第62話 七音の壁
床はまだ冷たいまま、先に揃うのは音と呼吸だけだった。
光苔の青はまだ浅く、洞窟の空気には朝の冷えが残っていた。
入口だけが白く光り、外の冷気が、細い風になって足もとをかすめていく。
カリームが三脚の脚を立て、影の位置で角度を読む。
レオは丸太の端を押して、転がりやすい向きを一度だけ確かめた。
優司は端末を傾けて、洞窟の傾斜を静かに見る。
「……この角度なら、引き込める。持ち上げる必要はない」
マリアが三脚の固定を二度叩く。
素材の鳴り方だけで、問題の有無を判断している。
クレールは外から運んだ丸太の数を指で数え、
湿りの差で“今日使う材”を分けていく。
六人の動きだけで、洞窟の空気が“作業の朝”に変わった。
ミナは奥の毛布のそばで、小さく身体を丸め、
その空気の変化だけを静かに見ていた。
レオがストラップを三脚の頂に通し、
軽く引いて張り具合を確かめた。
そのわずかな沈みだけで、今日の“重さ”が測れた。
「──いくぞ。角度合わせる」
カリームが丸太の反対側に入り、
足裏で“滑りの方向”を探る。
この星の重さを、体で受け止める動きだった。
優司は端末を傾け、三脚の支点を確認する。
立てた影の長さで、力の逃げ方を読む。
マリアが支点を二度叩き、誤差をわずかに修正する。
端末も使わない短い動作だが、
“安全のライン”を確かめる彼女らしい精度だった。
クレールは入口側にまわり、
丸太が滑り込む経路を静かに整える。
足跡を避け、空気の流れも確認しながら、
“邪魔になる影”だけを丁寧に取り除いていく。
レオが息を整え、ゆっくりと引いた。
滑車の輪が低く回り、
丸太が洞窟の奥へ吸い込まれるように動き出す。
雪を削る音が途切れ、岩肌を擦る鈍い響きに変わった。
負荷が変わった瞬間、カリームも半歩だけ体を引いて合わせる。
言葉がなくても、六人の動きが同じ呼吸に乗っていく。
ミナは奥の毛布の影から、
その揃った動きだけを静かに見ていた。
六人の動きには、ここ十数日で覚えた“重さの順番”があった。
誰が先に押し、誰が受け、誰が角度を読むか──
声を出さずとも、体が勝手に配置を決めていく。
この星の重力に合わせて、筋肉も呼吸も、もう元には戻らない。
丸太が動くたび、洞窟の奥で湿った空気が揺れ、
冬の匂いがほんのわずかに混ざった。
外の季節より早く、ここだけが確実に“先へ”進んでいる。
ミナはその流れの中で、
自分の知らない“何か”が少しずつ整っていくのを、
ただ目で追っていた。
触れれば壊れそうで、でも確かに形を持ち始めた“気配”だった。
丸太が所定の位置で止まると、洞窟の音がゆっくり落ち着いた。
滑車の輪が最後のひと回りだけを残し、空気の底へ沈んでいく。
レオが三脚の片側にしゃがみ、結び目の張りを確かめた。
指先で押すたび、繊維の奥で低い音が返る。
その動きに合わせるように、
レオが──ほんの癖のように、短い鼻歌を落とした。
旋律とも言えない。
作業の流れに溶けた、息の形だけの音。
カリームが軽く肩で笑い、結びを締め直す。
マリアは聞こえないふりで、手元の支点の角度を整える。
優司は端末の影だけを追い、レオの音へ意識を寄せない。
誰も触れないが、“いつものレオ”の気配だった。
──ミナが、その小さな音で顔を上げた。
毛布の影から半歩だけ出て、
耳の奥で拾った“調子”をそっと真似する。
「……ん、ん……」
声になりきらない、息の粒。
レオの音よりさらに短く、かすれる。
レオは結びを締めながら、気づかないまま動きを続けていた。
ミナだけが、彼の指のテンポに合わせて、もう一度、小さく鳴らす。
「ん……」
光苔がゆらいで、ミナの影が床に細く伸びる。
呼吸の高さだけが、レオとわずかに揃っていた。
その連なりに、
最初に気づいたのはクレールだった。
端末の角度を変えたまま、
横目だけで二人の“音の距離”を測る。
マリアは、三脚の固定を押しながら気配だけで理解した。
言葉にすれば壊れるものだと分かっている沈黙だった。
レオはようやく、
背後で重なる“息のリズム”に気づいた。
振り返らず、わずかに呼吸だけを落とす。
ミナの小さな影が動きを止める。
レオは結び目から手を離し、
ほんの一瞬だけ横顔の線を緩めた。
「……お、合わせてきたな」
振り返らないまま、
声の温度だけでやわらかく言う。
ミナは言葉を持たず、
ただ、同じリズムで一度だけ息を鳴らした。
「……ん」
レオは結びの終わった縄を軽く叩き、
