新しい技術
(92)
「ばあやはまだ書庫にこもってるみたいだな」
馬たちの様子を見て屋敷に戻って来てから、ソフィアはお茶の用意をしている。実亜も初めて厨房に入らせてもらって、お湯を沸かしたりして手伝っていた。
厨房はアイランドキッチンを広く大きくした感じ――シェールを使ったガスコンロは三口ずつが五カ所――壁際に煙突付きの石窯が五台並んでいて、奥のほうの一角では若い料理人が鍋の様子を見ながら何かを煮込んでいる。
ソフィアたちが普段遣いしているらしいコンロは入口近くのもので、動線も考えられていた。
「ばあやさんのお食事とかは――」
昨日もあれから夕食の時も見かけなかったし、朝も見かけなかったので、ちゃんと食事をしているのか、実亜は少し心配になる。
「ああ、それなら大丈夫だ。ばあやは寝食だけは忘れない人だから」
ソフィアが茶葉の入った缶を何個か取り出して、実亜に選ばせてくれる。リスフォールでは見られない植物のイラストを描いた缶もあって、迷うけど楽しい。
「そうなんですか? でも、それなら少し安心です」
実亜は見たことのない花の絵が付いた缶を選んでソフィアに渡す。香草と花がメインになっているものらしく、ソフィアが缶の蓋を開けると、ふわっと甘めでスパイシーな香りが漂ってきた。
このお茶も淹れ方は他のお茶と変わらない――ティーポットに茶葉を入れて、お湯を注いで数分らしい。ソフィアがトレイにティーセットを載せて、居間に向かっていた。
「ミア、このお茶は蜂蜜を入れるといい」
ソフィアは棚から瓶を取り出して、実亜に渡してくれる。
「はい、いただきます」
実亜はスプーンで蜂蜜を掬って、お茶に溶かしていた。香草のスパイシーさに蜂蜜の甘い香りも広がって、何故か喉に優しそうだ。
「今日はうちの職人たちがジテンシャの話を聞きたいと言っていたが、ミアの具合はどうだ? 疲れが出てなければ私からもお願いしたいのだが」
どのような乗り物かを説明してくれるだけでいい――ソフィアは実亜にそんなお願いをしてくる。
「はい、私も何かお手伝いとかしたいので、お役に立てるよう頑張ります」
実亜は快諾していた。自転車なら自分でパンクを直せるくらいの知識はあるし、そういう知識も含めて役に立つのなら、いくらでも提供するつもりだから。
「ありがとう。新しい技術が得られる」
ソフィアはお茶を飲みながら優しく微笑んでいる。
「いえ、そんな。お世話になってますから」
自分に出来ることはそう多くはないですけど――実亜は甘いお茶を飲んで、ソフィアに返す。ソフィアがまた笑って、実亜の頭を撫でようと手を伸ばして――
「ソフィア様! ミア様! いらっしゃいますか!」
撫でようとしてくれたところにばあやがまた本を数冊持ってやって来た。
「ばあや、どうした。何かわかったみたいだな」
ソフィアは撫でようとしていた手をそのままに、ばあやのほうを見ている。
「まず、百五十年前にミスフェア王国に現われた女神様のお名前がわかりました」
ばあやの言葉にソフィアが「ふむ」と、頷いて一瞬だけ実亜の頭を撫でると、ばあやのためにお茶をカップに注いでいる。
「キツナイ・ユキ様だそうで、ここでもミア様のユーキというお名前と少し似ております」
写本の写本なので確実ではありませんが――ばあやはお茶を一気に飲んで一息ついていた。
「えっ、でも、家族の名前からの順番でしたら、その女神様は『ユキ』というお名前だと……」
キツナイという名前はなかなか少ないだろうけど、どちらかと言えば名字寄りの名前に思う。それならユキは下の――個人の名前になるはずだ。
「確かに、これはばあやの早とちりかもしれませんね。続いての話ですが、女神様は豆を発酵させた調味料を『ショユ』と呼んでいたと記録に残っております」
ばあやは次々に本を開いて、その一文が記された場所を示している。
