第60話 集いし者たちの形
まだ形にならないものほど、静かに息づいている。
床板の木目が、夜の光を静かに飲み込んでいた。
炉の赤と、奥の緑が溶け合い、洞窟の空気にゆっくり色が混ざる。
ミナの寝息がゆっくりと上下するのを確認してから、
エルナはそっと立ち上がった。
毛布の端が落ちそうだったので、指先で直す。
そのまま静かに皆のそばへ戻り、視線だけ状況に溶かした。
優司は炉の近くで工具を拭いていた。
布で金属の縁をなぞり、指先で重さを確かめてから、箱の同じ位置へ戻していく。
マリアは壁際で端末を開いたまま、画面を他人から見えない角度に軽く傾けている。
指先の動きだけは速いのに、音はほとんど立てない。
クレールは境界線近くの岩に背を預け、ログをまとめていた。
霧の流れ、温度、薄い風の向き──数字の列を短い指で切り分けていく。
カリームとレオは入口側の壁に板を立て掛け、縄のほつれを直していた。
何度も握り慣れた結びの感触を、確かめるように締めていく。
レオが手を動かしながらぼやく。
「……ここで寝てる時間も長くなったぁ」カリームが答える「夜はあいつらがきて外に出づらいしな」
誰の動きも静かだったが、耳に触れる音だけが違っていた。
優司の工具が、いつもより早く止まり、
マリアの端末だけが、じっと光を残す。
クレールの指は、一度だけ戻り、
カリームの結び目が、無言で固まった。
その僅かなずれに、レオの呼吸が引っかかった。
「……なぁ」
空気に向けて落とすように、声が出た。
全員が一度、顔だけこちらを向く。
作業の手は止まらない。いつもの反応。
「最近さ。俺たち……全体的に材料運び、増えてねぇ?」
カリームが鼻を鳴らした。
「体力余ってんだろ。ちょうどいいじゃねぇか」
「いや、それはそうなんだけどよ」
レオは笑いながら肩を回す。
「でもさ、優司。なんか最近……“木材だけ先に集めさせてねぇ?”」
優司の手が一瞬だけ止まる。
布が工具の縁でぴたりと動きを失い、すぐに何事もなかったように再開した。
「……足りないより、余る方がいい」
「それは分かってる。分かってるけどさ」
レオは床板に腰を下ろし、膝に肘を置いた。
「“何に”使うか、まだ聞いてねぇんだよ」
マリアが画面から目を上げる。
視線だけ、レオに向いた。
クレールはログを閉じた。
閉じたはずなのに、指先がその縁にそっと触れたまま離れなかった。
しばらく沈黙が落ちる。
「……木材の保有ペースは、上がってるわ」
声はいつもと同じはずなのに、わずかに揺れていた。
レオが眉を寄せる。
「気づいてたんだな」
クレールは答えず、端末を胸元へゆっくり押し当てた。
その仕草は、言葉より正直だった。
「見れば……分かるもの」
ようやく出た声は、小さくて、熱が残っていた。
視線が落ちる。
端末の角が、膝の上でほんの少し沈む。
「ただ……」
言葉が途切れ、呼吸が一度だけ深くなる。
「“余るほうがいい”って言われたら……それ以上は踏み込めなかったの」
言い訳ではない。
でも、胸の奥の重さがそのまま滲む言い方だった。
「気には……なってたの。ずっと」
クレールは指をぎゅっと握りしめた。
「増え方が、“いつもの増え方じゃない”のは……ずっと」
エルナはミナを確認してから、ゆっくりと二人へ向き直った。
ただ“状況を見て、必要な位置に戻る”というだけの動作。
しかしその一歩で、
場の空気は自然とひとつにまとめられた。
「……続けて」
声は小さいが、よく通る。
レオはその沈黙の揺れを、指先で拾うように感じ取った。
床を一度だけ軽く叩き、息を整える。
「……なぁ、マリア。お前“も”さ」
名前を呼ばれた瞬間、マリアの指が止まった。
音はなかった。ただ、止まったという“気配”だけが空気を震わせた。
「最近……ちょっと“間”が違うよな」
マリアのまつげが、ごく小さく揺れた。
「前と比べると……うまく言えねぇけど、空気がさ。
なんか“別のこと”見てる時の感じがする」
クレールが、短く息を呑んだ。
「レオ、それ……感覚で?」