片手を、子どもでも届く高さにそっと上げた。
強くでもなく、勢いでもなく。
“作業の続きとして自然に置かれた手”だった。
ミナは迷うように一歩だけ近づき、
小さな拳を作って──そっと、こつん、と合わせた。
衝撃はほとんどない。
けれど、二人の呼吸が同じ高さでそろった。
その一瞬だけ、洞窟の空気がやわらかく揺れた。
誰も言葉を差し込まないまま、六人の動きが再び戻っていく。
ミナは拳を胸の前に置き、
どこか大事なものを抱えるように指を少し丸めた。
その握りは、ほどけるタイミングを忘れたように、
胸の前で一拍だけ止まった。
嬉しさと、どこか言葉にできない“重さ”が混じったような動きだった。
その揺れに気づいた者は、誰もいなかった。
三脚が静かに解かれ、縄が収められると、
洞窟の空気には“一区切り”の重さが落ちていた。
外の光はまだ薄いのに、
丸太の端に残った湿りだけが、時間を吸ったように重かった。
朝から何度も角度を測り直し、
ようやく“動かせる一本”が選ばれたところだった。
「……まだ一段かよ。冬までに、間に合うんだろうなこれ」
その重さを断ち切るように、
カリームが丸太の端へ回り、手のひらで木肌を押す。
「……ここだ。最初の一段、入れるぞ」
レオが反対側に入り、
足先で床の傾きをもう一度確かめた。
優司はその二人の位置を確認し、
端末を軽く回転させる。
影の伸び方で、力が逃げる方向を読む動きだった。
クレールは壁際へ移動し、
丸太の“はまるべき線”を指先でなぞっておく。
説明はしない。ただ、そこにあるべき位置を置くだけ。
マリアは少し離れた位置から、空気の流れを眺めていた。
壁が立つことで生まれる“新しい風の抜け方”を読む、静かな姿勢だった。
ミナは毛布のそばで膝を抱え、
六人の動きをひとつひとつ追っていた。
自分が入るべきかどうか、その距離を測るように。
丸太が持ち上がる瞬間、
洞窟の底に、重さで押し広がる低い響きがひずんだ。
カリームが短く言う。
「……せーの」
その言葉よりも早く、
七人の呼吸が同じ高さで揃った。
丸太がわずかに浮き、
レオが押し、カリームが受け、
優司が角度を制御し、
クレールが位置を示し、
マリアが安全のラインを静かに見守る。
木が、
“置かれる”ではなく、
“収まる”音を出した。
カリームが片指で軽く叩き、
構造の芯を確かめるように息を落とす。
レオが手を離し、
丸太の並びを横から見て、静かに笑った。
「一段だな。家になる最初の、一本目だ」
優司はうなずきもせず、
ただその“収まり”を目に焼きつけていた。
構造として正しいか、次をどう積むか、
その全部を一瞬の静けさでまとめている。
丸太が沈黙の中で落ち着くと、
洞窟の空気も、やっと一息ついたように止まった。
一本を動かすだけで、
光苔のゆらぎが“朝”の位置から“昼”の位置へ変わっていた。
「……いい。動かねぇなぁ、これで一本動かすだけで、半日かよ」
クレールは目を伏せ、
丸太の継ぎ目に走る影を見て、短く言った。
「……ここからが本番ね」
「……この調子だと、たしかに壁一枚で今日が終わるわね」
マリアは風の抜け方を再確認し、
わずかに目を細めた。
ミナだけが、
丸太が立った“高さ”を静かに見上げていた。
自分の背では届かない位置。
けれど、それを支える六人が、
誰も声を荒げずに、同じ方向を向いていた。
ミナは胸の前で握った拳を、
そっと緩める。
その小さな動きだけが、
この家の“最初の壁”と同じ高さで呼吸していた。
三脚の影は、朝よりも静かに伸びていた。
光苔の青は沈み、吐く息だけが作業の長さを示していた。
作業は進まずとも、時間だけが確実に積もっていく。
レオが工具の柄を軽く叩き、
癖のように、ほんの短い鼻歌をこぼす。
ミナが、ここ十数日ずっと耳にしていたその音を追った。
レオの癖のような鼻歌は、この十数日で六人の作業に溶けていた。
声というより、息に混ざる音。
けれど“誰かと一緒に出した”初めての音だった。
レオが首を傾け、
ミナのテンポに合わせて鼻歌を少しだけ伸ばす。
その音に、周囲がそっと重なる。
カリームは丸太の端を拳で二度叩き、
洞窟の低音をつくるようにリズムを刻む。
マリアは木片を指で撫で、
乾いた軽い音を滑らせる。
彼女だけが、誰のテンポにも乱されず、
“聞こえない線”を整えるように音を添える。
クレールは端末の裏を指先で叩き、
レオのリズムとミナの呼吸を一度だけ重ねた。
無言だが、確実に“合わせた”。