「ショユ……ミアもサルサのことを時々『オショーユ』と呼んでいるな。あれも豆を発酵させるものだが――」
ソフィアがばあやの開いた本を読みながら、実亜の口癖というか、時々飛び出す言葉を確認していた。本には「蒸した豆に塩と菌を混ぜて発酵させる」と、古い言葉で書かれていると言う。
その菌が麹菌なら醤油や味噌の基本の作り方だし、もし伝承の女神たちが実亜の居た国から此処にやって来て新しい文化などを伝えているのなら、そのものズバリ、醤油だと実亜は思う。
「このばあや、読んでいてミア様のことを真っ先に思い出しました」
ばあやはお茶のおかわりを飲みながら、期待を込めた目で実亜を見ている。それにしても、ばあやは自分のことを「ばあや」と呼ぶんだ――実亜はそんなことに気付いていた。
「はい。サルサは私の国では一般的には醤油と言います。丁寧に言うと『お』が付いてお醤油なんです」
期待に答えられているのかわからないけど、実亜は自分の言葉を説明する。
「要するに、女神の言う『ショユ』と、ミアの言う『オショーユ』は同じもの――ルヴィックではサルサだということだな?」
ソフィアが「それなら食べ方も沢山知っているはずだ」と頷いていた。
「はい……味も同じですし、そうみたいです」
何故サルサなのかは実亜にはわからないけど、目の前にある現実だとそうなる。実亜がこの目で見て、この耳で聞いて、触れて感じた現実だ。
「ふむ、ミアは女神――」
「女神様じゃないですからね?」
ソフィアの言葉に実亜は素早くツッコミを入れる。
「むむ……ミアが言うならそういうことにしておこう」
ソフィアは優しく笑って、実亜の意見を尊重してくれていた。
ばあやの発見を聞き届けてから、実亜はクレリー家の職人たちと話をしていた。
自転車の簡単な絵を描きながら、足で回転させて漕ぐと車輪が回ると話したら、熟練の職人たちがすぐにもっと詳しい図面に書き起こして、設計しながらの発明みたいな感じだった。
「ミア様、この乗り物は倒れないのですか?」
自転車に似た車輪と歯車を使って自力で動かす乗り物の構想は元々あったらしいけれど、どうしても四輪か三輪になるから、前後の二輪でしかも細い車輪でどうやって乗り降りをするのかとの質問が来た。
「えっと、走っている時はバランス――自分の力で平衡を取れるので、倒れないんですが……大体の人は上手に乗るために何度か練習をします」
で、乗る時は助走で少し勢いを付けて、半分飛び乗る感じ――実亜は説明をしながら、また不思議に気付いていた。
よく考えたら、痛い思いをしながら乗り降りから練習しているのは自転車くらい――自動車は運転をしなくても、乗り降り自体は苦労しなくてもいいものだし、放っておいてもこけないものだから。
でも、人力で動かせる手軽な乗り物だから、大体の人は乗ることになる。不思議な乗り物だ。
「練習が必要――そこは馬と変わりないのですね」
職人たちの中でも一番の若手ですと、自己紹介してくれた長命族の人が一生懸命にメモをとっている。長命族だから、見た目は二十歳そこそこに見えるけど、五十歳になったところなのだそうだ。
「はい。二輪で上手く乗れるようになるまでに補助輪というものもあって、後ろの車輪に着けたりします」
実亜は「後ろの車輪を挟むように取り付けて、片方ずつ外して練習することもあります」と説明を重ねていた。
「つまり、こういうことですね?」
「この足で漕ぐところはこの形で歯車と繋げたらどうかな?」
「後ろの車輪に繋げる歯車は小さめのほうが効率がいい――」
手元にある木製の小さな部品を手にして、職人たちが意見を出し合いながら軽く組み立てていた。何かを作る際の端材などでいつもこういった部品を作っておいて、組み合わせて色々な試作品を作るのだと言う。
実亜が見ているうちに、部品はどんどん組み上がって、小さな自転車っぽいものの試作品が出来ていた。
