朝の準備
(90)
「疲れただろう。今夜はぐっすりするといい」
夕食も終わって、実亜はソフィアの部屋に居た。そして、風呂上がりのソフィアが実亜をベッドに優しく寝かせてくれる。結婚だとかがはっきりと決まったわけでもないのに、実家でも一緒に寝ていいのは少し面白いかもしれない。そもそも結婚式とかもまだだった。
「はい、ありがとうございます。ご馳走も嬉しくて、美味しかったです。私、鳥の丸焼きを初めて食べました」
実亜は今日一日の緊張と目まぐるしさを心の中で思い出して、落ち着かせながらソフィアに答えていた。クレリー家の人たちは皆、実亜が想像してた以上に優しくて、温かくて、素敵な人たちだ。
「ミアの国には鳥の丸焼きはないのか?」
ソフィアは不思議そうに訊いて来る。あれはもてなしの料理の基本に近い――と。
「ありますけど、特別な日に食べられることが多いですし、家で作る人も少ないです」
「成程、時間もかかる料理だし、気軽にとはいかないな」
塩水に数日漬け込んだ鳥を、石窯で油をかけながら丁寧に焼くんだ――ソフィアは鳥の丸焼きの作り方を少し教えてくれた。あとは、二人だと丸焼きは量が多いなとも。
「あ、あの、クロエさんやばあやさんたちのお食事って別なんですか?」
実亜は気になっていたことを訊いていた。大事におもてなしをしてくれるのはとても嬉しいのだけど、自分だけご馳走を食べるのは申し訳ないから。
「食事の用意や片付けで時間が少し遅くなるから、別で食べている」
ソフィアはベッドに潜り込んで、実亜の疑問に答えてくれていた。
「メニュー……えっと、献立は同じですか?」
「勿論だ」
「……安心しました」
「心配だったのか?」
ソフィアが優しく実亜の頭を撫でながら笑っている。
「少しだけ……」
ソフィアたちを見ていれば、家で働いてくれる人たちを粗末に扱うことはないだろうけど、実亜の心の何処かには疑問が小さくある。でも、それは全くの杞憂だったようだ。
「ふむ、確かに稀に耳にする話だと、使用人に粗末な食事をさせている者も居るらしいからな」
困ったことだ――ソフィアは眉をひそめている。それでも「稀に」レベルの話だから、この世界には優しい人のほうが多いのだなと実亜は思う。
「そういう人はどうなるんですか?」
そんな待遇では辞める人や転職する人も多いだろうし、事業も長く続けられないと思うのだけど――自分が居たブラック企業みたいに。
「一人、また一人と他の雇用主のところへ使用人が移って誰も居なくなる。一人や数名の家族だけで維持出来る農場や牧場はないから、荒れ地になって何もなくなってしまう」
帝国での信用も失うな――ソフィアは難しい顔をしながら答えてくれる。
「大変ですね……」
ブラック企業にも似た末路だなと実亜は思う。ただ、経営者の名前を積極的に表に出さないタイプのブラック企業だと、社名を変えたりしていくらでも出て来るのだけど。
「何事も、欲に飲まれてはいけないということだ」
ソフィアは反面教師と言うものだなと、苦笑いをしている。
「ですね。……でも、私は欲張りになったかもしれません」
笑うソフィアをじっと見て、実亜は答えていた。
「ミアはもう少し欲張りでもいいんじゃないか?」
何がどう欲張りなんだ? ソフィアは話を静かに聞いてくれる。
「眠る時に、ソフィアさんが隣に居てくださらないと、少し寂しいです」
実亜はソフィアの手を握って、欲張りになった自分を告白していた。ソフィアの体温がないと、寂しい――その思いはこの旅に出てから少し強くなっている。
「――ふむ、それは照れるな」
ソフィアは少し照れて笑ってから、実亜の身体を抱きしめてくれていた。
「でも、お忙しいのもわかってますから、我儘は言いません」
こうして自分を大事にしてくれるけど、ソフィアにはその身にかかる責任も多い――だから、負担にはならないようにと実亜は考えている。
こんなことを考えられるようになれたのも、此処に来てからの成長なのかな――なんて思いながら。
「そうか――ありがとう。だが、今夜も一緒に眠れるな。おやすみ、ミア」
「はい。おやすみなさい」
実亜は大好きな人の腕の中で目を閉じていた。
翌朝――窓から差し込む朝の陽を受けてから、しばらくして実亜は目を覚ましていた。