「感覚だよ。
でも……出るだろ。隠してても。
……呼吸とか、手の止まり方とか、そういうのに」
炉の赤が揺れ、影が床を横切った。
「責めてるわけじゃねぇんだよ。
ただ……わかるから言ってるだけだ」
カリームが鼻で笑う。
「だろうな」
──空気が少し沈む。
その沈黙の底で、
エルナはミナを一度だけ見た。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……ミナに負荷がかかるなら、静観はできないわ」
声は小さく、だが確かだった。
沈黙が続いた。
その中で、優司がようやく工具を布から離す。
指に残った金属の粉を、親指でそっと払った。
「……隠すつもりはなかった」
声は低く抑えられていたが、
言葉が出るまでの一拍だけ、確かに遅かった。
「必要になるまでは言わなくていいと思った。
……間違ってたなら、悪い」
マリアが静かに続ける。
「“まだ形になっていないもの”を言葉にするのは苦手なのよ。
失敗したとき、ただ邪魔になるだけだから」
クレールが息を整えた。
「なるほど……そういう理由ね」
レオは首を振った。
「理由は分かる。でも――」
炉の赤が少しだけ強くなった。
「家族だろ、俺たち」
その一行で、空気が変わった。
「“大丈夫だから黙ってろ”よりさ……」
レオは息を一度整えた。
「“一緒に考えようぜ”のほうが、ずっと楽だろ」
マリアが伏せていた視線を、ゆっくりと上げる。
クレールはそれを見逃さないように、わずかに前へ傾いた。
エルナがミナを一度確認してから言う。
「方向だけは決めましょう。ミナが起きる前に」
優司は床と奥の境目を一度見て、短く言った。
「……言う。“考え”が整備できてる分だけ」
炉の赤が、少しだけ強くなる。
霧が天井近くで渦を巻く。
「優司。マリア」
レオは名を呼び、視線を交差させた。
「“この冬の先”に、何を見てる?」
そこまで言って、言葉を止めた。
説明を足さない。あとは、相手が出す番だ。
優司は、床板とミナのいる奥のあいだを一度だけ見やった。
マリアは端末の画面を消し、手のひらで覆った。
クレールが僅かに肩の力を抜いた。
「ようやく“想定外”が形になるわけね」
カリームが壁にもたれ、腰を落ち着ける。
「じゃあ長くなるな。腹は空いてるが、先に聞く」
レオは小さく笑う。
「よし。じゃあ──」
床板の上に座り直し、片手で炉のほうを指した。
「まずは……“何を考えてるのか”から、だな」
夕日の赤が、洞窟の床に揺れを落とした。
優司は床へ視線を落とし、
その傾きと湿りを“整備士の癖”で測るように一度撫でた。
「……最近、ここに全員が集まってるだろ。投石のせいで」
マリアがわずかにまつげを上げる。
優司は続けた。
「外が危ない。
でも……この洞窟も、“冬には危ない”」
カリームが眉を動かす。
「洞窟なのにか?」
「温度が落ちる。
火が使えないから、回復もしない。
空気も流れない……詰まるんだ、ここ」
優司の声は整然としているのに、
言葉の後ろにだけ“小さな焦り”が沈んでいた。
そのとき、マリアが静かに端末を閉じた。
「……優司が構造を見てたのは知ってたわ」
レオが振り返る。
「おい、マリア。お前もなにか知ってたのか?」
「外部の投石、足跡の向き、昼夜の移動……」
マリアは手を組み、膝上に落とした。
マリアは端末を閉じ、静かに言った。
「……外の“気配”が変わってるのは確かよ」
レオが眉を上げる。
「気配?」
「足跡の付き方、投げられた石の軌道、
痕跡の濃さ……“ひとつの手”じゃない」
指先が、膝の上でわずかに重なった。
「何者かは分からない。
でも、複数の動きがあるのは……確か」
優司が短く息を吸った。
「だから外は危ない。
でも……洞窟の奥に下がりすぎるのも危ない」
「酸素か」
カリームが低く言う。
「冬が来れば温度が落ちる。
多少の気流でも、空気は留まってしまう」
マリアが続ける。
「外も中も、どっちも“まだ形になってない危険”。
だから……言えなかったのよ」
