万が一
(114)
深夜に生まれた仔馬は、明け方にはもう立ち上がって母馬の乳を飲めるようになっていた。
母馬のほうも無事で、小屋に詰めていた全員が安堵して――勿論、実亜もソフィアも――ソフィアはともかく実亜はほんの少ししか関わっていないけれど、何故か達成感みたいなものが心の中にあった。
「……本当、真っ白ですね。可愛い」
実亜は遠目から厩舎の中を見て、馬の親子を観察していた。確かに全身が白い毛で、目立っていて、まだ小さい。だけど、しっかりと力強く生きている。
「歩き方にも気になるところはない。しかし、白毛の馬がクレリー家にもたらされるとは――」
あまりにも意外すぎて全員驚いていたけれど――ソフィアも遠目から仔馬と母馬とを確認して、実亜をエスコートしながらそっと立ち去る。
生まれた仔馬が白毛だと告げられて小屋の中が一瞬で静かになったのは、驚きすぎてのことらしい。驚きすぎると逆に反応が出来ないような現象だったのだなと、実亜は色々と腑に落ちていた。
「あの、白毛ってそんなに珍しいんですか?」
実亜は厩舎から離れて、白々と夜が明けていく空を眺めながら、小さな声でソフィアに訊く。
朝は空気が澄んでいる気がするけれど、今朝はまた格別の空気だった。
「聞かない話ではないが――珍しいことは確かだ。馬専門の牧場でも十年に一頭生まれると多いくらいだな」
「馬専門ということは、一年に百頭くらい生まれるんですか?」
でも、この世界は馬が主要な交通手段だから、もっと多いかもしれないと実亜は思う。
人が移動するのも馬だし、荷物を運ぶのも馬だから。
「小さな牧場でも年に千頭ほど生まれる。クレリー家だと毎年二百頭は生まれているな」
ソフィアは「それでもここ最近では少し減った」と、教えてくれていた。
「えっと一万頭に一頭でも多いくらいだから……本当に万が一のことが起きたんですね。それは皆さん驚きますよ」
「驚きすぎて、皆が名付けを忘れているくらいだからな」
慣例なら馬の主人が付ける――ソフィアは歩きながら背伸びをして、苦笑いをしている。
「えっ、大事なことじゃないですか?」
「大事だが、急ぎすぎることでもない。特に今回はクレリー家を挙げて慎重に決めるほうが最善策だろうから、気付いていたけど言わなかった」
久々にクレリー家の大会議だ――ソフィアは楽しそうだ。
「それくらい、大変なことなんですね」
大変な瞬間に立ち会えたのだなと、実亜は屋敷に向かいながらしみじみと思う。前の世界に居たら――こういう喜びを知ることもなかったのかもしれない。
「そうだな。僥倖とでも言うのだろう。やはりミアは女神――」
「違いますよ?」
ソフィアもなかなか「女神」を諦めてくれない。実亜自身では絶対違うと思っているけれど、もしかしたら異文化の世界から来た人をそう呼ぶのなら「絶対違う」とも言いづらいのが問題だった。
「ソフィア様、ミア様、お疲れ様でした」
実亜とソフィアが屋敷に戻ると、執事見習いのクロエが温かい蒸しタオルを手に出迎えてくれていた。ふわっと温かいタオルで汗を拭けるのは、徹夜明けに何気に嬉しい。
「クロエも朝早くにご苦労――アステリアはもう寝たか?」
ソフィアはタオルで軽く汗を拭うと、一足先に部屋に戻ったアステリアの様子をクロエに訊いていた。
「はい。はしゃいでいらっしゃいましたが、それなりに眠かったようです」
お二人とのオムスビ作りも楽しかったようですとクロエがアステリアの様子を教えてくれる。
「ミアも眠くはないか?」
ソフィアは優しく実亜のことも気遣ってくれていた。こういうところがちゃんとした人なのだなと実亜は思う。
「なんか……眠気があまりないです」
私もはしゃいでるのかもしれません――実亜は少し苦笑いで返していた。
「徹夜をすると気分が高揚することが多い。しかし、ぐっすりも大事だから、少し眠らなくては」
「ぐっすり……?」
クロエが不思議そうな表情になって、聞き慣れない言葉を言っているソフィアを見ていた。
「ミアの国ではよく眠ることを『ぐっすり』と言うそうだ」
ソフィアが「ミアの言葉の中でも特に気に入っているんだ」と、クロエに説明していた。
「確かに、よく眠るのは大事ですね。ぐっすりしてください」
学びは何処にでもありますね――クロエが納得の表情で、何かを吸収している。
「はい――ありがとうございます」
ぐっすりが微妙に広がってるのではないだろうか――実亜はしみじみと言葉の不思議を考えるのだった。
「あっ、横になると眠くなってきました……」
部屋に戻って早々にベッドに横たわった実亜は、案外疲れていた自分に気付いていた。ただ、とても心地良くて、何処か幸せな気分の疲れだった。
「そうだろう。緊張が少し解けたのかもしれないな」
ソフィアは出しっぱなしだったチェスのようなボードゲームを片付けて、起きてすぐ飲めるようにお茶を用意している。
「ソフィアさんは寝ないんですか?」
実亜はもうすぐ眠りに落ちる手前で、ソフィアの居るほうに手を伸ばして――途中で止めて身体にかけているブランケットの上に落ち着かせていた。
触れなくてもソフィアの持つ空気感はわかるし、安心も出来るから。
「私は討伐隊で慣れている。一晩くらいなら平気だ」
ソフィアは実亜の手を軽く撫でて、額におやすみのキスをしてくれていた。
「でも、一緒に少しだけぐっすりしたいです」
実亜はそう言うと目を閉じる。
「……ふむ、その誘惑には負けてしまう」
あと数分で眠りに引き込まれそうな実亜の隣に、ソフィアの気配と温度が足されて――ぐっすりと眠れる時間を彩ってくれていた。




