番外編(アステリアとクロエ・2)
(1)
「クロエ・エルフィンです。今日からよろしくお願いいたします」
五年前――十五歳のクロエ・エルフィンは生まれ故郷の小さな村を出て、クレリー公爵家の執事見習いとして働くための挨拶をしていた。
人口千数百人の小さな農村出身の自分の家柄などを考えたら、大出世の働き口だ。
貧しい村ではないけれど、決して裕福な村でもない。幸いにも魔物がほぼ出ない地域だが、特産物も温泉もないから、観光客などはほとんどやって来ない。季節の農作物を売るのが村の主な収入源――自然が相手だから、その年の気候によって収入も大きく左右されて不安定だ。
クロエはそんな村で生まれて育ってきた。勉学の機会に恵まれて、試験で一定の成績を修められたから、住み込みで働きながら、帝都でもっと色々と学ばせてもらえると決まった働き口だ。
クロエが公爵であるクレリー家で働くことによって、村にはクレリー家との縁が出来たので、手厚い支援も受けられることになった。
畑を耕す牛や、荷物を運ぶ馬を安価で提供してもらえたり、効率的な農作物の育て方の知識を学べたり、将来的には帝都に出て働ける人たちを育てたり――これで村も発展出来るだろう。
だけど、もし、自分が何か失敗をすれば、村全体に迷惑をかけてしまうことになる。
だから、クロエは村とクレリー家のために自分の生涯をかける決意をしていた。
(2)
「クロエ、お茶はお客様から先にお出しするのよ」
早速、初日から執事としての基礎を学ぶ――村の学校などの勉強では学べなかった貴族の儀礼は、知らない世界のことで勉強になるけど、教えてくれるのが公爵家の奥方――ローナなので、クロエには戸惑いも大きかった。
「は、はい」
クロエはまだ緊張が取れないまま、ローナの真似をしてお茶の注ぎ方から学ぶ。
村では見たことのないお茶もあって、クロエが不思議そうに色々な缶を見ていたら、ローナはそれも丁寧に教えてくれる。
「普段は年長者から――とは言っても、長命族の人がいらしたら確認するのが難しいわよね」
ローナが口にした「長命族」とは、一般的な人たちの三倍以上の寿命を持つ人たちだ。長生き出来る分、知識も豊富で大体の貴族の家には教育係や学者として何人か雇われている。
「はい。私はまだ長命族の方にお目にかかったことがありません」
村に居たかもしれないけど、見た目ではわからないし、帝都に着いてからすぐにクレリー家に来たから、クロエは街の人たちを見る機会もあまりなかった。
だけど、帝都はとても賑やかで、忙しくて、華やかで――好きになれそうな街だった。
「まあ、そうなの? うちには長命族のばあやが居るから、時々話し相手になってもらえるかしら?」
「わ、私がですか?」
長命族の人からは色々と学べることも多いのに、世間知らずのこちらに話し相手になってもらえるかなんて――逆なのではないだろうか。
「ええ、沢山お話してあげて。ばあやは楽しい人よ」
ローナは優しい笑みでクロエと話してくれていた。
使用人相手なのに、優しい人だとクロエは思った。
「お母様――もう練習終わり?」
部屋の扉が開いて、十歳くらいの女の子が扉に隠れながらクロエを伺っていた。クロエと目が合うと扉の影に一度隠れてから、思い切ったようにローナの傍に駆け寄って抱きついていた。
「アステリア、先にクロエにご挨拶なさい」
ローナがアステリアをクロエの前に連れ出して「もう出来るでしょう?」と、厳しめだ。
「……初めまして、アステリア・ウェル・クレリーです。以後お見知りおきください」
アステリアは膝を軽く曲げて、ご挨拶をしてくれている。少し照れているけど、優雅な身のこなしだった。クレリー家で働けることが決まってから礼儀作法を必死で覚えた自分とは、素養が違うとクロエは思った。
「初めまして。今日からクレリー公爵家で働きます。クロエ・エルフィンです」
クロエは此処に来る前に何度も練習した、少しかしこまった挨拶を返す。村では練習以外でここまで丁寧な挨拶をしたことはない。
「クロエ……お姉様?」
アステリアはクロエをしばらく見つめてから、可愛く訊く。
「いえ、私は使用人です」
クロエとお呼びください――クロエは左手を胸に当てて、右手を後ろに回す。
相手に対する敬意を表す挨拶は、まだ慣れないけど大事なことだから。
「……じゃあ、クロエ?」
「はい。アステリア様」
アステリアの呼びかけに、クロエはすぐに答える。
年下でも、子供でも――自分もまだ子供のほうなのだけど――アステリアはこれから自分の主になる人なのだから。
「あとで一緒にお菓子食べようね」
アステリアは笑顔になったかと思うと、そんなお誘いをしてくれていた。
「そんな……ご一緒にお菓子だなんて……」
勿体ないです――クロエは慌てて固辞する。
「あら、気にしなくてもいいのよ。クロエも疲れたでしょうから、今日はアステリアとお菓子を楽しんで頂戴」
