番外編(アステリアとクロエ・6)
(1)
「クロエ、お腹空いたからお菓子が食べたい」
アステリア十六歳の冬――
日課の勉強はあと少しで終わるけど、アステリアはクロエにお願いしていた。お願いしなくても自由に食べれば良いだけの話なのだけど、屋敷の中に沢山あるという、菓子の隠し場所を全部知っているばあやがリスフォールに行ったままだし、お願いしないと一人では探せない。
クロエやばあや、執事長たちだけが知っていて、時々魔法みたいに持って来てくれる秘密の菓子は、アステリアには特別感があるのだ。
「あとは経営学のお勉強だけですから、我慢してください」
クロエは次の授業の教科書の用意をしながら、いつものようにアステリアには厳しい。他の人には優しいのに。
「えー……最近、凄くお腹が空くのに……」
アステリアは教科書を捲って、挟んでいた栞のところを開く。経営学は基本の算数から、ブドウ酒の原価計算や効率的な生産方法――ブドウの育て方まで多岐に渡る。
クレリー家の事業に合わせて家庭教師が独自の授業をしてくれるのは、自分が恵まれているからなのだと、アステリアはこの頃ようやく気付いていた。
専属の家庭教師が何人も居る時点で、敷地で働く人たちが集まって受ける授業と違うのだし、その分自分にかかる責任は――クレリー家で働く人たちの暮らしを守らなければならないだとか――それなりに大きなものなのだ、と。
勿論、その責任を持つのは一人ではない。クレリー家を支えてくれる人たちと共に、この大事な暮らしを守っていく覚悟も少しずつ芽生えていた。
「アステリア様は十六歳――育ち盛りですから、お腹も空くでしょうね」
クロエは「わかりますよ」と、ここで優しい。でも、菓子を持って来てはくれない。
「そうなの。乗馬の練習も沢山してるし、お腹が空くんです!」
ここは粘るしかない――アステリアはここで少し粘っていた。
「わかりました。先生がいらっしゃるまでにお茶と、何かお菓子をお持ちします」
クロエは厳しいけど優しい。アステリアの我儘を聞いてくれる。だけど、我儘も控えないといけないなと、アステリアは思う。でも、こんなに我儘を沢山言えるのはクロエにだけなのだ。
「ありがとう。出来れば焼き菓子が食べたいの」
「お菓子は持って来ますけど、ご希望に添えるかどうかはわかりません」
「クロエだもの、きっと美味しいお菓子だって信じてる」
アステリアの期待に、クロエは軽く笑って部屋を出て行った。
「んー美味しい。ありがとうクロエ」
クロエがお茶と共に持って来たのは、小さな缶に入った焼き菓子だった。歯応えが軽やかで、口の中で雪のように崩れながら溶ける甘い菓子は、アステリアの小腹と心を満たしてくれる。
そういえば、姉のソフィアが仕事で駐在しているリスフォールは、まだ雪深いのだろうか。この冬はルヴィックでも薄く雪が積もったことがあったけれど、朝に気付いて午後には溶けていた。
「ねえ、クロエ。リスフォールからはお手紙届いてないの?」
ばあやがリスフォールに行ってからもう二ヶ月ほど――手紙の返事が届くなら、このくらいの期間がかかるはず――でも、リスフォールはまだ雪深いかもしれない。
「まだ馬車がリスフォールまで動いていないみたいですよ」
クロエは自分でも一つ焼き菓子を食べていて「今回は見付けやすかった」と笑っている。
「速達は?」
「緊急事態でなければ、速達は滅多に使うものではありません」
「じゃあ、緊急で大変なことは起きてないってことね」
アステリアは缶の中に残っていた最後の焼き菓子を二つに割って、半分をクロエに渡す。
「そういうことですね」
クロエは笑顔でアステリアに答えてくれていた。
(2)
「アステリア様、起きていらっしゃいますか?」
勉強ばかりだった一日を終えて、日記を書き終えたアステリアの部屋にクロエがやって来た。この頃はもう一緒には寝てないけれど、クロエは時々おやすみを言いに来てくれる。
「まだ起きてまーす」
アステリアはクロエを部屋に招き入れて、クロエのためにもう冷めているけどお茶を注ぐ。
「ソフィア様とばあや様からのお手紙が届いてますよ」
クロエはもう寝間着で、かなり油断している姿だ。そして、アステリアに分厚い封筒を二通渡してくれていた。夕方に届いていたらしい。
「え、どうして? 大変なことが起きてるの?」
馬車がまだ通っていないのだとしたら、速達――雪に慣れた人や馬がある程度の危険な道を進んで運んでくれるから、大変な手紙になる。
「いえ、それなら封蝋が赤色になるはずなので、そんなに大変なことは起きてませんよ」
クロエの言葉で、アステリアは封筒の封蝋を見る。ソフィアが好んで使う青色の封蝋だった。少し深い青色はクレリー家の紋章に使われる色でもある。
「でも……クロエ、一緒に読んで」
