旅と疲れと
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旅に出て、五日目――今日は低めの山を越える予定だ。
低めだと言っても、一番高い頂上は多分都会の超高層ビルくらいあるから、まあまあの登山のような気がする。実亜たちは馬に乗り、麓から緩やかな角度で続くつづら折りの――折り返しが何重にも続く山道に入っていた。
切り拓かれた道は、幾人もの人たちが通ってきたことを証明するように、しっかりと踏み固められている。道端には小さな草が生えて、黄色い花を付けていたり――白い綿毛をまとったものもあるから、多分タンポポだろう。
リーファスとリューンが時々立ち止まって、タンポポの香りを確認してから花を食べていて、ちょっと可愛い。
「美味しい?」
実亜は口をモグモグさせながら山道を上るリーファスに訊いていた。返事は流石にわからないけど、リーファスはご機嫌に歩いているような感じだ。
「タナの根を使った茶もあるから、それなりには美味しいはずだぞ?」
根を掘り出すのが大変らしい――ソフィアは鞍上からリューンの首を撫でて、山道を進んでいる。
「あの黄色い花、こちらではタナって言うんですか?」
タンポポとタナ、共通点がない。ソフィアの言う通り、世界は広いと実亜は思う。
「ああ、タナだ――ミアの国では何と言うんだ?」
「一般的にはタンポポです」
綿毛の付いた種は風に乗って遠くまで飛んでいく――実亜はソフィアに説明をしていた。
「ふむ。なんとなく可愛いな。ミアの言葉は可愛いものが多い」
ソフィアが楽しそうに「以前の『ぷるぷる』は私も特に気に入ってる」と笑う。
「そうですか?」
「ああ、凄く可愛いぞ?」
なあ、リューン――ソフィアは実亜とリューンに話しかけながら、山道を上っていた。
「ミア、もうすぐ山頂だ。そこで休憩しよう」
「はい」
ソフィアの先導で、木が覆い茂る山道を抜けると、山頂の広場に出た。麓からここまで二時間くらい――意外とあっさり登れた気がする。馬たちのおかげだけど。
山頂には休憩が出来る小屋がいくつかあって、馬たちのための水飲み場もあるから、まずは二頭を休ませていた。
「わあ……街が遠いですね」
実亜は山頂から遙か向こうまで広がる平野を見ていた。道が遠くに続いていて、所々に整備された街があって、川が流れていて――これが広大な景色というものなのだろう。実亜は広がる風景をしばらく眺めて、本当に前に自分が居た世界とは違う世界をしみじみと実感する。
此処で生きると決めたのは、間違いじゃない――実亜の心にそんな強い気持ちが去来する。
それくらい、この世界は自分の居場所だと思えるのだ。こうして見る景色も、まだ見ぬ景色も、全てを素直に受け入れられるくらい――
「この辺りの平野を一望出来る山だからな。地図だと此処だ」
ソフィアは地図を広げて、リスフォールから此処までの道を指先で辿って現在地の山で止まる。
「この山を下りると、川魚の美味しい宿がある。宿の主人が朝から釣りに行くんだ」
あの川の支流が近くにある――ソフィアは地図から景色に視線を移して、川を指してから森へと指先を動かす。残念ながら実亜の視力では、森しか見えなかった。
「相当大きな魚ですか?」
大きな川だから、そこから分かれた川でもそこそこのはずだし、大きな魚――と、思うのは安直だろうか。でも、宿で出すからには小さめのものを沢山釣るより、大物を一匹釣ったほうが効率が良い。行き帰りの手間だとかも考えると。
「ああ、切り身にして多めの油で香草と一緒に揚げ焼きをする。ミアにも存分に食べてほしい」
香草がまた良い香りなんだ――ソフィアは今から楽しみにしているようだった。
「山って、下るほうが慎重なんですね」
実亜は山道をゆっくりと下りるソフィアに話しかけていた。
道そのものは上ってきたのと同じ感じの道程で、距離も同じくらい――山だからどちらが上りも下りもないのだけど。
「そうだな――下りるほうが馬の脚にも負担がかかりやすいし、上りの疲れもあるから慎重に、と言うのが習わしだ」
ソフィアの話だと、人が山登りをする時も同じらしい。旅というものは、なかなか奥が深くて面白いと実亜は思う。
「大事な愛馬ですもんね」
実亜はリーファスの首を適度に撫でて、ゆっくりと山道を下っていた。
「そういうことだ。乗っている人間も身体を後ろに傾けるから、平地より疲れるものだし」
「あ、言われてみれば……」
実亜の身体はバランスを取るように、山道の傾きと連動していた。意識すると何気に腹筋と背筋への負荷を感じる。
「気付いてなかったのか? 乗馬が上達した証拠だな」
「ソフィアさんとリーファスのおかげです。あ、リューンもありがとう」
今まで馬と触れ合ったことのない実亜がここまで出来るのは、ソフィアが優しく丁寧に教えてくれるし、リーファスはこちらの言葉がわかっているみたいに付き合ってくれるから。多分二人の――一人と一頭のおかげだと思う。いや、リューンもお付き合いしてくれてるから、リューンもだ。
「はは――それは私も嬉しい」
ソフィアはキラキラと太陽の光を受けて、笑っている。
「明日はお腹と背中がバキバキになりそうですね」
「ふむ、バキバキ……? 鍛えられるということか?」
実亜が思わず口にした言葉を、ソフィアは楽しそうに考えていた。そして、ちょっと惜しい正解を出していた。
