雪と誓い
(15)
「ミア、コメとはこれじゃないか?」
実亜はソフィアと市場に来て、今日は少し珍しい食材を扱う店のほうまで二人で歩いていた。
軒先に色とりどりの商品が並ぶ中で、ソフィアが米らしきものを見付けていた。
サラサラとソフィアの手から溢れ落ちている小さな白い粒は、実亜が見慣れた米だ。
リスフォールでもコメと呼ばれるものは、帝国領の南のほうで育てているものらしい。
「……あ、そうです。これです!」
実亜も少し手にとって、確かめる。もう精米されている状態だった。
「これを煮るのか?」
「煮ると言うより少なめの水で炊きます」
「成程、では買おう。あとは……ミソか。豆を発酵させた調味料――案外同じようなところから運ばれてくるかもしれないな。南国の香辛料屋に行ってみよう」
ソフィアは瓶に入った米を買って、軽い調子で持っている。
実亜が「自分が持つ」と言ったら、ソフィアはただ笑って「大丈夫だ」と答えるだけだった。
「豆を発酵――野菜に付けて食べるパスタはあるが……これか?」
香辛料を扱う店は、香りが混ざって少し空腹感が増す。
ソフィアが店主に挨拶をして、小さな瓶の調味料を手にしていた。
「パスタ? ってペーストみたいな……?」
でも実亜の知っているパスタは小麦粉を練った麺だ。
「ん? パスタ……こういうものだ」
ソフィアは手にとった瓶を店主の了解を取って開けている。
実亜の元居た世界でも、確かペースト状のものをパスタとも言うし――そう思って小瓶を見たら、味噌くらい半固形状ではなくてもっと柔らかいけど、味噌そのものの香りがあった。
「……凄く似てます」
実亜がソフィアを見たら、ソフィアも嬉しそうに笑っていた。
「良かったら、味見をどうぞ」
店主が小さなスプーン――匙を持って来てくれた。
この街の人たちは、皆優しい。ソフィアの人徳もあるのだろう。
実亜は礼を言ってスプーンを受け取って、味噌のようなものを少しだけ掬って舐めた。
「――これです」
薄めだけど、味噌の味――実亜はもう一度確かめる。間違いない、味噌の味だ。
「ほう? これを煮込みに溶かすのか」
生野菜に付けるので、冬場はあまり使わない調味料だ――ソフィアも味を確かめていた。
「はい。それが味噌汁です」
実際はもう少し具材は少ない――実亜は味噌汁を解説する。
ソフィアは楽しそうに聞いて、味噌の瓶をいくつか手にしていた。
「――これで揃ったな。今日はミアの故郷の味だ」
「あの、ありがとうございます」
実亜はソフィアが持ちきれない荷物を少し持って、礼を言っていた。
店主が布のバッグを渡してくれたので、身体にかけられる。本当にこの街の人たちは優しい。
支払いも見ていたが、ソフィアは銀貨を何枚も使っていて――此処では銀貨一枚で一食が食べられることを考えたら、高い買い物だったのではないだろうか。
「気にするな。ミアの故郷の味は私も興味がある」
ミアの料理は美味しいから、きっと故郷の味も美味しいだろう――
ソフィアは楽しそうに、さりげなく実亜への期待値を上げていた。
「思ったより水は少ないのだな」
帰宅してから、実亜は米を少し研いで、鍋の中で水加減を見ていた。
米の上部から指の第一関節くらいまで水を注いで、少し浸す――確かこれで合っているはず。
「はい、こんな感じで……上手く炊けるかな……」
小さい頃に学校の林間学校で薪での炊飯をやった以来だから不安だけど、此処ではガスを使うし、水加減をしっかりとすればなんとかなりそうだ。
「ふむ、失敗もまた味だ。気にせず作れば良い」
ソフィアは笑って、味噌汁用の野菜を刻んでいた。
「コメを炊く時は、シェールの前から離れられないのだな」
ソフィアが興味深そうに実亜を見ていた。
実亜は一時間くらい米を水に浸して、ガス――シェールにかけていた。
火加減が確か弱火から初めて、沸騰したら強火にして、水分がなくなったら中火にしないとなので、実亜はコンロの前から離れられないのだ。
「慣れれば他のことも出来るんですけど」
実亜はコンロとにらめっこで、ソフィアに答えていた。
「いつもはどうやって炊くんだ?」
「炊飯器って言う機械があって、それに準備したら自動で炊けるんです」
水分が少なくなった――ここからは少し中火で、あとは火を止めて蒸らす。
なんとか上手く炊けたみたいだ。実亜はやっと一息ついていた。
「――ほう、機械。帝国でも鉱山掘削の機械なんかは見るが、食事を作る機械があるのか」
ニホンは便利だな――ソフィアは見たことのない実亜の故郷を想像しているみたいだ。
「もしかして、掃除をする機械もあるのか?」
ソフィアは楽しそうに実亜に訊いて来る。
「色んな種類のものがあります」
自分で動かしてゴミを吸うもの、自分で動いて床のゴミを吸うもの――実亜は数多ある掃除機をジェスチャー付きで紹介していた。
