ソフィアの家
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うちは門から玄関まで車で一時間かかる――実亜はそんなジョークを聞いたことがある。
他にも、「実家は城」とかの、壮大なスケールで明らかなホラを吹いて、ツッコミを待つ。一種の様式美のようなジョーク――本気で怒る人も居るから、賛否分かれるジョークなのだろうけど。
そして、そのジョークみたいなことが現実に存在するなんて、実亜は思いもしなかった。
ソフィアの家――門から続く道は長く、目的地は城のような建物だった。いや、城だ。
道の途中には陽当りのいい敷地に、ブドウ畑や収穫した作物を保管する倉庫などがあって、畑で働く人が休憩する小屋なんかもある。
ソフィアと愛馬のリューンが先導して歩き始めて一時間ほど、そんな風景が続いていた。
まさに、門から玄関まで車で――此処では馬だけど――一時間以上かかって、実家が城の人が、実亜の目の前に居るのだ。
「どうした? ブドウ畑を見るのは初めてか? 今からが旬だから、つまみ食いも出来るぞ?」
ソフィアは実亜の視線に気付いて、リューンを止めていた。
「そんな、気になりますけど皆さんが大事に育ててるのに、勿体ないです」
実亜は「でも美味しそうです」と、ブドウ畑を見ていた。気のせいか、時々吹き抜ける風がブドウの香り――ブドウ畑だから、当たり前なのだろうけど。
「成程、ミアの言う通りだな。許可をもらってからにしようか」
ソフィアはリューンをしばらく歩かせて、ブドウ畑の近くに居る人に声をかけていた。
「ソフィア様――おかえりなさいませ」
「しばらくぶりだな、元気そうで何よりだ。今年のブドウも美味しそうに実ってる」
「肥料を変えましてね、いい出来ですよ。早いブドウはもう樽に仕込んでます」
今年もいいブドウ酒が出来る――ブドウ畑の人は嬉しそうにソフィアと話している。
「そうか、あとでまた来るから、摘果したものがあれば少しわけてくれるか?」
「それは勿論、いいのを選んでお屋敷までお届けしますよ」
クレリー家の皆様はいつも遠慮なさる――らしい。
偉ぶらない感じなのだろうか。でも、二人のやり取りを見ていたら、口調こそ主人と使用人だけど、もっと深くに信頼関係があるようにも思える。
「ありがとう」
「ありがとうございます」
ソフィアに続いて、実亜も礼を言っていた。
また馬を歩かせて、ソフィアの実家――というか、城まで二人と二頭で歩く。
畑や農場を抜けて、ようやく民家が集まる場所に来た。民家とはいえ、一軒が実亜の知る民家の三倍くらいの大きさだった。
「ミア、此処は馬たちの放牧場だ」
道すがら、ソフィアが広い敷地の設備を説明してくれる。何軒かの家に共同で厩舎があって、広い放牧場があって、馬が寝転んだり草を食んだりするのだと言う。
「じゃあ、馬たちのお世話だけでも何人か専属の方がいらっしゃるんですか?」
これだけ広いと確実に分業制になっているだろうから、実亜は不思議な安心感で訊いていた。
「ああ、馬を訓練する訓練士や、馬専門の医者も居るぞ?」
「馬専門……凄いですね」
「ミアの国には居ないのか?」
「獣医さんっていう、動物を専門に診るお医者さんが居ます。馬を診るのが得意な人も居ると思います」
競馬関係の職場だと確実に馬には詳しくなれるから、そういう専門の人は確実に居ると、実亜は説明していた。
「あっ、あとはお医者さんじゃないですけど、機械を専門に直す人も居ます」
実亜は前の世界のことを色々と思い出していた。自動車整備士とか、乗り物を点検する人、電気や水道、ガス、今では携帯電話やインターネット回線などの生活のインフラを支える人――普段は目立たないけど、沢山居て社会を支えてくれている。
「ふむ、機械も生き物と同じ――専門家が丁寧に大事に扱ってやらないとな」
ソフィアはそう言いながら、楽しそうに実亜の話を聞いてくれていたのだった。
「ソフィア様! おかえりなさいませ!」
城の玄関付近でメイド服姿の女の人が望遠鏡らしきものを振り回してから、城の中に走って行った。
門から一時間半くらい歩いて、やっとソフィアの実家の城に着いたのだ。
実家の城というのがもう実亜には少し不思議だけど、実際に城がソフィアの実家なのだからそれしか表現のしようがない。
実亜はソフィアと共に馬を降りて、玄関に向かう。城の玄関はつまり、またちょっとした門なのだけど。
「まあ、ソフィア様、お元気そうで。ばあやから伺いましたよ、ついにご伴侶を迎えられると」
城の大きな玄関ではなく、隣にある扉から優しそうで頼りがいのある感じの人が出て来た。
「ミア、クレリー家の家事一切を取り仕切る執事長だ。走って行ったのは弟子のクロエ」
ソフィアはリューンとリーファスを玄関先に繋ぎ止めながら、執事長を紹介してくれている。
「はじめまして、結城実亜です。あっ、ミア・ユーキです」
実亜は丁寧に挨拶――しようとすると、どうしてもお辞儀が入ってしまう。いけないことではないのかもしれないけど、挨拶がちゃんと伝わるのか難しい。
