第59話 揺らぐ息のまわりで
霧の揺れが、いつもより深く響いていた。
朝は、鉄の匂いから始まった。
薄い青灰の光が鍛冶場に落ち、濡れた石と鉄の輪郭がゆっくり目を覚ます。
ここ数週間、外からの投石はあったりなかったりと続き、朝になるたび薄板を直す作業が繰り返された。
縁には、そのたび刻まれた細い傷が増え、手で触れれば、削れた面のざらつきがはっきり分かる。
見えない相手とのやり取りだけが、薄板に残っていた。
レオが板を押しながらぼそりと言う。
「……またずれてる。昨日合わせた角度なのに」
カリームが苦笑する。
「向こうも学習してやがる。こっちが変えりゃ、あっちも変える」
優司は端末を起動し、図面の角度を指でなぞった。
夜に見た焦げ跡が、その線の端にまだ残っている。
「……今日も、当てさせない形にする」
独りごとのような声だった。
けれど、その一言で全員の意識が鉄へ向いた。
三枚の薄板が並び、冷えた朝気を吸うたびに
白く曇った息のような光を返している。
レオが近づき、板の端を押した。
指先で、ほんのわずか揺れる。
「……まっすぐ投げられたら折れるもんな。
でも──斜めに逃げれば、外に滑る」
「その滑りを今回試す」
優司は板の裏を軽く叩いた。
「陰からでも投げられる角度を“外す”。
狙うなら……一度は姿を見せることになる」
カリームが板を持ち上げ、斜めに傾ける。
朝の光が縁だけを白く照らした。
「つまり、“隠れたまま安全に投げさせねぇ”形ってことだな」
「ええ」
クレールが端末を示す。
「十七度。ここを越えると直線の射線が通らない。
光は普通に落ちるけど──攻撃だけ逸れる」
マリアが、その角度を横から覗き込みながら言う。
「真正面からなら壊せる。でも……そのときはこちらからも見える」
レオが息をつき、軽く笑った。
「見えりゃどうにでもなる。
向こうの“安全圏”を潰すのが大事なんだよな」
優司は板を指で押し、微妙なたわみを確かめる。
その表情はいつもの無口な冷静さで、それでいてどこか焦げ跡を思い出す陰があった。
「ここが歪むと全部ズレる。
……線が生きない」
カリームが槌を握った。
手首の角度を確かめ、肩を回し、呼吸を整える。
「任せろ。
守るために叩くんじゃねぇ。
──“狙わせない形”にすりゃいいんだ」
「そうだ」
優司は短く答え、視線だけ板から動かさない。
「壊されたくないから作るんじゃない。
壊しに来る奴の位置を“暴く”形にする」
その言葉に、レオがわずかに目を細めた。
マリアが静かに頷いた。
クレールは図面を固定し直した。
──鉄が鳴った。
乾いた衝撃が庇の下で反射し、霧を震わせて洞窟の奥へ散る。
毛布に包まれていたミナが、小さく身をすくめた。
エルナがすぐにそばへ行き、声は出さず、視線だけ外へ向けた。
(……音に驚いたんじゃない。
“外”に反応してる)
優司は目線の端でそれを拾い、胸の奥で一度だけ息を刻んだ。
それでも言葉にはしない。今は鉄だ。
打音が重なり、薄板がゆっくり“傘の角度”を帯びていく。
夜に飛んできた石を滑らせるためだけの、単純で、それでも必要な形。
カリームがもう一度槌を振り下ろしながら言う。
「……これで、陰から撃ち込むやつは困るな」
レオが肩越しに外を見た。
「斜面から姿を出さずに投げるのが無理になる。
出てきたら──見える」
マリアが静かに息を吸った。
「“見えないまま壊される”ことは、もうないわね」
クレールが図面を閉じ、薄い声で付け加える。
「ここまでくれば……あと一段階」
優司は板を押し、金属の温度を確かめた。
「……形は掴めた。
次は、“気配”に合わせた制御だ」
霧が、かすかに揺れた。
まるでその言葉に反応するように
──そのとき、ミナが外を向いた。
さっきより深く。
影から半歩出るように。
「……そと」
その一語が、小さく、はっきり落ちた。
エルナが瞬きもせず彼女を見る。
マリアもわずかに表情を動かす。
レオは驚いたように振り返る。
優司だけが、その声の“温度”に反応した。
「……聞こえてるのか。外の気配を」
呟くというより、確認だった。
ミナは答えない。
ただ外をじっと見たまま、毛布を握りしめる指が震えた。
クレールが静かに言う。
「……直視域、カットするわ」
レオが眉を寄せる。
「見られないように?」
「ええ。光の膜で“見せない領域”を作る。外からも、こっちからも」
カリームが小さく笑う。
「なら急ごうぜ。光の“壁”ってやつをよ」
優司は金属面に触れ、短く言った。
「……ここからが本番だ」
その頭上で、霧が薄く揺れた。
蒸気が薄く散り、鍛冶の拍が一度途切れた。
その静けさの隙間で、クレールが端末を胸の前に抱えたまま言った。
「──で。次よ」
その声の“硬さ”に、レオが眉を上げる。