優司は工具を置く位置をわずかに変え、
金属の澄んだ音を、二人の鼻歌に寄り添わせる。
その目だけがミナの呼吸の揺れを見ていた。
──洞窟の空気が、一瞬だけ軽くなる。
それでも、ひとりだけ動かない影があった。
エルナ。
光苔の青の手前で、
彼女はただミナの喉の震えを見ていた。
音は合っていない。
呼吸も浅い。
声が途中で、何度か途切れる。
ミナが小さく詰まった。
喉が震え、次の音が出ない。
エルナが、静かに歩み出た。
周囲の音が一瞬吸い込まれたように沈む。
次の瞬間──
洞窟に流れたのは、
刃のように細く、透明な声。
冷たく澄んだ、
でも底に微かな温度を抱えた声。
ミナの失われかけた旋律を、
エルナが正確に拾い上げた。
レオの鼻歌がそこに溶け、
カリームの低音が続き、
マリアの小さな音が支え、
クレールと優司のリズムが揃う。
七人の音が、初めて同じ方向へ流れた。
光苔がゆっくり明滅し、
洞窟の影が揺れる。
ミナは、胸の前で小さな拳を握り、
エルナの声に──自分の声を重ねようとする。
震えていた喉が、少しだけ伸びる。
声にならない声。
でも、それは“誰かと一緒に続けた音”だった。
旋律が消えたあと、
洞窟の静けさが戻る。
エルナは何事もなかったようにそっぽを向き、
「ミナが頑張ってたから手伝っただけ…… 」
淡々と落とす。
ミナが、小さく息を吸い、
「……きれい」
と、胸の奥からこぼす。
エルナの肩が、
──一瞬、止まった。
そのまま返そうとした言葉が、
喉の奥でわずかに詰まる。
「……べ、別に……」
言いかけて、
呼吸を整えるように視線をそらし直す。
「……あなたのほうが、
最後……ちゃんと合っていたわ」
語尾だけが、
ほんのわずかに揺れていた。
ミナは顔を上げ、
胸にそっと手を当てた。
その二人を見て、
レオが壁にもたれ、静かに口角だけ上げた。
「……ミナ、上手かったな。
でも一番すげぇのは──
“あのエルナが合わせに来た”ってとこだ」
洞窟の空気が、ふっと揺れた。
優司の指が、置いた工具の上でわずかに止まり、
その一瞬だけ、呼吸の深さが乱れた。
「ずっと黙って見てるタイプなのにさ。
ミナの声、放っとけなかったんだろ?」
エルナの指が、わずかに止まる。
「っ……理由なんて……別に──」
言いかけた声が、
光苔の揺れに溶けるように途切れた。
カリームは目をそらして笑いを噛み殺し、
クレールは端末の影で口元を押さえ、
マリアは横顔のまま息を静かに漏らし、
優司は工具を握り直し、何も言わずに視線だけを壁へ戻した。
ミナはレオとエルナを見比べ、
胸に置いた手をそっと握る。
七人の影が揺れを止めると、
洞窟の奥で、丸太の並びがわずかに軋んだ。
積んだ一本が、冷えた空気にきしむように応え、
“ここに在る”と告げるように低い音を残した。
レオがその音に一度だけ目を細め、
壁からそっと肩を離した。
「……一本でも、ちゃんと場所を取るんだな」
独り言のような声だったが、
六人の視線が自然と同じ壁へ向いた。
クレールは影の継ぎ目を指でなぞり、
マリアは風の抜け道を読み直し、
カリームは拳でそっと木肌を叩いた。
優司は何も言わず、
ただ一本の重さを端末の奥に刻みつけるように見つめていた。
ミナは小さく息を吸い、
その壁の“高さ”と“遠さ”をもう一度見上げた。
まだ一段。
けれど──
七人の影は、その前に静かに並んでいた。
レオが、ほとんど聞こえない声で言う。
「……ここからだな」
その言葉に誰も返さない。
返さないまま、洞窟の空気だけがほんのわずかに温む。
外の冷えは変わらないのに、
丸太の立つ一点だけが、確かに熱を帯びていた。
七人の影が静かに揺れ、
音が落ち着くと──
床の冷たさだけが、変わらずそこに残っていた。
そのとき、端末の温度表示がかすかに沈んだ。
すぐ戻ったが、その一拍の“揺れ”だけが空気に残った。
まるで、
“まだ足りない熱”をそっと示すように。
冷えた床の上で、七人の音だけが先に“家の温度”の形を確かめはじめている。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.062】
拠点構造物、第一段の柱材設置を確認。作業進行は極めて緩慢だが、各員の連携精度に安定を観測。
同時に、観測対象“ミナ”に音声模倣および集団同調反応が発生。
感情伝達フェーズが新段階へ移行した可能性あり。
この変化を追跡したい者は、“ブックマーク”への登録を推奨。




