68 悪魔
帝国首都、王城の地下牢。
そこに一人の男が訪れていた。
「これはこれは、ご機嫌麗しゅうございます」
糸目の男の声が地下牢に響く。
鉄格子を挟んだ向こう側には、膝を抱えたまま俯く一人の少女の姿があった。
元は丁寧に仕立てられた高価なドレスは、今や擦りきれ薄汚れている。
男が足元を見ると、出されたと思う食事があった。
床に直置きされたパンに、具のないスープの入った古びた器。
長く手を付けていないのか、それらには虫がたかっている。
「食欲がないのですか? いけませんよ、まだまだ育ち盛りでしょうに。少しおやつれになられましたか?」
男の声になんの反応も示さない少女に、彼は構わず言葉を続けた。
「それにしてもなかなか殺風景な部屋ですね。調度品の一つも置けば、多少は華やかになるかもしれませんよ」
「……何しに来たのよ」
無神経な男の言葉に嫌気がさしたのか、顔を上げぬまま少女は返事をする。
それに男は苦笑した。
「おやおや、随分なお言葉で。まだ先日お貸しした生物兵器をお返しいただいておりませんからね。たしかに無償で貸与するとは言いましたが、遺失してしまったというのであればきちんと弁償していただきませんと」
「……アコギな商売ね。勝手に貸しておいて。帝国にでも請求したら? わたしにはもう何も持ってないわよ」
「私がお貸ししたのは姫様にです。姫様からお返しいただかなくては」
「わたしがお金を持っているように見える?」
男の言葉に少女は自嘲するように笑った。
それに男は方をすくめてみせる。
「さてどうでしょうね。対価とはお金に限りませんが」
「……なに? 体でも目当てなの? ……はは、そうね。それぐらいは、まだ残ってるか」
「そうですね。ある意味それも正しくあります」
そう言うと、糸目の男はカツカツと靴で石床を叩き始める。
「――これから先のあなたの運命をお話しましょう」
男の言葉に少女は少しだけ顔を上げた。
男は彼女に視線を向けられながら、言葉を続ける。
「帝国の各地は反乱や敵軍により領土を切り取られつつある。そこで貴族たちが考えるのは、己の保身です。つまり――いかに効率良く負けを認めるか」
地下牢に男の声と靴の音だけが響く。
「自分の資産を確保しつつ寝返るか、もしくは利権を確保しつつ講和を結ぶか。どちらにせよ、それには責任を取る者が必要です。この国の現状は誰かが命じた結果だと……自分たちに責任はないのだと言わなければ誰も納得しない」
男は淡々と話をする。
「それには都合の良い悪役が必要です。たとえばこんな筋書きはどうでしょうか? 毎夜罪人たちとまぐわう淫蕩に耽た姫が国を傾かせたのだ――なんてストーリーは」
少女は膝を抱える手を強ばらせた。
それを見ながら、彼は楽しそうに笑う。
「愚かな大衆は下世話な話を好みますからねぇ。なに、真実なんてものは関係ありません。後付けでどうとでもなります。この牢に囚人でも入れれば、あとは勝手に事実になるでしょうし」
「――やめてよ」
「その後は形式だけの裁判をします。何を反論しようと、先に決められた内容の通りにあなたは淫猥な魔女と断定されるでしょう。民衆たちに見せつけるように名誉を辱め、侮辱し、その名を地に堕とし……一緒に首を切り落とす。これほど良い見世物もありますまい。そうして貴族と民衆たちは我々こそが正義であるという満足感に浸り、責任から逃れることができるのです。ああ、なんと効率の良い生け贄でしょうか!」
「やめなさいよ!」
少女が叫ぶ。
その顔に憎悪の表情を浮かべて男を見つめた。
カツン、と一つ床を叩き、靴の音が止む。
「……さて、あなたは言いましたね。『体が目当てなのか』と。それは半分正しい。私はあなたという存在を利用したいのです。帝国の皇女としてのあなたを」
少女は黙って彼を見つめた。
男はまっすぐに彼女に語りかける。
「あなたはこのままではどんな形であれ確実に望まぬ死を迎えるでしょう。それが今のあなたの運命だ。――だが、私はその運命を変えることができる」
彼は鉄格子に向かって手を差し出す。
「その対価として求めるのは、あなたの未来です。どうです? 悪い商談ではないでしょう?」
少女は鉄格子越しに男を見つめる。
男の表情からは何も読み取れない。
しかし、彼女には既に選択肢が存在しなかった。
「……やるわよ。なんでもする。してやるわ。たとえこの国の全員を差し出したって構わない! わたしをこんな目にあわせた全員に、復讐してやる!」
少女の言葉が地下牢に響く。
糸目の男はその答えを聞いて手を叩いた。
「素晴らしい! さすが私が見込んだ通りのお方です。さあこっちへおいでなさい。あなたはそんなところにいる方ではありません」
男の声に従って、少女はふらふらと牢獄の扉へと歩き出す。
鉄格子に掴まると、男に向かって牢越しに手を伸ばした。
「……わたしは何をさせられるの」
「難しいことはありません。今まで通り、帝国の頂点に君臨し続けるだけです」
少女はそう言った男の手を握る。
「……どうやってここに入ったの」
「見張りたちに見逃してもらう方法なんていくらでもありますよ」
少女の手と男の手の周りに、契約の魔法陣が展開される。
「……あなたは、何者なの?」
「……さて、なんだと思いますか」
いくつもの魔法陣が展開され、激しい魔力の光が薄暗い地下牢を照らした。
「何も本当の事を言ってくれないのね」
「嘘を言わないのです。……契約に差し支えますからね」
少女は差し出した手が燃えるように熱くなっていくのを感じた。
まるで自分の体ではなくなるような感覚。
次第に意識が薄らいでいく。
――エディン。
意識を失う直前、彼女の脳裏にその男の顔が過ぎった。
それは他の者と違って、わがままを言えばいつも正直に嫌な顔をする男だ。
唯一彼女に向き合ってくれた男の顔を思い出しながら、彼女はその意識を手放した。