緊急事態ではないけど、急いで知らせたいこと――嬉しいこと、悲しいこと、どちらも考えられる。ソフィアの仕事は騎士団だから、魔物との戦いは常にある。命には関わらないけど、何処かを怪我したとかだってあるのだから。
「はい」
クロエはアステリアの傍で、静かに手紙の封を開けるのを見守ってくれていた。
アステリアは急いで手紙を読み始める。最初は「可愛いアステリア、元気そうでなにより」と、お決まりの書き出しからだった。嬉しいけれど、そうじゃない。緊急の――速達を使うほど――用事は何なのか、アステリアは読み進める。
便箋を一枚捲ったところに「私もこの人だと思える伴侶と出逢えた」との一文が出て来た。
「えっ? 伴侶と出逢えた? ということは、ソフィアお姉様が結婚……?」
アステリアは何度もソフィアの綺麗な文字の手紙を読み返す。恋人が出来て、身を固めようとかではなく、もう伴侶――これはアステリアには急な話だ。今までの手紙でもそんな内容だったことはないし、両親にも驚きの話だろう。
「そうみたいですね」
クロエはアステリアの隣で「ソフィア様の字はいつも読みやすいです」と笑っている。
「これは緊急事態だと思うの……」
「はい、アイルマー様やローナ様宛てのお手紙もありましたし、多分、今頃驚いていらっしゃいますよ」
この手紙は確かに速達――アステリアとクロエの二人で顔を見合わせて、頷く。
「お相手の情報がない……あっ、名前はミア・ユーキ……不思議なお名前だけど、名前だけじゃあどんなお方かわからないのよソフィアお姉様……」
姉のソフィアはたまに大事なことの説明を飛ばしてしまうことがある。今回も、名前だけでは相手が男性か女性かもわからないし、年上か年下かもわからない。凄く優しくて強くて温かい人だという惚気があるだけだ。
「アステリア様、ソフィア様が生涯の伴侶と決めたお方――素敵な方ですよ」
どんな方でも、素敵なことに違いはないとクロエが力強く励ましてくれる。
「ソフィアお姉様が決めたお方……寂しいけど、お祝いしなきゃ……この春には帰省なさる――みたい。お祝いをしないと」
アステリアは何枚もの便箋をクロエと一緒に読み解いていた。
「かなり遅くなりましたね」
二人で手紙を読みふけっていたら、夜も更けて眠る時間になっていた。クロエが食器を軽く片付けると、アステリアの部屋を出て行こうとする。
「じゃあ、一緒に寝ましょう?」
アステリアはクロエの寝間着の袖を掴んで、引き止めていた。ミア・ユーキという人がどんな人なのかとか、お祝いだとかの話もしたいから。
「……アステリア様、何歳になられました?」
「十六歳」
「私は?」
「二十歳?」
アステリアがクロエと最初に出逢った時は、クロエは今の自分くらいの年齢だった――今の自分を考えると、故郷から一人で帝都にやって来て、働きながら学んでいたクロエはとても勇気のある強い人だと思う。
「もう二人とも大人ですよね?」
家族でも恋人でもない大人同士は一緒に寝ない――
クロエが笑顔で少し厳しくなっている。いつものクロエだと言えばいつものクロエなのだけど。
「でも、別に、クロエと私なんだから、いいじゃない」
幼馴染みみたいなものだし、クロエとしか出来ない話もあるし、それに今夜はソフィアの惚気の手紙のことを語り合いたいし、一緒に寝ていい理由なら沢山あるのだけど。
「アステリア様、私は使用人です。家族でも恋人でもありません」
「……じゃあ、恋人になってくれたらいいじゃない?」
アステリアは少し思い切ってそんな提案をしてみた。恋人同士なら、一緒に寝ても何も問題はないのだから、一番いい解決策だと思うのだけど。
「お戯れはいけません。アステリア様にはもっと素敵な方がいらっしゃいます」
使用人と雇用主が恋人になるのはそう珍しい話でもないらしいけど、クロエは引かない。
「クロエだって素敵な人なのに……私は大好きなのに……クロエは私のこと嫌い」
アステリアは少し拗ねて、頑ななクロエに返す。押して駄目なら引くのも手だから。
「嫌ってません。お立場を考えてくださいと言ってるんです」
「じゃあ、一緒に寝て。一緒に眠れるのなんて、幼馴染みの二人ともに恋人の居ない今の間だけだから」
アステリアはまた粘ってみた。最近気付いたけど、クロエはこちらが少し頑張って粘ると、最終的には大体の我儘を聞いてくれるのだ。
「しまった……わかりました」
その逃げ道を塞ぎ忘れた――クロエは片手で頭を抱えている。
「決まりね? じゃあ、はい、こっち来て」
アステリアはクロエに抱きついて、そのまま寝床に一緒に倒れ込んでいた。
「アステリア様、近すぎます――」
クロエが「本当に、アステリア様は困った人です」と、呆れていた。
呆れられても、大好きな人と一緒に眠れる夜は、アステリアにはいつも特別だから――
今は、それでいい。
アステリアさんはちょっと策略を練る感じに成長してます。




