挨拶と服
(86)
「は、はじめまして! ミア・ユーキと申します。ソフィア様には命を助けていただいて……」
大広間に通された実亜は、緊張しながらソフィアの母――ローナに挨拶をしていた。
顔はソフィアと似ているけれど、髪色は明るい栗色で、アステリアよりも穏やかそうに見える。
「ミア、急に『ソフィア様』だなんてどうしたんだ」
実亜は改めて隣で不思議そうにしているソフィアを少し見たが、やはり職業の違いで顔つきが変わるものなのだろうかと実亜は思う。ソフィアは優しくて、加えて凜々しさもある顔なのだ。
「だって、ソフィアさんはソフィア様ですから……」
実亜は小さくソフィアに答える。あまりにも優しくしてくれるから油断していたけど、ソフィアはそもそも凄い家の人なのだから、実亜のような立場では「様」を付けて呼ぶのが当たり前なのだとも思う。
「ふむ? わかりにくいが、つまりミアは私の立場が気になるのだな?」
ソフィアは声をひそめて実亜に耳打ちをしている。
「……大雑把に言うとそうです」
物凄く大雑把だけど、ソフィアの言う通り、ソフィアの立場――肩書きだけが全てではないけど、このほとんど街みたいな家の敷地も含めて、全てを治める公爵家の人なのだし。
公爵が貴族の階級でどのくらい上の位なのか、実亜にはわからないのだけど。
「確かに、立場こそ公爵家の人間だが、その前に一人の騎士、そしてその前にミアを愛する一人の人間――細かいことは気にしなくても大丈夫だ」
ソフィアはソフィアらしい言葉で実亜の心配を跳ね除けてくれる。でも、ソフィアはもうちょっと気にしたほうがいいかもしれない。気にしないソフィアも素敵なのだけど。
「もう内緒話はよろしいですか?」
ソフィアの母――ローナが少し離れたところから笑顔で実亜とソフィアを見守っている。
「は、はい……すみません……失礼しました」
実亜はまた癖で、今度はかなりの深さで頭を下げていた。
「ミアさん、そう緊張なさらず近くにいらっしゃい。顔をよく見せて」
ローナが実亜を呼ぶ。ソフィアとは違った優しさと温かさのある声で。
「は、はい」
呼ばれてしまっては近くに行くしかない――実亜は意を決してローナのほうにそっと歩み寄っていた。
ローナの手が、実亜の頬を柔らかく包む。
そして、ソフィアとよく似た――だけど、もっと深さのある目で実亜を見つめる。
実亜は何故か泣きそうになっていた。ソフィアがいつも触れて見つめてくれるのとよく似ているけど少し違っていて、何処か懐かしさがあるような不思議な感覚だった。
「――綺麗な目をしてますね。ばあやの言ってた通りの方ね」
何も言わなくてもわかるわ――ローナは実亜の目を見つめると目を細めて笑って、そんなことを言ってくれる。
「そんな……その……勿体ないお言葉です」
実亜はローナに、ボロボロだった自分も、ソフィアに保護されて元気になった自分も――全部見透かされた気分だった。
「まあ、照れて可愛い。ソフィアは素敵な人と出逢えたのね」
ローナは実亜の頬から手を離して、頭を軽く撫でる。
「そんな……私こそ、大事にしていただいてます」
実亜はローナにソフィアがどれだけ素敵な人なのかを伝える。伝えなくても知っているだろうけど、沢山お世話になって、沢山笑えるようになったのはソフィアのおかげだ――と。
「愛する人を大事にするのは当たり前です。ソフィアも大人になったわ――」
ミアさんが居てくれるおかげね――ローナは優しく二人を見守って笑っていた。
お茶とお菓子が運ばれて来て、実亜とソフィア、ローナ、アステリアでちょっとしたお茶会が始まる。これまでの旅で実亜が飲んだことのないお茶は、コーヒーに似ていて少しほろ苦い。
ソフィアの話ではこれがタナ――タンポポ――のお茶らしい。いわゆるタンポポコーヒーだ。
お菓子は一口大のクランチバーのようなもの――蜂蜜味とチョコレート味とがある。
「あっ、そうよ、ミアさんの珍しい服を見せていただける?」
ローナが「お茶をしている場合でもなかったわ?」と、実亜を見ていた。
「はい、鞄の中にありますので――着たほうがわかりやすいですか?」