優司がわずかにうなずく。
「二つの危険が重なる前に……箱を作る必要がある」
優司の視線が、マリアの横顔を一瞬だけ拾う。
「……俺が見てたのは構造だ。
マリアが見てたのは外だ。
どっちも、まだ形じゃなかった」
マリアは続けた。
「だから言えなかったのよ。
“まだ形になっていない危険”は……
ただ不安を増やすだけだから」
クレールが息を震わせた。
「二人で……少しずつ状況を重ねていたのね」
優司は短くうなずく。
「冬が来る前に……“箱”を作る必要がある。
空気も温度も、ここ全体じゃ管理できない」
レオの呼吸が揺れた。
「……それで木材」
言いながら、自分でもそれが“重い案”なのを理解している声。
クレールがゆっくり姿勢を正す。
答えを急ごうとしているのではなく、
“逃げずに受け止める構え”の動き。
「作るのはいい。でも……酸素は?」
優司がわずかに目を伏せる。
痛いところを突かれたときの、あの一拍。
エルナがミナのほうを見て、
その視線の戻り方がとても静かだった。
「……酸素が不安定になるなら、ミナは耐えられない」
その一言で、空気がわずかに震えた。
レオが息を吸う。
「じゃあ……換気はどうする?
火も使えねぇし、洞窟は空気がこもる」
優司の指が、膝の上で一度だけ止まった。
そこから、言葉が出た。
「……循環装置を、一部だけ……動かす」
“できる”じゃなくて“動かす”。
責任を背負う側の言葉だった。
マリアの指が、端末の上でほんのわずかに止まった。
それは“驚き”ではなく、“予感が形になった”ときの止まり方。
「……やっぱり、そこに踏み込むのね」
視線だけが優司へ向く。
「AIに……“記録”を積ませるつもりだったんでしょ」
優司の喉が一度動いた。
肯定とも否定ともつかない、
それでも“否定できない”揺れ。
「……あぁ」
優司の返事は短い。でも、逃げてはいなかった。
カリームが壁にもたれ、腕を組む。
「外の連中……冬になる前に来る可能性、まだ残ってるぞ」
その言葉で、空気がまたひとつ深く沈んだ。
レオが優司を見る。
「……だからか。“木材だけ”……先に増えてたのは」
その言葉に、マリアの指が膝の上でぴたりと止まった。
「……気づいてはいたわ」
静かに言う。
「優司が“何かを形にする前の集め方”をしてたのも」
優司が目だけでマリアを見る。
互いの“沈黙の作業”が、そこで初めて噛み合った。
「ただ……確証はなかった」
マリアは続けた。
「外の痕跡も変動してたし、内部も冬に向けて不安定。
どちらも“まだ言葉にできない状態”だった」
クレールが息を震わせる。
「……二人とも、別々に“前触れ”を追っていたのね」
優司は言葉で返さず、
ただ床を一度だけ指で叩いた。
それが“はい”だった。
沈黙。
でも、もう逃げる空気じゃない。
クレールがよく通る声で言う。
「……順番に整理しましょう。
寝床、空気、AI、外。
全部、ここで決めなきゃいけない」
レオは息を整え、皆を見る。
「よし……やっと本気の話ができるな」
夕日の赤が消えかけ、
洞窟に“話し合いの時間”だけが残った。
「……まずはさ。寝床だろ。
最近ここ狭すぎて、カリームの足が俺の肋に入るんだけど」
「お前が寄ってくるんだよ」
カリームは淡々と言いながら、縄の先を結びきった。
優司がその結びを横目で確認し、
床の一点を指でなぞった。
「……狭い。湿る。温度が落ちる。
冬になれば……たぶん全員、ここじゃ耐えない」
「やっぱログハウスか」
レオが言う。軽く聞こえたが、瞳の奥には“覚悟”があった。
優司が短くうなずく。
言葉よりも“図面が頭にある人間”の仕草。
「……箱にする。
空気が逃げない分、温度は保てる」
「でもさ」
レオが指を折りながら言う。
「湿気どうすんだよ。夜になると床まで重くなるし」
エルナが、ミナの寝息を確かめてから静かに言う。
「湿度が上がれば、酸素の偏りが強くなる。
ミナは……耐えられない」
その一言で、場の温度が少し締まった。
カリームが腕を組む。
「空気の流れは作るんだよな?