「お、なんか嫌な始まり方だな」
「嫌じゃないわ。必要なだけ」
クレールはさらりと返し、傘状ライトの根元を指差す。
「ここに“箱”を付けたいの。最初の記録用の箱」
「記録……って、何を?」レオ。
「全部よ」クレールは迷いなく言う。
「風の揺れ。影の伸び。光苔の変調。虫。獣。……人も」
“人”という言葉で、空気が少しだけ沈んだ。
誰も言わなかったが、その名前のない“誰か”が頭に浮かんだ。
優司が図面を閉じながら言う。
「判断じゃなくて……集めるだけ、か」
「そう。判断はまだ早い」
クレールの目は冷静だった。だがその奥に、焦りを必死に抑えている影があった。
「最初から賢くするのは無理。……まずは“癖”を読む」
「癖か」カリームが槌を肩に乗せる。
「まぁ、最初は何でもかんでも反応しちまうだろうな」
クレールが端末を操作しながら言う。
「……最初のうちは、風でも虫でも全部拾うわ。夜中に鳴るかもしれない」
マリアは静かに笑った。
「そのときは、あなたが一番に気づくんでしょうね」
クレールは肩をすくめる。
「気づくわよ。寝てても、音の癖くらい覚えてる」
「なら安心ね」
マリアは端末を閉じ、わずかに表情を緩めた。
「起きてても、寝てても。あなたは見逃さないから」
レオがその横から顔を出す。
「俺の寝相も分かるのか?」
「興味ないわ」クレール。
「興味なかった!」
肩を落とすレオに、カリームが声を漏らして笑う。
「でもまあ、鳴ったら誰より早く起きるのはクレールだろうな」
カリームの言葉に、クレールは小さく息を吐いた。
「ええ。……どうせ起きるわ。癖よ」
「いや、起きてちゃだめなんだろ?」レオが笑う。
「寝不足は成長に悪いって、誰かさんが言ってたし」
「ミナの話よ」エルナが無表情のまま返す。
「あなたの成長は今さらどうでもいいわ」
「エルナさん、俺の心はまだ伸びしろあるぞ?」
「残念ね。心は測定外よ」
レオの肩がわずかに落ち、カリームが小さく吹き出す。
その笑いで、張りつめた空気が一度ほぐれた。
そのとき──入口の影で、ミナが光に触れた指を止めた。
眉がわずかに寄り、口が小さく震えた。
エルナが即座に反応する。
「ミナ、どうしたの?」
ミナは何かを探すように、光の縁を見つめた。
しばらくして、ぽつりと言う。
「……ひかり」
空気が一瞬止まった。
レオがゆっくり膝をつき、ミナと同じ高さになる。
優しい声でも、子ども扱いでもない。ただ“受け取る声”だった。
「そうだ。光だ。……お前を守るやつ」
ミナは息を吸い、小さく頷く。
その頷きを見た優司が、静かに息を吐いた。
その表情は淡いが、どこか安堵が滲んでいた。
クレールがその場を締め直すように声を発した。
「──じゃあ、光に記録をつける。
優司、仮の接続案を出して。
マリア、振動ログの形式をまとめて。
カリーム、固定用の位置を測って」
「了解」
「はい」
「任せろ」
息が揃う。
ひとつの目的に向かって、全員が自然に動き出した。
ミナは光の縁を見つめながら、そっと呟いた。
「……あつ……?」
「少しだけ。安全よ」エルナがすぐ横で答える。
「危なくなったら、私が止めてあげる」
ミナはその言葉に、安心したように指を引いた。
ほんのわずかなその動作が、この場の空気を温かくした。
まだ判断はできない“箱”。
ただ記録し続けるだけの“箱”。
でも、それでも──
それは確かに“最初の一歩”だった。
打ち終えた鉄が、ゆっくりと冷えていく。
鍛冶場の奥では霧が薄れ、洞窟の入口へ向かって静かに流れていた。
さっきまで重かった空気が、わずかに軽くなる。
レオが背を伸ばし、濡れた石に背中を預けた。
「……よし。一段落。優司、次の角度は?」
「まだいい。金属が落ち着くまで待つ」
優司は端末から視線を離さず、淡く光る図面を指先でなぞった。
その横で、ミナが小さく息を吸う。
毛布を胸に抱えたまま、光の縁をじっと見つめている。
レオが気づき、しゃがんで目線を合わせる。
「……ミナ、さっきの“あつい”、よかったぞ」
ミナは一拍おいて、彼の顔を見る。
“れお”と呼んだときよりも、少しだけ確かな目で。
「……おと」
喉の奥で転がるように出たその言葉は、
光の音を聞いたみたいな響きをもっていた。
「おと?」
レオが首を傾げ、金属を軽く叩く。
澄んだ音が鍛冶場に広がる。
ミナは小さく頷き、その音の空気を指で追い、
自分の胸の前でそっと閉じた。
「……すき」
霧の中にこぼれた声は、小さいのにまっすぐだった。
レオは目を丸くして、それから笑った。
「職人泣かせの感想だな、それ。最高だよ」
エルナが静かにミナのそばに膝をつく。
言葉を挟まず、毛布のずれた端をそっと持ち上げる。
まるで“この瞬間を邪魔するな”と言うように。
「……すごいわね、ミナ」
いつもより少しだけ柔らかい声。