「……ふむ、面白いな」
ソフィアはその話を柔軟に受け入れて、少しの謎を楽しんでいるみたいだった。
「炊けました。で、食べやすいようにおむすびっていうものにしたいんですけど」
蒸らし時間も終わって、実亜は木ベラをしゃもじ代わりにして鍋の中を確認していた。
少し焦げがあるけれど、食べられる範囲の焦げ――場合によっては美味しいものだ。
「オムスビ……どんなものだ?」
「炊けた米を手で丸めるんです」
「ほう――豪快だ」
機械がある国なのに、手で丸めるのか――ソフィアが少し不思議そうにしている。
「あの、手を綺麗に洗いますけど、駄目なら駄目って言ってくださいね?」
此処には食品用のラップなんてないし、素手で握ることになる。
実亜の手には怪我もないし、作ってすぐに食べるから大丈夫だと思うけれど――ソフィアに抵抗感はないだろうか。
「大丈夫だ、これでも他国の儀礼を尊重するようには心がけている」
ソフィアは心強い言葉で、実亜を後押ししてくれていた。
「美味い!」
なんだかんだで作ったおむすびは、思ったよりも好評で――ソフィアは第一声でそれだった。
言ったあとで慌てて「美味しい」と言い直していたけど、気に入ってもらえたみたいだ。
米を蒸らしている間に作った味噌汁も、野菜多めで肉の切れ端が少し入って、豚汁みたいな出来になっていた。
「良かったです」
作ったほうとしても気に入ってもらえて一安心――クリームシチューの時も思ったけれど。
ソフィアは野営みたいだと、おむすびを手掴みで食べることも厭わず楽しんでいる。
「ミアも遠慮せず、もっと食べれば良い」
「はい」
心配でソフィアを見ていたので、実亜はまだおむすびを食べていない。
一口――実亜はおむすびに齧り付く。
「これです、私の故郷の味です……」
懐かしい味――此処に来てからそんなに日にちは経っていないのに。
だけど、不思議と涙が出て来る。
ブラック企業に居た頃はとりあえずかき込むだけだった食事――
最後のほうは味もそんなに感じられなかった。ただ生き延びるためだけの食事だった。
だけど、ソフィアと一緒に食べる食事は凄く温かくて、楽しくて、穏やかで心が満たされる。
ちょっと似ているけど、ちょっと違う世界で、生きている実感がそこにあった。
「どうした? 辛いことを思い出してしまったか?」
ソフィアが心配そうに実亜を覗き込む。
「……私、会社に居た時、こうしてごはんもゆっくりまともに食べてなかったって……だから、今凄く穏やかだなって」
「そうか……カイシャは過酷だったのだな……ゆっくり食べれば良い」
ソフィアは「また一緒に食べよう」と約束もしてくれる。
「はい……」
実亜は泣きながら、ソフィアとの食事を味わっていた。
「ミア、今夜から雪が降りそうだ」
食事を終えて、リューンの小屋から戻って来たソフィアは、少し嬉しそうだった。
「わかるんですか?」
実亜は嬉しそうなソフィアに訊く。
リスフォールの人たちは長く降り積もる雪に困ることはないのだろうか。
「雲の様子と、風の調子でおおよそだがな。十年も此処に居ると覚えている」
「ソフィアさんはリスフォールのご出身じゃないんですか?」
「ああ、私はルヴィック出身だ。リスフォールが性に合って、定期報告以外はずっとこの街だ」
居心地が良い――ソフィアは牛乳を温めている。実亜の分も。
「なんか、わかる気がします。ソフィアさん優しいから街の皆さんに慕われてますし、街の皆さんも私にまで優しいです」
実亜がこの街で過ごしやすいのは、ソフィアが慕われているから――ソフィアのおかげだ。
「ふむ、中には英雄視してくれている人も居て、少し荷が重いが」
ソフィアは苦笑いで実亜に温かい牛乳を差し出してくれる。
「英雄――前に言ってたリスフォールの悲劇のことですか?」
十年ほど前にこの街は魔物に襲われて壊滅寸前だった――それをリスフォールの悲劇と呼ぶ。
街の人たちはその悲劇に口を閉ざすことはないが、進んで話もしない。
街は綺麗になっているみたいだが、傷跡は根深く心に残っているのだろう。
「ああ、街の存続も危ぶまれたが、騎士団が間に合って寸前でなんとか持ち堪えられた」
もう少し遅かったら――考えると怖くなるとソフィアは言う。
「……辛い思いをした人も多いでしょうね」
これまでの生活が奪われて、自分の命さえ危うくて、大事な人を亡くした人も居るだろう。
それでも、この街の人たちはみんな強い。
「そうだな――皆、力強く立ち直って生活を送っているが……ミアは優しいな」
ソフィアはマグカップを持って――これはリスフォールでは何と言うのだろう――静かに笑う。
「え、どうしてですか?」
質問ばかりだな――実亜は少し反省していた。
知りたいけど、むやみに傷を抉る気はないのに。