アラームで叩き起こされない自然な目覚めはいつも気持ちが良くて、この世界に来てから本当に健康的な生活をしてると思う。それに、実亜はこちらで毎日を過ごすうちに、明け方に起きようと思ったら明け方に、ゆっくりと午前中には起きようと思ったら、大体その時間に自然に起きられるようにもなっていた。不思議なのだけど。
「おはよう、ぐっすりしたか?」
ソフィアもほぼ同じくらいで起きていて、実亜におはようの挨拶で軽いハグをしてくれていた。
「おはようございます。ぐっすり出来ました」
実亜もソフィアに少し甘えてから、洗面と着替えに向かう。
「いいことだ」
ソフィアもタオルを手に洗面台にやって来て、楽しそうに実亜の寝癖を指で梳いて整えてくれていた。
「ソフィアさん、『ぐっすり』を気に入ってるんですか?」
実亜はお返しにソフィアの髪を整えようとヘアブラシを持ってソフィアに訊く。
「ああ、よく眠ることはいいことだろう? 素敵な言葉だ」
「はい。睡眠は大事です」
実亜の返事にソフィアが笑って、二人でお互いの身だしなみを整えていた。
「中庭に出てみようか。朝食の卵も調達しなくては」
着替えも洗面も済ませて、ソフィアが実亜に家の中を軽く案内してくれていた。ソフィアの部屋はわりと家の端のほう――少し歩くと中庭や裏庭に出られるらしい。
「卵があるんですか?」
いや、卵だけがあるわけがないから、鶏を飼っているのだろうなと、実亜は心の中で確認していた。広い屋敷だし、これだけ広ければ中庭で鶏だって飼うだろう。
実亜には広い屋敷の普段の暮らしがよくわからないけど、屋敷以外の敷地も広くて農場とかに行くのも大変だろうから、よく使う食材は手近な場所に――的な感覚なら理解出来る。
「中庭に鶏の小屋がある。毎朝そこから卵を分けてもらうんだ」
「へえ……採れたてで新鮮なんですね」
採れたての卵――なんとなく、とても贅沢な気分になれる食材かもしれない。スーパーマーケットで買える卵も衛生管理などがしっかりしているから贅沢なのだけど、その辺りも不思議な感覚かもしれない。
「ただ、鶏も気まぐれだからいつも卵があるとは限らない」
ソフィアはそう言って笑いながら、屋敷の中を歩いている。
「そこは、鶏さんのご機嫌を見るしかないですね」
実亜は生き物と共に生きる難しさを少し考えていた。この世界では馬と仲良くなれないと遠出も出来ないけど、馬は生き物だから様子を見ながら大事に世話をして、上手に協力してもらわないといけない――ある意味で、家族や友人のように。
鶏も同じで、毎日のように栄養豊富な卵を生んでもらいたいなら、餌や飼育環境もしっかりと世話をするのは当たり前だし、自分の身近になって理解出来る世界もあるのだなと深く思う。
「そうなんだ。カゴを取ってくる。中庭はその先の扉だ」
「はい」
実亜は一足先に中庭に出ていた。
中庭が学校の校庭くらいあるのはどういうことだろう――実亜は広い中庭を見ていた。
それなりの家庭菜園に、ソフィアが小屋と言っている小屋もちょっとした体育館くらいはある。少し離れた場所からも鶏たちの鳴き声が漏れ聞こえてきて、少し賑やかだった。
「いや、君たちがご立腹なのも理解できるよ? ただ、あと二つ卵を分けてくれないかなあ……」
実亜が鶏小屋の入口に近付くと、小屋からそんな声が聞こえてきた。
落ち着いた男性の声――優しそうだけど、何処かに厳しさがあって響く感じの声だ。でも威圧感はない。第一印象はただ穏やかで優しい。
「……?」
実亜がそっと鶏小屋を覗き込んだら、背の高い少し白髪交じりの年配の男の人の後ろ姿が見えた。
そっと鶏の巣のような場所に忍び寄って、しゃがんで何かを拾っている。鶏小屋で拾うもの、考えられるのは卵しかないのだけど。
「いい子だ、二つ貰い受けた。わかった! わかったから、あててて……!」
鶏も黙ってはいない。バタバタと羽ばたいて、卵を採った人に襲いかかってクチバシで激しく突いている。男の人は慌てて小屋の入口まで走って飛び出してきた。
「ひゃっ? あ、あの、大丈夫ですか?」
実亜は小屋の外でカゴを大事そうに抱えて一息ついている人に話しかけていた。
「ああ、これはお嬢さん。お恥ずかしいところをお見せしてしまったな……」