そもそも、人間の発想力だとか思考力だとかは多分、時代が違ってもほぼ同じはずだし、あとはちょっとしたアイデアや技術の欠片に、それを可能にする素材とかがあれば、すぐに形になるもの――そういう人間の力に、実亜は深く感銘を受けていた。
「ミア様、座席ですが、これでは車輪の振動が来て尻が痛くなりませんか?」
職人の長が試作品を確認して、実亜に訊く。
「そうですね。私の乗っていた自転車だと、座席をクッション……えっと、柔らかい素材で覆っていたり……あとは――座席の下にバネがあったのでそれでこう……少し弾力がありました」
バネは――わかります? 実亜は自分のなんとも言えない自転車の絵を描いている用紙の隅に渦巻き状の絵を描いて、金属製で伸び縮みするものですと、説明をする。
「ああ! これなら重量計に使います。最新の馬車にも使われてると聞いたことがあります」
馬車には座席の下辺りに衝撃を和らげるために採用されたらしく、職人たちが頷き合って「なるほどなあ」と口々に言い合っていた。
「皆、調子はどうだ? 頭を使う仕事には甘いものだ。アステリアとばあやと一緒に焼き菓子を作ってきた」
「お仕事お疲れ様です」
ソフィアが大皿に山盛りになったスコーンらしきお菓子を持ってきた。アステリアもジャムみたいなものが入った瓶が何個も入ったバスケットを持ってソフィアの後ろに居る。
「これはお嬢様方、ありがとうございます。いただきます」
職人たちが備え付けの水道で手を洗って、少しの休憩時間だった。
「遠慮せず食べてくれ。ミア、疲れは出てないか?」
一緒に手を洗っていた実亜に、ソフィアはタオルを渡してくれる。いつも優しいけど、さりげない優しさが凄く嬉しくて――それに、自分たちでちゃんと差し入れを作ったりするところが可愛くて素敵だと思った。
「はい、大丈夫です。職人の皆さんとお話ししていると、何気なく使ってた乗り物とかを再確認出来て勉強になります」
実亜はスコーンっぽいお菓子を受け取って、ソフィアに笑顔で返す。焼き立てだからまだ少し温かくて、いい香りがする。
「そうか。普段身近にあるものも改めて観察すると楽しいものだからな」
ソフィアは「これは木苺の砂糖煮だ」と、赤くてとろっとしたジャムの蓋を開けて、スプーンでお菓子に乗せてくれる。
甘酸っぱくて、焼き菓子に凄くよく合う味――実亜は思い切り味わって食べていた。
「これがジテンシャですか?」
アステリアが作業机の上の試作品を珍しそうに見ている。
「はい、私が使っていたものとかなり似てます」
実亜は二つ目の菓子を食べながら、アステリアに答えていた。試作品は木製だけど、基本的には金属で出来ていると説明をしたりして。
「ふむ――私が想像していたものとも似ている。しかし、車輪が前後二つで不安定だから、乗るためには修練が必要だな」
ソフィアも試作品を見て「ミアの乗馬の覚えが早かったのはこれに乗っていたおかげもあるかもしれない」と笑っている。
「そんなに大変ではないとは思いますけど、こけないように練習はしました」
実亜は菓子を食べ終えて、試作品を少し動かして説明を重ねていた。
道を曲がる時はこの持ち手を左右に動かしてとか、止まる時は持ち手にある操作棒を一緒に握ると線が繋がっていて、車輪が止まる。とか。言葉で説明すると案外複雑な操作かもしれない。
「成程、馬はある程度自分で止まってくれるが、ジテンシャは複雑な操作だ。大変ではなくてもそれだけの練習をしたのだから、誇っていい」
ソフィアが実亜の手を優しく握って、とびきりの笑顔で「ミアの努力は無駄ではない」と、自信を持たせてくれていた。
「そうです。私、ジテンシャが出来たら一番に乗る練習をします」
アステリアも一緒になって実亜を盛り上げてくれている。
本当に、優しい人たちに囲まれてる――実亜はありがたく思っていた。




