旅の珍味
(79)
「ミア、この丘から向こうのほうに海が見える」
雨で一日休みになったけれど、旅は順調に十日目に入っていた。もう旅程の半分が過ぎたことになる。
ソフィアが小高い丘の上でリューンを止めて実亜を待っている。実亜は焦らずにリーファスを歩かせて、ソフィアの隣に向かう。
ふわっと通った風に、少し潮の香りがしたような――
「わあ……」
実亜は丘の上に辿り着いて、視界に広がる景色を見ていた。
空と海のそれぞれ違う青色で、綺麗に世界が分割されているような眺めは、今までに実亜が見たことのない景色――それは何処までも広い。
「夕方にはあの港に着く。宿の食事は美味い魚が沢山あるぞ」
ソフィアが指差した方向には、綺麗に整備された港が見える。大きな建物もいくつかあって、船もあって、遠くからでも活気のある感じが伝わってくるようだ。
「はい、楽しみにしてます」
実亜の返事にソフィアが笑うと、リューンをゆっくりと港の方向の道に歩かせ始めていた。
「ミアはツクリを食べたことがあるんだったな」
ソフィアが楽しさを抑えきれない様子で実亜に訊く。ツクリは刺身のこと――こちらでは海の近くでしか食べられない珍味に近いものらしい。
魚好きのソフィアだし、楽しみなのだろうな――実亜はソフィアを見て、自分の楽しみも増す。
ソフィアの気持ちが伝わっているのか、リューンが今にも走り出しそうなくらい足取りが軽い。リーファスも一緒になって、楽しげな足取りだ。
「はい。わりと気軽に食べられる料理なので」
「ふむ、羨ましい――生魚は海のものでないと食べられないからな」
そういうものなのか――そういえば前の世界でも川魚の刺身は聞いたことがなかったなと実亜は感心していた。
「おお……久々のツクリだ……」
ソフィアが目をキラキラさせて、テーブルの上を見ている。
宿に着いて、少し休んでからの夕食はとても豪華な盛り付けの刺身だった。赤身の鮪のような刺身や、白身の鯛らしき刺身もあって、海藻もサラダのように添えられているし、華やかだ。
「綺麗です。美味しそう」
実亜はソフィアにエスコートされて、席に着いていた。今日のソフィアは張り切っている。
「ミア、食べ方はわかるか?」
ソフィアは小さな調味料の瓶をいくつか並べて、準備万端で美味しそうなツクリに挑んでいる。ちょっと可愛い。
「はい。お醤油――サルサを少し付けて」
「ふむ? そんな食べ方があるのか?」
虚を突かれたようにソフィアが首を傾げていた。
「え……? こちらではどうやって食べるんですか?」
刺身の食べ方は醤油――この世界ではサルサという名前の調味料――を使うくらいしか、実亜には思い浮かばないのだけど、一般的な食べ方ではないみたいなソフィアの反応だ。
「塩と油を少しかけて、時々酢も使う。しかし、サルサはそう使うのか……ふむ、確かに塩気もあるし、生魚と合いそうだ」
ソフィアは「早速食べてみよう」と、宿の人にサルサを頼んでいる。宿の人は不思議そうにしながらも、サルサの入った小瓶を持って来てくれた。その様子を見ていても、こちらでは本当に刺身には醤油を使わないみたいだ。塩と油だと、海鮮サラダのような感じだろうか。
「こちらではサルサは何に使うんですか?」
専門店のようなところでないと手に入らないし、まあまあの値段の調味料だから、実亜が思っているより気軽には使われないものだとの認識はあるけれど、じゃあ何に使うのかとなるとわからない。
実亜は訊きながら小皿を用意して、サルサを少し皿に注ぐ。ソフィアの口に合うかどうかわからないから、まずは少量で試食してもらえるように。
「塊の肉を焼いた時に薄く塗るくらいだな。サルサを作っている土地だと別の使い方もあるみたいだが……ばあやならもう少し詳しいはずだ」