でも、火は使えねぇ。煙も熱も出せねぇ」
「だから……循環だ」
優司が言いながら、膝の上で指を一度だけ叩く。
「ロケットの一部。動く部分だけ。
……動かせるだけ動かす」
マリアがほんの少しだけまつげを揺らした。
驚きではない。“やっぱり来た”という気配。
「記録……積ませるのね?」
「……あぁ」
優司の返事は短くて、逃げていなかった。
クレールが目を細める。
「判断じゃなくて記録。
AIに決めさせるんじゃなく……情報を増やすだけ」
「そう」
優司は床を軽く叩く。「それだけだ」
レオが息を吐く。
「じゃあ、空気の問題は……AIの補助で、なんとか“なる可能性”はあるってわけだ」
マリアが補足する。
「外の監視にも流用できる。
まだ幼いAIだけど……目を増やすには十分」
カリームが鼻を鳴らす。
「外の影。最近増えたよな。
投げてくる石の角度……変だ」
「複数」
マリアが指を組んで言う。「軌道が違う」
「中も外も危ない。それでログハウスか」
レオが言うと、優司が短くうなずく。
沈黙。
クレールが口を開いた。
「……ログハウスを作るとして。
中は? 全員分?」
レオが肩を竦める。
「そりゃそうだろ。
七人全員。もう床で固まって寝るのも慣れたけどさ……
カリームの腕が俺の顔に落ちてくるのは嫌なんだよ」
「寝相の問題だろ」
カリームが淡々と返す。
エルナが小さく息を吐いた。
「七人でまとめるなら……
呼吸のリズムを崩さない空間じゃないと、ミナが眠れない」
マリアが視線を落とす。
「換気は最小限。温度は一定。
記録はAI。外は……私たち」
優司が全員を見回した。
「……作れる。
材は……もう、ある」
レオが眉を上げる。
「じゃあ……決まりでいいんじゃねぇか?」
クレールがゆっくりとうなずく。
「ログハウス。
空気管理は部分循環。
AIは記録強化……三つを同時に進める」
その瞬間だった。
小さな布がもぞりと動いた。
全員が自然とそちらに視線を向ける。
ミナが目を半分だけ開け、ぼんやりと皆を追った。
そして――
ぐぅぅ……
静まり返った洞窟に、不釣り合いなくらい愛らしい“お腹の音”が響いた。
レオが一瞬だけ息を止め、それから吹き出す。
「……はい、もう晩飯な。話はお腹のあとだな」
その声に、空気がゆるむ。
クレールは思わず口元を押さえ、
マリアは眉を下げて小さく息を漏らす。
カリームは鼻で笑い、縄の端をぶらつかせたまま立ち上がる。
エルナはミナの毛布を整えながら、目の端だけ柔らかくなる。
優司は工具を片づける手がほんの僅かに緩んだ。
レオはミナの目を一度だけ見て、ふっと肩の力を抜いた。
「……よし。急ぐか」
マリアは端末を閉じ、
クレールは姿勢を正して立ち上がり、
エルナはミナの髪をそっと払う。
カリームは食材へ向かい、
優司は床板を見て、ゆっくり体を起こす。
七人の動きがばらばらに始まり、
気づけばひとつの流れになっていた。
──誰も言葉にしない。
でも、今の空気は“それで十分”だった。
集まっただけの夜が、少しずつ“居場所”に変わりはじめている。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.060】
洞窟内の滞在者7名。温度・湿度・空気密度ともに冬期変動の予兆を確認。
同時に、外部からの複数軌道の投石データが蓄積。危険因子が重なる可能性あり。
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