実亜はクランチバーを一つ食べて、タナの茶を飲んでいた。口の中で甘さとほろ苦さが調和していた。
「そうですね。着替えるのにお手伝いが必要ですね。誰か――」
ローナが鈴を手にしている。多分、実亜の見当外れでなければ、これでお手伝いの人を呼ぶものだ。
「いえ、そんな。大変な服ではないので、一人で着られます」
貴族とかだと着替えもお手伝いが必要だったりするのは本当だったなんて。実亜は昔見た何処かの映画を思い出していた。
「母上、ミアは自立した素敵な人だ。着替えくらいは一人で出来る」
それでもソフィアは実亜と一緒に鞄の元に行って、スーツを取り出すのを手伝ってくれている。
「まあ素敵。ソフィアが気に入るはずよ」
ローナが花が咲くように華やかに笑う。まさか一人で着替えが出来るだけで褒められるとは、流石に実亜も思っていなかった。
「これは珍しい服ですね――リスフォールだとこの襟元では寒いでしょう」
スーツに着替えた実亜は、皆の注目を一身に浴びていた。
ローナは真っ先にソフィアと同じ心配をしてくれている。
この世界に来てからの健康的な食事と生活習慣で身体が引き締まっていたおかげで、スーツやワイシャツは少し緩くなっていた。
「生地は薄いのに頑丈で着やすそうです」
お茶とお菓子を食べていたアステリアが手を止めて「失礼します」と、実亜のスーツのジャケットの裾を少し触って確かめている。
綿の生地のようで、でも軽くて少し光沢もあるし、絹や羊毛とも手触りや生地の厚さが違う――と、じっくりと眺めてアステリアが呟く。
「母上、ミアと以前話していましたが、私の制服の襟を開くと、似た襟元になります」
ソフィアが自分の騎士の制服を少し着崩して、襟元を大きく広げて詰襟を倒していた。実亜のスーツのテーラー襟とほぼ似た感じのデザインになっている。
「あら、本当。似てますね。逆にミアさんの服の襟を立ててもソフィアの服に似てます」
少し失礼――ローナが実亜のスーツの襟を立てて、襟元を閉じるように整えていた。
「ミアお姉様の服は騎士の制服ではないのでしょう? でも、普段着――でもなさそうです」
アステリアが私も一着作って欲しいとローナにねだっている。
「はい――制服ではないんですけど、働く人の制服みたいな扱いになる服です。フォーマルな場所……えっと、畏まった場面でも着られる服……のような? 正装でもないんですけど」
スーツの説明もなかなか難しい。前の世界では皆、暗黙の了解で仕事と言えばほぼスーツ――スーツを着なくて構わない職種でも、面接などではスーツ着用が基本だ。
だけど、一般的なスーツ自体は着ているだけだとどういう職種かわからないし、よく考えれば不思議な服――しかも世界でも共通の認識で着られている。実亜も考えながらかなりの不思議に包まれていた。
「便利で不思議な服――だけど、ミアさんはこの服で頑張って生き延びたのね」
ローナが実亜のスーツの襟を戻して整えながら、しみじみと目を閉じている。
「――そんな、そんなに大変なことじゃなかったです」
ちょっと大袈裟な方向に話が進みそうになったので、実亜は慌てて首を振っていた。
でも、確かに過労死レベルで色々と大変だったのは事実なのだけど。
「しかし、ミアはかなり疲弊していて、相当危なかったんだぞ? 生き延びたことを誇っていい」
ソフィアは実亜の頭を撫でて、優しく笑っていた。やっぱり、ソフィアの手は安心と温かさがあって、ときめきもある。
「それは……はい。その点は助けてくださったから、身に染みてます……」
実亜はソフィアの手を軽くキュッと握っていた。
ローナもアステリアも「まあ……」と、二人をなんとなく見守っている。
「素敵なお姉様が増えて――あっ、お母様! 鞄に入っていたのに服の皺が少ないです」
アステリアが「お二人の仲の良さもいいけど、もっと重大なことを見付けた」と、目を輝かせていた。
「まあ、本当――不思議ね。ほとんどの服はすぐに皺になるのよ?」
ローナもアステリアと一緒になって、また実亜の服を見ている。
その後、このスーツという服はどのくらいの値段がするのかとか、スーツの各部の名称なんかを沢山質問されて、実亜は全部に答えていた。