「じゃあ、ばあやさんに習わないとですね――真似してみてください」
実亜はフォークで赤身のツクリ――多分鮪――を刺して、小皿のサルサに少しだけ浸す。
「そんなに少しで良いのか?」
ソフィアが興味津々で真似をしていた。なんか、いつもと逆で少し楽しいと実亜は思う。いつもは実亜がこの世界のことをソフィアに沢山訊いているから。
「はい。お醤油――サルサは塩味が強いので、少しで大丈夫です」
実亜はまず、自分が食べてみる。サルサは少しとろみと甘みがあるたまり醤油のような味なので、良い感じに刺身に合っていた。そして、実亜には懐かしい味だ。
此処にワサビがあればもっと――実亜はちょっと贅沢なことを思っていた。
「ふむ――いただこう」
ソフィアがツクリを食べる。そしてしばらくじっくりと味わって、目を閉じていた。
「……どうですか?」
実亜は少し恐る恐るで訊いていた。ソフィアの様子を見ていると、いい反応っぽいのだけど。
「これは美味い――ああ、失礼した、美味しい。塩にはない風味がいいな」
気に入ってくれたようで、ソフィアは次々にフォークでツクリを刺してサルサを浸けて食べている。
「私はソフィアさんの言ってた塩と油でも食べてみます」
実亜は小皿に塩と油を取り出して、ソフィアの食べ方を試していた。塩は粗塩で適度に引き締まった塩っぱさだし、油はオリーブオイルのようで少し甘い風味がある。これだけでも美味しいけれど、酢を足すとさっぱりした風味になって、更に食べやすい。
でも、サルサ――醤油と刺身の懐かしさも捨てがたくて、どちらも美味しかった。
「塩と油もいいだろう?」
「はい、美味しいです」
実亜はソフィアに負けずにツクリを食べる。
そんな二人を見ている他の人たちが、気軽に声をかけて食べ方を尋ねてきて「自分もサルサを」と頼んでいたのだった。
「潮風が涼しくて、気持ちいいです」
実亜は船が沢山泊まっている港をソフィアと二人で歩いていた。食後は少し港の街を歩こうと、ソフィアがデートみたいなものに誘ってくれたのだ。
沢山ある船には防犯のために必ず灯りが提げられているらしく、それがネオンのように光って夜の海を鮮やかに彩っていた。そして、降るような星空――
時々海から吹いてくる風は涼やかで柔らかい。
「リスフォールの周囲は山ばかりだから、海も少し気分が変わるだろう?」
ソフィアの髪がふわっと風になびいて、とても綺麗な一瞬を作り出す。
「はい。此処までの旅も見たことのないものが沢山で、勉強と言うか……素敵なところだなって思います」
実亜は優しくて頼れて、少し可愛くて沢山素敵なソフィアと、船の灯りが反射して光る海の景色を見ていた。見たことのない世界、見たことのない景色や人々。だけど、自分の居場所なのだと確信出来る世界は、美しい。
「そうか。カイシャとは勝手も違うのだろうが、ミアが過ごしやすいなら、それでいい」
ソフィアは実亜をじっと見て「旅の疲れはないか?」と訊く。実亜は頷いて、ソフィアの手を握っていた。
「ソフィアさんが色々と教えてくださるので、楽しい旅です」
実亜はキュッとソフィアの手を握りしめて、いつもソフィアがしてくれるみたいにそっとくちづけをしてみる。ソフィアは優しく笑うと実亜に近付いて、唇に軽くキスをしていた。
「――私もミアには色々と教わっている。こういうものは持ちつ持たれつだ」
ソフィアは甘く囁いて、実亜の髪と頬を優しく撫でる。
「明日は遅くまで眠れる。もう少し海と星空を見て歩こうか」
「はい」
実亜はソフィアと手を繋いで、降るように輝く星空と、心地よい潮風の中を歩いていた。
刺身が大好きソフィアさん。