気を取り直したのか、男の人はキリッとした立ち姿と表情で実亜に返してくれている。
だけど――
「あの、鶏が一羽ずっとそちらの足を突いてます……」
男の人を追いかけて出て来た鶏が、男の人の履いているブーツを何度も突いて攻撃していた。
「うむ。大事な卵を取られたのだから、怒るのも無理はない」
「はい……」
話をしていて実亜がすぐに感じる既視感――白髪交じりだけど黒髪――
もしかして、もしかしたら――
「お嬢さん、しばらく卵を頼んだ。さあ、鶏よ、小屋に戻ろう。いてて……」
男の人は卵の入ったカゴを実亜に渡して、鶏を抱えるとまた小屋に戻って行った。戻って行く途中でまた思い切り鶏に突かれているのだけど、鶏の扱いはかなり慣れている感じもする。
「ミア、もう卵を採ったのか?」
カゴもあったのか――ソフィアが空のカゴを持って、中庭の鶏小屋にやって来た。
「いえ、あの方が渡してくださいました」
実亜は鶏を小屋の中に戻して出て来た男の人を見てから、ソフィアを見る。
話し方、黒髪、滲み出る雰囲気――もしかしなくても、実亜は確信していた。
「ふむ――父上だ」
ソフィアが鶏小屋のほうを見て、サラッと教えてくれた。
「えっ、やっぱり」
実亜は凄くストンと、何かが腑に落ちていた。
顔立ちは母親のローナに似ていて、髪の色や雰囲気は父親に似ていて――不思議な面白さを実亜は感じる。
「ああ、ソフィア。元気そうだな」
鶏に突かれていたこめかみ辺りをさすりながら、ソフィアの父親が笑顔でやって来る。親子の数年ぶりの再開にしては、わりとあっさり目だった。
「父上も息災のようで、安堵しております。こちらはミア・ユーキ」
私の伴侶です――ソフィアは凜々しく言い切って実亜を父親に紹介してくれていた。
「は、はじめまして!」
実亜はまた癖でお辞儀をしてしまって、慌てて膝を軽く曲げるルヴィック式の挨拶を続ける。
「お嬢さんがミアさんかあ。ソフィアがお世話になっております。アイルマー・ウェル・クレリーと申します。以後お見知りおきください」
皆はアイルと呼びます――アイルマーは騎士の挨拶で軽く実亜の手を持ち上げて笑顔だった。
「いえ、お世話になってるのは私のほうです……ありがとうございます」
「何を言う、ミアは色々と私を気遣ってくれて、いつもありがたく思っているぞ?」
ソフィアがここでも惚気を発揮している。
「そんな……その、嬉しいです」
実亜はそんなソフィアに答えて、頬を染めていた。いつ言われてもなかなか慣れないけど、嬉しいことは嬉しいから。
「うむ、素敵な人と出逢えたようだ――ソフィア、ミアさんを大切にな」
私は卵を厨房に持って行くよ――アイルマーは卵の入ったカゴを実亜から受け取って、屋敷の中に消えて行った。
「穏やかそうなお父様ですね」
それに、少し楽しい――実亜はソフィアに笑いかけていた。ソフィアは鶏の餌を用意している。
「ああ、父上は穏やかで優しいが、魔物との戦いになると厳しい一面を見せることがある」
ソフィアは砕いたトウモロコシみたいな穀物と、カルシウムが多そうな謎のフレークを適度に混ぜて、小屋の中に入るとすぐに混ぜた餌を鶏たちにやって出てきた。
「厳しい……?」
そんな風には見えないけれど、人には色々な面があるし、ソフィアが嘘を言うわけはないし――魔物を相手に大事な人たちを守る感じだろうか。
「若い頃は魔物相手に自ら先陣を切っていたそうだ」
今は立場もあるし、後進の育成もしなくてはいけないので、指示をする立場のほうが多いらしいとソフィアは少し楽しそうに話してくれる。
「その点はソフィアさんに似てるんですね」
「ふむ、順番があるのなら、私が父上に似ているのだと思うぞ?」
父上のほうが魔物退治は慣れている――ソフィアが笑っている。
「……本当です。お父様が居て、ソフィアさんが居て」
順番で行くと、そうなる――実亜は大いに納得していた。
「親子だし、私の剣の師匠でもあるから、少なからず何処か似るのだろう」
ソフィアは「あまり嬉しくはないのだが」と冗談混じりの照れ笑いをしている。
少なからずではなく、かなり似ている気もするけれど――どちらにしても楽しい家族なのだなと実亜は思った。
ソフィアさんのパパが登場。




