実亜の紋章
(110)
「ミア、疲れはないか?」
ばあやの授業が終わって、ソフィアは実亜を気遣ってくれながらティーセットを片付けている。
カップとソーサーには細かな模様が描かれていて、縁には金もあしらわれているし、実亜の感覚ではかなり高額なティーセットに見えるのだけど、ソフィアは気軽に何個も重ねたりしていて、まさに普段使いというもの――実亜にはまだ少し慣れない。
「はい」
実亜はソフィアを手伝いながら、慣れるように少しの努力をしていた。まさか、高そうな食器を豪快に使う努力をする日が来るとは、実亜自身思っていなかったのだけど。
「それならいい。家のことで振り回しているから少し心配なんだ。楽しいことでも疲れは溜まるものだろうし」
ソフィアはカゴに入れたティーセットを持って、キッチンのほうに歩き出す。屋敷にはメインの厨房だけでなく、お茶の用意や使用人の軽食を作ったりするためのキッチンが何ヶ所があるそうだ。
「言われてみればそうですね」
実亜は答えながらソフィアに付いて行く。
「疲れても、疲れていなくても、いつでも遠慮なく休んでくれ」
今日はこのあとに用事はない――ソフィアはキッチンの人に声をかけて、ティーセットの入ったカゴを渡していた。実亜も一緒に「お願いします」と伝える。また癖でお辞儀が出てしまったけれど、みんな笑顔で応えてくれていた。
「はい、ありがとうございます。でも、ソフィアさんも疲れたりしてますよね?」
実亜は屋敷の中を歩きながら、ソフィアと一度部屋に戻ることにする。広い屋敷にもかなり慣れたけど、まだ迷子になりそうな時もあるし、いざ自由にしても良いと言われると一旦考えてから、貴重な時間を過ごしたいから。
「私はミアが居てくれると疲れを忘れるらしい」
「えっ、でも、忘れても多分疲れは溜まってますよ?」
寝不足みたいに、一気に眠くなったり――実亜は少し得意気なソフィアに素朴な疑問で返していた。
「ふむ、一理ある」
ソフィアは「しかし、疲れ?」と、なかなかピンと来てないみたいだ。
「私も、ソフィアさんはいつもお忙しいので、心配です」
「そうだな――互いに心配し合えるありがたさを実感している」
しかし、疲れか――ソフィアはまだ何処か不思議そうにしていた。
「ミア、私が読んでいた天文学の本はこの段にある。気が向いたら自由に読んでくれ」
ソフィアが自分の部屋にある本棚の下から二段目辺りを指している。部屋に作り付けられている本棚には一部の本しか入っていないとらしいけれど、一部でもハードカバーの厚い本が二百冊くらいはある。
「はい、ありがとうございます」
実亜は本棚に並ぶ本の背表紙を眺めて、何故かスラスラと読める文字を確認していた。
見慣れた文字じゃないのに読めるのはどうしてなのだろう――でも、この世界で生きるためには必要なことだから、それもいいと思える。
「書庫にも沢山あるから、アステリアに案内してもらうといい」
今はばあやが半分住んでいるようなものらしい――ソフィアは肩をすくめて冗談混じりで笑っている。
書庫があるのも凄いけど、住めるくらいなのも凄い。実亜は改めて、自分はとんでもない人と結婚したのだなと、何処か他人事のようなジワジワとした感慨を覚えていた。
そもそも、自分に「結婚」という選択肢があったことも、不思議な気持ちではある。
「しかし、改めて自由に過ごすとなると……することがない。贅沢な悩みだが」
ソフィアもなかなかブラック企業に勤める人みたいなことを言い出している。実亜が少ない空いた時間に思っていたのと同じような言葉だった。
「私も、何かしてないと落ち着かないです」
実亜も苦笑いで答えていた。あの頃は、仕事のない時間でも仕事のために体調を整えたり、仕事のために栄養を入れなくてはならないから食事をしたり――健全な状態ではなかったと思う。
あの頃と違うことがあるなら、自由さが全然違うということだ。仕事や会社に縛られないけど、働く場所がある此処のほうが遥かに自由で、楽しい。
「ふむ――そうだな。しかし、休まなければいけない。ううん……そうだな、ミアの封蝋に使う紋を考えようか」
ソフィアは紙とペンを取り出して、テーブルに置いている。
「紋……?」
封蝋は、確か手紙に封をするためのもので、小さな蝋の粒を火で炙って封筒の蓋に垂らして――そういえば、ソフィアはいつもその封の部分にスタンプのようなものを押している。
