第57話 灯らぬ境にて
夜の境は、静かに息をしていた。
鉄の奥で、かすかな金属音が跳ねた。
鍛冶場の外、鉄の輪郭に夜の光が残る。
冷えきらない空気が、その息づかいを撫でていた。
酸素の薄い外気がゆっくり揺れ、住処の表面で光を拾う。
全員の顔に、その反射が淡く差していた。
まだ誰も立ち上がらなかった。
冷えた外気の底に、熱だけが滞っていた。
“守る理由は一つにしろ”
──その言葉が、頭にいまも響いている。
その沈黙が、しばらく続いた。
だが、熱だけはまだ途切れていなかった。
沈黙の中に、金属の軋みがゆっくりと伸びた──
誰もがまだ考えていた。
──何を守るのか、どう動くのか。
洞窟の奥から聞こえる微かな風の音が、まるで“答えを待つ”ように響いていた。
クレールが息を吐く。
「……結局、何もしないで朝を迎えるわけにはいかないのよ」
カリームが首を鳴らした。
「誰かが外に立たなきゃ、何も見えねぇ」
レオが拳を握りしめ、低く呟いた。
「優司が言ってた“守る理由”ってのは、そういうことだろ。
守るだけじゃ意味がねぇ。生き延びるなら、踏み出さなきゃな」
その言葉に、空気が一瞬で変わった。
鉄の匂いを含んだ風が、熱を運んでいく。
壁の表面が微かに光を返し、全員の影が長く伸びた。
誰もがもう、ただの避難者ではなかった。
レオが声を張る。
「……守るだけじゃ足りねぇ。動かなきゃ、何も変わらねぇだろ」
その言葉に、空気が一気に動いた。
カリームが腕を組み、うなずく。
「外を取る。視界を広げりゃ、先が見える」
マリアが即座に端末を立ち上げた。
「熱源を制御すれば、酸素の流れを操れる。外気を使う防御も──」
言葉が交錯する。
誰も止めない。
それぞれが、ようやく掴んだ“生き延びるための形”を語っていた。
全員の思考が熱を帯び、空気そのものが揺れていた。
その中心で、優司だけが静かに座る。
図面を見つめたまま、呼吸のリズムを崩さない。
指先で端末を撫で、細い線を何度も引き直す。
他の誰もが熱を帯びていた。
だが、優司だけは機構の隙間を読む整備士の目をしていた。
空気の熱が、再び形を取り始めていた。
あの夜を越えた確信と、次の夜への覚悟。
光と影の境に立つような、息苦しい静けさがあった。
その静けさの中で、優司が口を開いた。
鉄の音が、遠くでひとつ鳴った。
それが、夜と朝の境を叩くように響いた。
マリアが言う。
「酸素を利用するなら、熱で押し返す。理屈としては悪くないわ」
レオが頷く。
「風を作るって発想は面白い。制御できれば──」
カリームが拳を握った。
「やってみる価値はあるな」
その熱は、もう作戦会議ではなかった。
誰もが“動くこと”を前提に、息を整えていた。
だが、優司は一歩も動かず、静かに図面を見つめていた。
端末の上で線を撫で、計算式を呼び出す。
その手つきは、まるで壊れた機構を診る整備士のようだった。
「自分で言っておいてなんだが──」
そう前置きして、彼は目を伏せた。
「……たしかに理屈は通る」
短くそう言ってから、視線を端末に落とす。
手の中の端末が、わずかに熱を返した。
「ただ、維持が難しい。酸素濃度、気圧差、熱源の偏り。
一箇所狂えば、全体が暴発する」
レオが息を詰める。
優司は続けた。
「試してみたい気持ちはある。俺が言い出した案だ。
でも──今、あの子が眠れない夜を過ごしてる。
それを前に、実験はできない」
マリアが静かに頷いた。
誰も反論しなかった。
“理屈”よりも、“誰かの呼吸”を優先すること。
その判断の重さを、全員が理解していた。
「じゃあ、どうするの」
マリアが問うと、優司は画面を切り替えた。
直線が、通路の形に重なる。
「単純にする。塞がずに、見る」
端末の上に描かれた光の線が、ゆっくりと伸びていく。
「鍛冶場を中心に丸太を立てて、ラインを作る。
各柱にライトを。……“監視柱”だ」
レオが息を吐く。
「塞ぐ壁じゃなく、見る壁か」
「そうだ。見逃さなければ、襲われない」
優司の声は低いが、確かに熱を帯びていた。
“鉄の芯に宿る熱”が、炎のように荒くはなく、次の作業を照らす最初の光になった。
短く答える優司の声が、住処に反響し、静寂が戻った。
だがその静けさの中で、全員が理解していた。
もう、考える段階は終わった。作るだけだ。
「……まずは、どこから手をつける?」
クレールが言った。洞窟の壁際に座ったまま端末を開く。
光の反射が頬を掠め、視線だけが動く。
その指先に微かな震え。焦りではなく、待ち望んだ動きへの高鳴りだった。
「正面に一本、左右に一本。最低限、三本立てる」