「単語が増えてる。苦しくない?」
ミナは毛布を握ったまま、エルナを見た。
恐れでも緊張でもなく、
“伝わる”と知った子どもの目。
「……だいじょう、ぶ」
途切れた音でも、確かな意味があった。
エルナの指が一瞬止まり、
それから平然を装うようにミナの肩へ毛布をかけ直した。
(……この子は、ちゃんと進んでる)
瞬き一つの静かな感情が、彼女の奥に沈んだ。
マリアが工具を整えながら、さりげなく視線を向ける。
「名前だけだったのに……もうこんなに言えるのね。もっと伸びるわ」
「伸ばすしかないだろ」
レオが笑い、ミナの頭にそっと手を置く。
「外は危ない。だから、ここで今できることは全部やろうな」
ミナはその手の重さに驚いたようにきょとんとし、
そして、小さく笑った。
鍛冶場の光がその笑みを照らす。
霧が揺れ、洞窟の入口から冷たい風がひと筋だけ入り込んできた。
「……温度が下がってきたわね」
クレールが端末を見ながら、霧の流れを追う。
「この惑星に“季節”があるのかは分からないけれど……何かが変わり始めてるのは確かよ」
「備えられるうちに、形にする。話せるうちに、言葉を増やす」
優司が静かに言い、図面を閉じる。
ミナは外をちらりと見て、すぐに視線を戻した。
恐れているのではない。
ここに“居場所”があると身体が覚えた証のように。
その小さな仕草に、誰も何も言わなかった。
ただ、自然に受け取った。
家族のように。
鍛冶場の鉄がようやく落ち着き、
微かな白い息を上げる。
霧の奥で、空気だけが静かに変わっていった。
それが何を告げるものなのかは、まだ誰にも分からない。
霧の流れが、ふっと止まった。
ほんの一瞬。それでも、誰もが気づいた。
クレールが周囲を見まわし、声を潜めた。
「……風、変わった?」
レオが肩越しに外を覗く。
「さっきより……冷たくなってるな。空気が刺さる感じ」
カリームが槌を置き、息を吸う。
「湿っぽさが急に強ぇ。森が“重くなる”前によくあるやつだ」
マリアも岩陰から外を見た。
「音が……少ない。木の揺れが完全に止まってる」
優司は霧の層をじっと見つめ、短く言った。
「……嫌な変化だ」
その一言だけで、空気の温度が下がった。
誰も大げさに反応しない。ただ、作業が自然に静まる。
──ミナが外へ顔を向けた。
今までより、ずっと深く。
毛布を胸に抱えたまま、霧の奥を凝視している。
エルナがそっと近づく。
「ミナ……?」
声をかけても、反応しない。
ただ外を追う、耳の角度だけが動いていた。
レオが低く呟く。
「……聞こえてるのか? 俺たちに分からん何かが」
ミナの指が震えた。
恐怖ではなく、“聞こうとする”震え。
そして──
「……こ…え……?」
小さな音が落ちた。
マリアの呼吸がひとつ止まる。
クレールが静かにミナの横顔を見る。
「ミナ……“誰の声”?」
問いは短い。答えやすいように。
ミナは、答えない。
でも外を向いたまま、毛布をぎゅっと握りしめた。
優司だけが、その仕草を“理解”した。
「……聞こえるだけでいい。
言えなくてもいい。無理に言葉にしなくていい」
ミナの肩が、わずかに緩んだ。
エルナはそれを見て、そっとうなずいた。
「そう。いるなら“いる”。それだけで十分よ」
ミナは小さく、小さく頷く。
誰も騒がない。
けれど、外の気配への緊張は、確かに全員の背に張りついた。
レオが低い声で言う。
「……優司。外の“何か”って、昨日投げてきた奴らか?」
優司は首を横に振る。
「断言できない。ただ、静かすぎる」
カリームが腕を組む。
「動物ならもっと音がある。外が……息止めてるみてぇだ」
クレールが短くまとめる。
「“敵”とは言わない。でも“変化”ではある。
このまま冬に入ったら危険」
その言葉だけで、鍛冶場が一瞬だけ静まり返った。
ミナが、小さく息を吸う。
外の気配に怯えるのではなく──
“聞き分けようとする”ように。
その横顔に、優司は一点だけ視線を落とした。
(……この子は、誰より先に“気づく”)
誰も言葉を足さなかった。
外の霧が、薄く巻いて動いた。
そのたびに、冷えが鍛冶場の庇をすべり落ちていく。
何が近づいているのか。
何が変わり始めているのか。
まだ何も分からない──
でも、“何かが始まった”ことだけは確かだった。
変わったのは風か、こちらの心か。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.059】
鍛冶場周辺にて散乱板の一次形成を完了。
作業中、観測対象“ミナ”が外部の静止空気に対し、通常反応と異なる注視を継続。
外気データとの相関は不明。
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