旅の途中
(74)
旅に出て三日目に辿り着いた宿の部屋は、少し変わっていた。
部屋にガラス張りのバルコニーのような、洗濯物を干せる空間があったのだ。それに伴って、洗濯場もあった。
「此処は山越え前や山越え後に支度を整える人が多い宿なんだ」
雪の多いリスフォールでもあまり見かけない設備だな――実亜が物珍しそうにその空間を見学していると、ソフィアが教えてくれる。
ソフィアは手にここ数日間で着た服を持って、洗濯の準備をしていた。馬に乗っていると案外泥が跳ねたりするし、休憩で少し道端に座ったりすると、服が意外と汚れるのだ。
「勉強になります……あ、私が洗濯しますね」
実亜は洗濯物を受け取って、大きなタライに入れていた。この世界には洗濯機がないから手洗い――なかなか大変な家事の一つだった。
「ミアは慣れない旅で疲れているだろう? 休んでおけばいい。先はまだ長い」
ソフィアは腕捲りをしながら洗濯用のブラシを持ち、実亜に笑いかける。
「でも……それはソフィアさんも同じですから」
実亜は部屋に備え付けられている粉石鹸を手にして少し振りながら、ソフィアに答えていた。粉石鹸は湿気を帯びやすくて、固まりやすいから、振って解すのがもう癖になっている。
「ふむ、そうだな……それなら、干すのを手伝ってもらおうか」
旅はお互いの譲り合いも大事だからな――ソフィアは実亜の頭を撫でて笑うと、洗濯物に向かっていた。
「はい!」
実亜はソフィアが洗濯する様子を眺めるのだった。
まだこの世界の洗濯方法にあまり慣れてないから、ちょっと勉強で。
「どうだ? 綺麗になっただろう?」
一時間程経っただろうか――ソフィアがやり遂げた表情で洗い終えた洗濯物を絞って広げていた。ソフィアの手際は鮮やかで、泥跳ねをブラシで払い落としてから、粉石鹸を泡立てつつ優しく揉み洗いをして、見る見るうちに洗濯物が綺麗になっていたのだ。
「はい。ソフィアさん慣れてて参考になります」
実亜も手伝って、二人で洗濯物を干す。泥汚れも綺麗に落ちて、粉石鹸の良い匂いがする。洗濯用の粉石鹸には大体の場合、花から抽出した香料を使っているので、その匂いだ。
「一人で何でも出来るようにばあやに教えられているからな」
ソフィアも手際よく洗濯物のシワを叩いて伸ばして、次々に干していく。部屋の中だから干しっぱなしでも夜露に濡れなくて、いい設備だと言いながら。
リスフォールだと雪が積もりすぎて、こういった部屋を作っても埋もれて日が当たらないし、暖房の効いている室内に干したほうがいいらしい。
「ばあやさん、厳しいんですか?」
実亜の印象では優しくて、厳しくて、ちょっと面白いと思うのだけど、小さな頃から見ているソフィアにはまた違った接し方かもしれない。もっと、教育係のような――
「時々厳しいが、基本的には優しいぞ? 怒らせると厳しいを通り越して怖いのだが……」
「怒らせたこと、あるんです?」
ソフィアくらいしっかりした人ならそんなに悪いこともしなさそうだけど、子供の頃だったらわからない――実亜が出逢ったのは、大人のソフィアだから。
「何度か怒らせた。ばあやの服の袖を縫い合わせて着にくくさせたり」
袖口を縫い付けるんだ――洗濯物を干し終わったソフィアは、捲り上げていた自分の服の袖を下ろして、袖口をピッタリと閉じてやり方を教えてくれた。
腕を通した時に最後まで通らない悪戯は、小さなダメージを受けそうな感じだ。でも、まあまあ可愛いほうに入ると実亜は思う。
「それは……ちょっと怒りますね」
「裁縫を教えた結果がこれですか! と、十日間くらいお菓子を取り上げられた……」
ソフィアが苦笑いで実亜に教えてくれる。自分や誰かの役に立てるように教えたことを悪戯に使ったから怒って当然で、今ではばあやが怒った意味もよくわかるらしい。
しかし、十日間のお菓子抜き――子供に対してなかなかのお怒りだった。
「ソフィアさんって、なんで時々可愛いんですか?」
実亜はそう言いながら、部屋のベッドに座るソフィアを見る。格好いいのに可愛くて、強くて優しくて、知れば知るほどソフィアは素敵な人だと思う。
「ふむ……そう来るとは思わなかったな……」
ソフィアは「可愛い」と言うと照れる。こちらにはいつも可愛いと言ってくれるのにな――実亜は思う。
「子供の頃も、凄く可愛かったんだろうな――とか」
実亜は可愛いを何度も言う作戦で攻めてみた。照れには慣れてもらうしかない。自分だってソフィアに何度も可愛いと褒めてもらって、ちょっと慣れることが出来たのだから。
「ふむ――子供の頃は、静かな子供だったぞ?」
ソフィアはそんな話をしながら「おいで」と、手を広げて実亜を呼ぶ。
「ばあやさんの服に悪戯してたのにですか?」
実亜はソフィアの手の中に吸い込まれるように収まって、そのままソフィアをベッドに押し倒すように甘えてもたれる。ソフィアも実亜を抱きしめてベッドに柔らかく倒れ込んで――洗濯をした時の残り香が、ふわっと二人を包んでいた。
「静かな子供だから、悪戯が一段と目立つんだ」
ソフィアは実亜の髪を撫でて、指先に絡めて遊んでいる。
「なるほど――」
もっと聞きたい――実亜は、ソフィアにもう少し甘えていた。
ソフィアの子供の頃の話を聞いているうちに、実亜は眠っていた。
時々ソフィアの声が聞こえているから、深い眠りではなくて、もっと浅瀬で揺蕩うような、現実と夢の狭間のような、凄く心地のいい眠りで――
「――疲れてるのだな、無理もない」
ソフィアの声と、柔らかくて優しい手が、実亜を温かいもので満たしていく。
きっと、この人と出逢うために生まれてきたのだ――実亜は揺蕩う意識の中で思っていた。