ソフィアたちの礼儀作法というものも、ちゃんと身に着けたいと思うし、もっと練習を頑張るしかないだろう。
「ばあやから伺いましたよ。ミア様のご挨拶はこう頭を下げるのだと」
執事長は実亜を真似て、「角度はこの辺りですね」と、笑って受け止めてくれる。
「はい。お辞儀って言います。なかなか癖が抜けなくて……」
実亜は改めてこの世界での挨拶をしていた。こちらの挨拶は、一般的には軽く膝を曲げて、身体を少し沈めるもの――時々軽く握手もする。
「良いのですよ。ミア様にはミア様の儀礼がございますもの。焦らずに」
執事長は笑顔で実亜の挨拶を受けてくれて「お上手ですよ」と、励ましてくれていた。
「ばあやはどうしてるんだ?」
ソフィアが実亜の手を引いて、城の中へと華麗にエスコートしてくれる。城にある立派で大きな扉は普段は使わないらしく、さっき執事長が出てきた扉から中に入っていた。この扉もかなり豪華なのだけど。
城の中は玄関がもう学校の体育館くらいの広さ――華美な装飾ではないけど、柱はしっかりしているし、綺麗だし、丁寧な造りの建物だ。
「リスフォールからお帰りになって、ソフィア様とミア様をお迎えする手筈を整えてから、書庫にこもってますよ」
気になることがあるらしい――執事長が「あの人にも困ったものです」と笑っている。
「ふむ――ん?」
「ソフィアお姉様ー!」
玄関ホールの奥の廊下から、誰かが忙しなく走ってくる足音と、ソフィアを呼ぶ声がした。
ソフィアと同じ長めの綺麗な黒髪がサラサラなびいている女の子が、物凄い勢いでソフィアにタックルをしている。
「……大きくなったな……アステリア。もう突進攻撃は控えてくれ」
ソフィアは思い切りタックルしてきた女の子を受け止めて、苦笑いをしていた。
「はい。もう十六歳になったので、大人の振る舞いをします」
アステリアと呼ばれた少女は、顔立ちも髪色もソフィアに似ているけど、少しおしとやかに見える。おしとやかな人が走ってきてタックルをするのかは、実亜にはちょっと疑問もあるけれど、いつも凜々しくて格好いいソフィアと比べたら、穏やかな感じだった。
「ミア、私の一番下の妹、アステリアだ」
ソフィアが「大人の挨拶は出来るか?」と、アステリアを実亜の前に連れてくる。
「ミア・ユーキです。はじめまして、よろしくお願いします」
お辞儀ではなく、こちらの儀礼に則った挨拶――実亜は膝を軽く曲げて、笑顔でアステリアに挨拶をしていた。
「アステリア・ウェル・クレリーです。以後お見知り置きを。ミアお姉様とお呼びしてもいいですか?」
同じ挨拶の仕草なのに、アステリアのほうが綺麗で優雅に挨拶をしている。流石、お嬢様だと実亜は思った。
「え、そんな勿体ないですよ……?」
いきなりお姉様――実亜の頭の中にはそんな呼び方は準備していない。そもそも「ミア様」でも、実亜の中には少し戸惑いがあるのだ。「様」を付けて呼ばれる器じゃないという意味で。
「遠慮するな。私の伴侶になるのだから、アステリアにとっても姉だろう」
ソフィアがあとから「何故、勿体ない? ミアは時々面白いな」と、ジワジワ笑っていた。
「それでね、お母様がミアお姉様の着ていたっていう服を楽しみにしていて、想像で服を仕立てたりしてたんです」
アステリアは楽しそうに実亜と腕を組んで、城の中を歩いていた。ソフィアはそんな二人を見て笑っている。
「そんなにですか? じゃあ、ご期待を裏切っちゃうかもしれないです……本当に地味な服なので」
装飾とか、刺繍とか、そういう華やかなものはない――実亜はアステリアと歩きながら答えていた。実亜のスーツをそんなに楽しみにしてくれているのは嬉しいのだけど、いざ見せた時の反応を考えると、そう喜んでばかりもいられない。
「大丈夫ですよ。最近帝都では装飾の少ない服が流行してるんです」
私も楽しみなんです――アステリアはぴょこぴょこと跳ねて楽しげだ。おしとやかに見えるけど、元気で可愛い人――実亜は思った。
「アステリアは母上と似ていて服が好きだからな」
店を買わないだけまだ安心だが――ソフィアが笑っている。
「ソフィアお姉様が服装に構わなさすぎなんです。ほとんど騎士の制服姿じゃないですか」
ミアお姉様はこんなに可愛い乗馬服なのに――アステリアが実亜の腕をギュッと抱きしめていた。
「しかし、魔物が出てきた時には素早く対応出来るぞ? それに、ミアのこの乗馬服を選んだのは私だ」
ソフィアはキリッと言い切ると、アステリアに向かって得意気に笑っている。
「帝都の近くは最強の帝国騎士団が守ってくださってま……ソフィアお姉様、こんなに服を選ぶの上手でした?」
アステリアが「嘘でしょ?」と、乗馬服姿の実亜を眺めて「こんなに素敵な服を?」と首を傾げていた。
「ああ、私が選んだ。そして、私はその最強の騎士団の一員――つまり、いつも皆を守るために、この服装でも構わないのだぞ?」
「本当です……」
「アステリア、まだ私には敵わないようだな」
ソフィアの姉としての威厳だろうか、強くて、少し優しくて、凄く格好良い。
「はい……」
アステリアは素直に負けのようなものを認めていた。




