。
完璧な当たりだった――が、惜しくもスタンドには届かず、フェンス直撃のタイムリー三塁打。
とりあえず先制点。これで1点。
後続も続いて2点目が入った。
今日はエースを温存する方針らしい。
裏には二番手エースの三年生、齋藤先輩がマウンドに登った。
試合は終始、こちらのペースだった。
ただ、俺には手加減して空振りするような芸当はできない。
手加減は必死にやっている相手に失礼だ、というのは建前だ。本音では高校通算成績という数字はプロ入り時に意外と重要視されるから伸ばしておきたい。
たとえ打ちやすい投手相手でも、記録は記録だ。抜け目なく積み重ねておくべき。
この日は4打席で、1本塁打・1安打・1四球・2打点。まずまずの成績だった。
5回表の時点でスコアは13-0。おそらく裏でコールドになるだろう。
投手のリソースは有限だ。
できるだけ早めにコールドで決着をつけておくのがベストだ。
水筒に入れてきたコーラを飲みながら、ベンチで観戦する。
本当は瓶ごと持ってきたかったが、ベンチにガラス容器の持ち込みは禁止。仕方なく寮で移し替えてきた。
ペットボトルなら……とも思ったが、この世界でまだ一度もペットボトル飲料を見たことがない。
CMで見た記憶はあるので、どこかには存在しているのだろうが。
先輩たちも、打点を稼ぐチャンスと見て、気合いが入っている。
あ――また打った。
◇◇◇◇◇◇◇◇
4試合目、準決勝の相手は優勝候補・丹波市高校。
彼らは3回戦で、もうひとつの優勝候補・五條高校との延長11回に及ぶ死闘を制して勝ち上がってきた。
この試合は事実上の決勝戦と言ってもいいだろう。
丹波市高校のデータは、ほぼ完璧に揃っている。
練習をサボって球場に通いまくった成果だ。授業中も電卓を叩きながら配球を計算し続けてきた。
監督と相談して、対戦投手の配球予測表をチームに配ったとき、チームメイトの反応は「?」だった。
投手と打者の真剣勝負に“統計”を持ち込むという発想がまだ一般的ではない時代だ。疑われても仕方がない。
だが俺の高打率がこの表に基づく予測と説明すると、少しずつ興味を持ってくれた。
実を言うと俺は、フォームやクセを盗んでいるし、身体能力で押し切って打率を維持しているのだが、そこは言わないでおいた。
スタメンは野球推薦とはいえ、一応は地域有数の進学校の生徒たちだ。
数日で予測表の読み方はマスターしてくれた。
「補講は野球部の集会所になっている」なんて噂を聞いたことがあって少し不安だったが、どうやら杞憂だったらしい。
選手一人一人に配った予測表は、カウントや前球によって参照する内容が変わる構造になっている。
紙媒体での限界もあるので、似た条件は主観的に判断して表を統合してある。
この“類似条件の集約”は、将来プログラム化したとしても、結局は人間の判断が必要になるだろう。
印刷は今回もガリ版だ。
学校にはラインプリンターという業務用のプリンターがあると聞き、顧問に頼んで使わせてもらったが……使い方がわからなかった。
活字ドラム式というらしい。新聞の印刷のように活字を金属のドラム上に設置するらしいが、よく分からなかった。
結局、今回はガリ版をカリカリして手刷りした。次からは顧問に原稿を渡して任せるつもりだ。
1回表、丹波市高校の攻撃。
エースの江崎先輩がいきなり打ち込まれ、2点を失った。
丹波市はとにかく打撃がすごい。関西全体でもトップクラスの打線だろう。
裏、ウチの攻撃。
1番・2番は出塁こそできなかったが、合計15球を投げさせた。上々の立ち上がりだ。
ネクストバッターズサークルで、1番打者と短く話す。
「表の精度、思ってたより高い」と感想をもらった。
ただ、審判がアウトコースを広く取っているらしく、見逃して三振になったのは誤算だったらしい。
この試合の目標はただ一つ。
“丹波市のエースをマウンドから引きずり下ろす”こと。
3日前に延長11回を投げ切ったエースがそのまま登板してきている。疲労は間違いなく蓄積しているはずだ。
そして、丹波市には代わりがいない。
データで配球が読めていれば、カットして粘ることは容易だ。
俺の第1打席、カットの嵐を浴びせた。
10球近くカットを繰り返すと、明らかに外してきた。歩かせてでもよかったのだろう。まぁ、正解だと思う。
塁に出た俺は、ここからが本領発揮だ。
俺は前世で唯一獲得したタイトルは“盗塁王”だった。塁上での動きには自信がある。
この時代、ピッチャーがランナーを意識してフォームを変えるという文化はまだ薄い。
丹波市のエースも、ランナーがいてもワインドアップで投げてくる。
塁に出た俺は、明らかに大きなリードを取った。
ベースからの距離は、足の速さに自信がある奴でもなかなか取らないほどだ。
でも、俺は行けると分かっていた。ピッチャーの癖も、牽制の間の取り方も、すべて見切っている。
案の定、丹波市のエースが動揺した。
一度、ピクッと肩が動いたかと思うと、すぐに牽制球が来た。
戻る動きは見せかけだけ。すでに想定していたタイミングだったから、何の苦もなく戻れる。
一拍置いて、二度目の牽制。
今度は球速が少し速い。だが、タイミングがほとんど同じだ。
そして、ようやく打者へと意識を戻した瞬間――俺はスタートを切った。
左足の初動で、重心を一気に前に落とし、頭を低く構える。
フォームは完全に盗んでいる。セットポジションに入らないタイプの投手は、モーションが大きすぎる。
この一瞬で、勝負は決まった。
捕手が慌てて立ち上がって送球するが、俺はすでにベース上にいた。
塁審が両手を広げる。セーフ。
俺は三盗(3塁盗塁)は基本的にやらない事にしている。リスクが高く、得点期待値的にも微妙なので基本的にはやらない。怪我のリスクもあるしな。なのでここで盗塁は打ち止めだ。
4番の先輩も、普段の豪快なスイングを封印してカットに徹してくれた。
“全員で粘る”という戦略が浸透している証拠だ。
5回表終了時点でスコアは6-5。1点ビハインド。
だが俺はもう、この試合は勝てると確信していた。
丹波市のエースは限界。
6回からは二番手の2年生が登板してきた。球速はあるがコントロールが荒れ気味で、正直強豪校の打線には通用しないタイプだ。
結果として――ウチは一気に畳みかけた。
7回表終了時点で8-15、7点差。規定によりコールド勝ちとなった。
整列時、丹波市の選手の中には、涙をこらえきれず支えられながら並ぶ者もいた。
昨年の奈良県代表として、準決勝敗退は想定外だったのだろう。
正直に言えば、今回は運にも助けられた。
強豪が同じブロックで潰し合い、丹波市は消耗しきった状態で準決勝に現れた。
こんなに都合よくいくのは、きっと今年だけだ。
彼らの二番手投手も素質は素晴らしい。来年はきっと牙を研いで戻ってくるだろう。
――そして、決勝。
勝ち上がってきた公立校に大差をつけ、俺たちは勝利した。
5年ぶりの甲子園出場。
校歌が流れるなか、先輩たちや監督の目には涙が浮かんでいた。