「これだ。私の紋は剣と泉を描いたものだ。泉はクレリー家で共通しているが、あとは自由だな」
ソフィアは文机から持ち手の付いた金属製のスタンプを二つ実亜に渡してくれた。
一つは普段使い用で、もう一つは公的な文書用らしい。
「勝手に作ってもいいんですか?」
実亜は訊きながらスタンプ面をじっくり眺めて違いを確認していた。直径は二センチくらい――普段使いのものは装飾が少なめで、公的な文書用のものは細かな装飾が多くて華やかだった。
「家に伝わる紋章は勝手に変えてはいけないが、手紙の封蝋は誰から来たものかわからないと困るだろう?」
「ああ、本当ですね」
その点ではハンコと同じような感じだろうか。でも、ハンコは基本的には姓だから、同じ姓の人もそれなりに居るし、個人の識別はしにくい。
名刺とハンコを足したような感じと思えば――免許証とかの身分証明書のほうに近い気がする。
「そんなに物珍しそうに見ているなんて、ミアの国には封蝋はなかったのか?」
ソフィアは本棚から分厚い本を取り出している。クレリー家や知り合いの封蝋を辞書形式にしている本らしい。
「ハンコっていう、名前の文字を彫ったものはありました」
蝋じゃなくて、塗料を付けて押す――実亜はソフィアのスタンプとジェスチャーで軽く説明をしていた。
ハンコはもっと小さくて、基本的には文字だけです、と。
「文字を彫るのか……偽造しやすい気もするが……」
ソフィアは小さなハンコを想像しながら、そんな問題点を突いている。
「結構気軽に色んな名前のハンコが売られているので、危ない気はします。でも、届け出たハンコじゃないと、大きな取引に使えないとかの決まりがありますよ」
ハンコは百円ショップでも売られているし、かなり珍しい名前じゃなければそこですぐに買える。だけど、大きな額や重要な契約とか取引とかになると、印鑑証明書が必要になるし、物凄く悪いことには使われない。
実亜はそんなハンコの説明を、ソフィアにしていた。
「成程、そこはやはり悪いことが出来ないようにはなっているのだな」
ソフィアは何度も頷いて、実亜の居た国の不思議を受け入れてくれるのだった。
「ミア、オムスビを取り入れるのはどうだ?」
二人で封蝋用のスタンプのデザインを考え出してしばらく、ソフィアが真剣な顔で言い出した。
「おむすび……食べ物を紋にしていいんですか?」
でも、おむすびはルヴィックの人たちにはあまり馴染みのない食べ物だから、唯一無二のデザインではある。作り方を知っているという点でも、実亜の特徴と言えば特徴になるものだし。
「五代前の当主はブドウの蔓を使っているし、四代前は――ブドウの実を紋に取り入れているから、オムスビでも大丈夫だ」
出来れば三角のオムスビがいいな――ソフィアは紙になんとなくの絵を書いている。三角形を二つずらして描いていて、「M」の文字に見えなくもない。
「泉と、おむすび……」
実亜はしばらく考えながら、封蝋の本をペラペラと捲る。泉とおむすびの組み合わせが、昔話みたいな気がしたのだけど――おむすびを落としてしまう話は泉に落としたのではないし、昔話が頭の中で混ざってるな、なんて。
それに、おむすびは泉に入れると呆気なく崩れるから、縁起を担ぐ的な面だとなんとなく駄目な気もする。
「ミア、私が提案していて申し訳ないのだが、泉にオムスビ――儚く崩れてしまうのではないだろうか」
あまり、良くない――ソフィアが自分の提案を却下している。
「今、同じことを考えてました」
実亜はソフィアに苦笑いで返す。変なところで似ている不思議を感じながら。
「少し気恥ずかしいが、気が合う。これが伴侶というものか……そうだな、ユーキ家の紋章も知りたいのだが」
ソフィアはまた新しい紙に色々な模様を描いている。
「紋章というか、ハンコの文字はこう……紐とかを結ぶって意味の文字と、お城を表す文字とです」
実亜は紙に直径一センチくらいの小さな丸を描いて、その中に自分の名前の「結城」という文字を書き入れていた。
この世界では見ない文字――少し懐かしい。
「ふむ、見慣れない文字だが、紋章のようにも見える。面白いものだな?」
これは紋に組み込むと美しい物が出来るぞ――ソフィアは楽しそうに、この世界での実亜の証明を考えてくれるのだった。
過去投稿分への誤字報告ありがとうございました。
反映させております。
実亜さんの「結城」って文字、なかなか画数が丁度良いし、紋章とかに向いてる気がします。