ローナは「二人で仲良くね」と笑っていた。
「は、はい……」
使用人と雇用主なのに、そんなに気軽でいいのだろうか――クロエはまだ少し、不安と戸惑いの中に居た。
(3)
「クロエは馬に乗れるの?」
早速のお茶の練習も終わって、今度はアステリアとお菓子を食べながらお茶会――アステリアの部屋は立派で、綺麗で、広かった。
クロエに与えられた部屋もかなり広くて、机や本棚なども揃っていたけど、もっとだ。
だけど、この広い部屋に一人――子どもの自分から見ても、まだ子どものアステリアが。寂しくはないのだろうか――クロエはふと思う。
「はい。乗れます」
クロエは遠慮しながらお菓子を食べて、アステリアの質問に答えていた。
「いっぱい練習したの?」
「そうですね。沢山練習させてもらいました」
クロエの村では馬は共有財産だから、いつでも乗れるわけではないけど、将来を見込まれたクロエは出来るだけ多く乗らせてもらえていたのだ。
「私も今度馬をいただくのだけど、仲良くなれるかな」
ソフィアお姉様の馬と同じ毛色にしてもらうの――アステリアは少し不安気に、でも少し嬉しそうにそんなことを教えてくれた。
村の共有財産の馬が、公爵家では個人の財産になる――それだけの話だけど、クロエの心が少し痛んだ。
帝国では、馬は欠かせない交通手段であり、人たちの友だ。だからこそ、村では数年に一頭、村人たちが費用を出し合って馬を買う。
第一に選ばれるのはその費用で買える丈夫な馬で、毛色などは一番最後の選択肢になる。そもそも、好きな毛色だなんて贅沢を言えない。だけど、アステリアは毛色でも選ぶことが出来る。
村でも仔馬を産ませて育てているけど、それでも自由に選べるものではない。
クロエの馬は帝都に出る祝いだと、村の人たちが餞別としてクロエに預けてくれた馬だ。気立てが良くて丈夫で若い馬は、それだけでも村の貴重な財産なのに、惜しみなく。
ただ、それだけの話――
アステリアに悪気はないのは百も承知だけど、それでも自由に選べる立場に居る人がクロエには羨ましかった。
「……大丈夫です。馬は優しくて賢い動物ですから、アステリア様と仲良くなれますよ」
クロエはその羨ましさを隠して、アステリアに答える。クレリー家には大きな馬専門の牧場もあるし、医者も居る。乗馬の先生も必ず居るだろうから、心配しなくても大丈夫だ、と。
「じゃあ、頑張ります」
アステリアは「私が上手になったら、一緒にお散歩しましょう」と約束をしてくれた。
「はい。約束です」
クロエは無邪気なアステリアに、約束を返していた。
(4)
「ねえ、クロエ。一緒に寝ましょう?」
クロエの緊張の一日がやっと終わって眠ろうと思っていた時に、アステリアが部屋に枕を持ってやって来た。
「アステリア様、使用人の部屋に来ては駄目です」
クロエはアステリアを部屋の扉の前でこれ以上部屋に入らないように止める。
「でも、クロエとお話をしたいの」
アステリアは枕を抱きしめて、ちょっと拗ねていた。
「どうしたのです。あら、アステリア様。何か御用ですか?」
話し声に気付いた少し離れた部屋の執事長がやって来て、クロエとアステリアを見ている。
「クロエと沢山お話をしたいの」
アステリアはクロエの服の袖を掴んで「いいでしょう?」と確認をしていた。
「アステリア様、クロエは慣れない環境で疲れてます。今日はお一人でお眠りください」
執事長の言葉に、アステリアは「はあい」と答えて、自分の部屋のある方向に戻っていった、と思ったら、クロエのほうに戻って来た。
「明日は一緒に寝ていい?」
お話沢山したい――アステリアはまたクロエの服を掴んで、そう訊いている。
「だ、駄目です」
「じゃあ、明後日」
「駄目です」
「その次の日は?」
これはこちらが了承しないとアステリアは部屋に帰らないつもりだ――クロエは答えに詰まっていた。
「クロエ、申し訳ないけど、あなたが良ければ今度一緒にお話をしながら寝てもらえるかしら?」
執事長が仕方ないわねと笑って、クロエにお願いをしている。
「わかりました。アステリア様――今日は私も疲れていますので、明日にしましょう」
クロエはアステリアの手をとって、約束をしていた。
雇用主の機嫌を損ねることもクロエとしては避けたいし、アステリアも多分珍しい新入りが気になっているだけだから、一晩くらい話をすれば落ち着くだろう。
「ありがとう。クロエ、好き」
納得したらしいアステリアは、クロエの頬に口づけをして、自分の部屋へと走って行った。
クレリー家も帝都と同じようにとても賑やかで、忙しくて、華やかで――
だけど、好きになれるだろうか。
クロエはまだ慣れない、広くて居心地の良すぎる部屋で眠りに就いていた。
アステリアとクロエの馴れ初めというか。
番外編はアステリア目線とクロエ目線で書いていく感じです。