「自分も過酷な状況にあったのに、他人を考えられる。それを優しいのだと私は思う」
ソフィアは実亜を見て、その綺麗な笑みで、そんなことを言う。
「弱いだけです……」
実亜はポツリと呟く。ソフィアは意外そうな顔をしていた。
「あんな酷い会社から、逃げ出すことも出来なくて……弱いだけです」
逃げようと思えば逃げられたはずだけど、それが出来なかったのは、単に自分を必要としてくれる場所を捨てられなかっただけだ。
その必要とされる形が、たとえ使い捨てのモノ扱いだったとしても。
実亜はそれが欲しかった。誰かから必要とされる、そんな人間になりたかったのだ。
「それはミアのせいじゃない。優しさと弱さは良く似ているものだ」
きっと優しすぎるんだ――ソフィアは静かに言って目を閉じる。
「でも、ソフィアさんは強くて、優しいです」
街を守って、慕われていて、見ず知らずの実亜にも優しい。
騎士だから、使命があるからそれだけでここまで出来るものではない。
「――そうか? 今はわりとミアに頼っているぞ?」
「えっ」
「仕事から帰って来て、ミアが居たら嬉しくなる」
ソフィアは笑いながら温かい牛乳を飲んでいる。
「……そんな、私、迷惑ばかりかけてるのに」
服も、食事も、寝るところも――ソフィアが助けてくれなくては野垂れ死にだったはずだ。
いや、あの時一度死んでいるのだから、それが運命だったのかもしれない。
だけど、実亜は今、生きて此処に居る。
「心配するな。迷惑をかけていると思っている者は、案外迷惑をかけていない」
ソフィアは机に頬杖をついて、軽く実亜の心配を蹴散らしてくれた。
「それに、生きている以上、誰かには多かれ少なかれ迷惑をかけるものだ」
気にするものではない――ソフィアは優しく実亜を諭す。
「……はい」
「ん、雪だ。少し早かったみたいだ。見に行こう」
ソフィアが窓を見て、雪の影に気付いていた。
「まだ積もるまでは行かないが、降り始めの雪も好きな景色なんだ」
ソフィアの家の庭に出て、はらはらと落ちてくる雪を二人で眺めていた。
空は重い雲が覆っているが、雪の欠片は軽やかで舞うようだ。
手の平で雪を受け止めると、しばらくして儚く消える。
「はい……綺麗――」
実亜は落ちてくる雪を手にして、消えるのをしばらく眺める。
こんな風に自然を感じる気持ち――しばらく覚えがない。
「故郷に帰りたいか?」
ずっと空を見ていたソフィアが不意に訊く。
「……帰っても、もう私の居場所は無いです」
元からあの世界にはなかった居場所――無理に作ったのがブラック企業だった。
そこで、実亜の心は削られて、身体までボロボロで――居場所だと錯覚していただけだった。
「大事な人は、居なかったのか?」
「誰も……家族にも疎まれてましたから」
実亜の家族はお世辞にも良い家族だとは言えなかった。
実亜の収入を当てにして、実亜を家族というものに縛り付けていた。
ブラック企業でボロボロになっていても、気遣いの言葉さえもなく――
「……そうか」
ソフィアの手が、実亜の頭を撫でていた。
「わ……ソフィアさん」
騎士として、大人の相手にしてはいけないらしい行動――
あんなに途中で何度も止まっていたのに、今日は違う。
「誰も見ていない。今のミアには、これが必要だ」
ソフィアは悪戯っぽく笑うと、そのまま実亜の頭を抱きかかえる。
実亜の頭がソフィアの肩に軽く支えられて実亜は頭を預けていた。
ソフィアは案外華奢で、それでもしっかりした感触があった。
ソフィアの手が、実亜の頬にそっと触れる。
そして――
「……初雪が降った時に、誓いのくちづけを交わすと、その誓いは永遠に壊れないらしい」
ソフィアはそんなことを言い出す。
「え、あの、その……」
「貴女を守る騎士に――私の心からの誓いとしてくちづけを受け取ってくれないか」
ソフィアは強い決意を秘めた瞳で、実亜を見る。
「どうしてそこまで……私に……」
行き倒れの、何者かさえわからない人間に――
「わからない。ただ、ミアは一生懸命でとても素敵な人だ。守りたくもなるだろう」
「そんな……素敵なんて……」
そんな風に言われるようなことは、実亜はきっとしていない。
必死で生きてはいたけど、何もしていない。素敵な人だと言うなら、ソフィアのほうだ。
「謙遜しなくて良い。何度でも言う。ミアは素敵な人だ」
真っ直ぐに実亜の瞳を見て、ソフィアはゆっくりと言い聞かせてくれる。
「ソフィアさん……」
その綺麗な瞳は、吸い込まれそうなくらい魅力的で――
「ミア、永遠に――貴女を守ろう」
ソフィアの指が実亜の顎を軽く掬って、唇にそっと親指を這わせる。
「はい……ありがとうございます」
実亜は小さく答えて、目を閉じていた。
柔らかい感触が唇に触れる。
それは、実亜が新しい世界で生きていく、誓いだった。
第一部のちょっとした区切りです。