「あっ、当たりです。鍛えて引き締まった感じです」
鍛えた後の筋肉痛でもバキバキしてるとか言います――実亜は重ねて説明をする。
「よし、ようやくミアの言葉を解読出来てきた。嬉しいものだ」
ソフィアは「ミアの言葉で私を沢山バキバキしてくれ」と笑うのだった。
若干使い方を間違ってるけど、沢山鍛えてくれということなら、合ってる。
でも、凄く楽しくて、面白くて、実亜も笑っていた。
「美味しいです。食べたことない魚かもしれないです」
実亜たちは無事に山を下りて、川魚の美味しい宿に着いてから、馬たちのケアをして夕食の席に着いていた。ソフィアの言っていた通り、香草と共に揚げ焼きされていて、香ばしい風味が実亜の味覚をくすぐる。
「ふむ、ミアの国は周辺が海だと言っていたな。川魚はあまり食べないのか?」
魚の皮も香ばしくていいな――ソフィアは綺麗に切り身を食べている。
「川魚はちょっと贅沢な料理かもしれないです。見たことがあるのは高級な料理の特集とかなので……私はあまり、お目にかからないというか……」
実亜が覚えているのは、旬の時期に天然の鮎とかを出す料亭――旅番組だったように思う。綺麗な川の魚じゃないと食べられないし、高級だし、言われてみれば川魚は食べたことがない。
「そうか、今夜は思う存分食べてくれ」
ソフィアは考え込む実亜におかわりを勧めてくれていた。揚げ焼きだけではなくて、塩焼きも頼めるぞ――と。
「はい、じゃあ、お言葉に甘えて、塩焼きをお願いします」
実亜はあえて深く突っ込んで訊かないソフィアの優しさに感謝していた。
二人での夕食が終わって、実亜が風呂から出るとソフィアが室内で剣を振っていた。一つ一つの動きを確認しながら、綺麗な舞のような所作――だけど、剣を振り下ろす速度は速くて、空を切る音で部屋の空気が少し震えているくらいだ。
「ああ、ミア。疲れは取れたか?」
ソフィアは剣を止めて、汗を拭っていた。まだ涼しいと言える気候だけど、相当集中して訓練をしていたようだった。
「はい、いいお湯でした。ソフィアさんは訓練ですか?」
実亜は首にかけているバスタオルで、ソフィアの額の汗を少し拭う。すぐに風呂に入って温まってもらわないと、風邪をひくかもしれないから心配だ。
「数日剣を振ってなかったからな。肩と背中が少し痛くて重い」
首も少し強ばっている感じだ――ソフィアは、剣を鞘に収めて、風呂の用意をしている。
「え、じゃあ訓練で無理したら、もっと酷くならない……ですか?」
「訓練不足の痛みだ。馬に乗っていたら同じ姿勢も続くし、こういう時は動かすほうがいいんだ」
ソフィアはそう言いながら自分の首を手で押さえて、頭を左右に傾けて、肩こりを解すような仕草をしている。
「……それって、肩こりじゃないんですか?」
「肩こり?」
「えっと、肩をあまり動かさないと身体が強ばって、痛いと言うか重いと言うか……とにかくお風呂で温まってください」
実亜は解説しながら、ソフィアを風呂場に半ば強引に連れて行く。
「ふむ……詳しい話は風呂上がりに聞かせてもらおう」
ソフィアは素直に風呂場に消えていった。
「成程、訓練不足から来る身体の強ばりや疲れを肩こりと言うのだな?」
風呂上がりの温まった身体でソフィアは頷いていた。もう寝間着姿で、風呂上がりの水分補給もしている。
「はい。肩だけじゃなくて、首こりとかも言います」
「ふむ――言われてみれば……肩が痛むと首も少し動きが悪くなるような――どうした?」
実亜はソフィアの腕をとって、軽いマッサージを始めていた。
「肩こりの時はこうして揉むと少し楽になります」
実亜はソフィアの腕から肩にかけてゆっくり揉み解して、時々ツボを軽く押したりして、大事な人のケアをする。ソフィアの身体は戦う人の身体で、だけど何処か華奢にも思えて不思議だ。
大事な人で、愛しい人――こんな感情も、この世界に来てから初めて知ることが出来た。
「あ……その肩の辺り、何と言うか、心地良い痛みだ」
「この辺ですか?」
ソフィアが少し色っぽくそんなことを言う。実亜の手はソフィアの肩先から首にかけての真ん中辺りで、確か肩こりのツボだ。やはり、少し強ばっている感じ――実亜は少し重点的に揉んでみる。
「う……む、ああ……ミアの手は魔法のようだな。痛みがあるはずなのに、楽になってきた」
不思議なものだ――ソフィアは実亜に身体を委ねてくれていた。
「肩の痛みがなくなった。それに軽い――おかげで肩こりと言うものがわかった。ありがとう」
十分程のマッサージが終わって、ソフィアは肩を軽く回して笑っていた。
「いえ、いつもお世話になってますから」
私に出来るのはこれくらい――実亜はソフィアの手を取って、自分でも押さえることが出来る肩こりのツボを教えていた。手の親指と人差し指の間の部分は、ちょっとした疲れ目にも効くから。
「何を言う、ミアと私の仲ではないか。遠慮はしなくていい」
ソフィアは触れていた実亜の手を指先でくすぐって、指を絡める。その手は、いつも実亜の心を温かくしてくれる。
「はい――」
この温もりをもっと――実亜は自分からソフィアの唇にキスをしていた。
「……ミア、もう一度」
ソフィアは繋いだ指先と反対の手で実亜の頬をそっと撫でて、もう一度のキスをしてくれていた。