その声には、計算よりも先に“覚悟”の熱があった。
「角度は中心に合わせる。倒れたら終わりだ」
カリームが頷き、丸太に手をかける。
「了解。俺とレオで立てる」
レオが息を整え、口元で笑う。
「やっと“やる”時間が来たな」
「ライトは?」
マリアの声が場を引き締める。
優司が整備データを呼び出し、光の図面を展開する。
「電源ラインは十分。旧整備区のケーブルが山ほど残ってる。ただしLEDユニットは数基だけだ」
「使えるわ」
クレールが即答する。
「照射角を絞って監視柱に転用する。光量は足りる」
「光が届かない範囲は?」
「反射板で補う。角度を取れれば十分」
マリアが片眉を上げる。
「贅沢は言わないわ。光が“ある”だけで違う」
クレールが小さく息を吐き、優司の口元にわずかな笑みが浮かぶ。
「言ってる暇もない」
エルナが静かに言う。
「ケーブルの端子、接触が甘い。先に磨いておく」
「了解」
マリアが即答する。
「導通は二重チェック。予備端子も持つ」
クレールは座ったまま、指先で仮想の線を結ぶ。
「三系統に分けるわ。一本落ちても残りで繋ぐ。照度は手動ダイヤル、リレーは単純化」
「それで行こう」
優司は頷き、計算より先に“動き出す”方を選んだ。
「スイッチは俺がやる。一本ずつ手元で入れる。まずは正面、次に左右」
「自動制御は後回し。今は“点けばいい”」
優司の言葉に、クレールが微かに笑う。
「原始的ね。でも、信頼できる」
「信頼できるなら、速い方がいい」
レオが丸太を準備しながら言った。
「走るのは俺たち。光はお前らが通せ。合図で合わせる」
カリームが鼻で笑う。
「言ってろ。鉄は押さえがいがある」
「なら押し潰されんなよ」
レオが返す。
鉄片の響きが、笑いの代わりに散った。
その軽口が、緊張の中で確かな呼吸を取り戻させた。
誰も笑わなかった。だが、その沈黙に、確かな連帯があった。
「ケーブルはロケット内部の保管庫だな」
「エルナ、マリア、任せた。俺たちは先に穴を掘る」
優司の声が響き、マリアが短く頷く。
「了解。すぐ戻る」
エルナは工具袋を肩にかけ、簡潔に言った。
「端子の清掃は私がやる。マリア、導通チェックを」
「任せた。クレール、長さ足りない区間は?」
「八メートルは余裕、十二で限界。足りない箇所は巻き直し。結束は布テープ」
「十分だ」
短く返した声が、空気を締めた。
「一本目が立ったら、俺が電源を繋ぐ」
優司とレオが丸太を担ぎ直す。
「位置は正面通路の中央、左右十メートル間隔だな」
「三度北寄り」
端末の光が、優司の指先を照らした。
「荷重を逃がす」
「了解」カリームが杭を突き立てた。
湿った土が鈍く鳴り、金属の匂いが立つ。
「地が甘い。浅いと寝るぞ」
「三点で止める。焦るな、確実に」
その声に迷いはなかった。
「了解」カリームが石を拾って根元に噛ませた。
土が軋み、丸太がわずかに沈む。
「導通チェック開始」マリアの声が洞窟の奥に消える。
「端子清掃完了。抵抗値、許容内」エルナが続く。
クレールは動かない。座ったまま仮想配線を引き直す。
「正面柱まで十二メートル。余裕ゼロ。巻き取りで十センチ稼ぐ」
「任せた」優司の声が低く響いた。
足音が一斉に動き出す。
鉄片が触れ合う乾いた音、土を割る鈍い音、息が混ざり合う。
外気に、人の温度と光の予感が戻った。
優司とレオがスコップを突き立てる。
「ここを基準に三点。カリーム、押さえろ」
「押さえた。回せ」
腕に溜まる熱が、地面の抵抗と釣り合う。
掘り返した泥が靴にまとわりつき、息が熱を帯びる。
優司は土を払いながら深さを測る。
「あと二十。石が出る。噛ませろ」
「了解」レオが短く笑う。
「敵より固い。悪くねぇ」
奥からマリアの声が戻る。
「ケーブル搬出、一束目。エルナ、端子頭、もう一度磨いて」
「了解」エルナが即答。
「クレール、固定具の位置を送って」
「送信した。照度は最小から。目潰しよりラインを優先」
「了解」マリアの返事が響く。
優司が膝をつき、穴の底を均す。
「レオ、入れるぞ」
「持った。カリーム、せーの」
丸太が腹の奥に響く重さで落ち、土が盛り上がる。
「傾き二度北。もう一押し」
「押す」カリームが受け、レオが押し、根元が沈む。
「止め」
手が上がり、全員の動きが止まる。
「水平出た。三点固定へ移る」
その刹那、洞窟の奥から足音。
マリアがケーブルを抱えて戻る。
「一束確保。足りなければもう一本」
エルナが続き、端子を覆う布を外した。
「清掃済み。接触良好」
「助かる」
受け取った指が、被覆の傷をなぞる。
「クレール、正面柱までのルート、再送してくれ」
「送信済み。足元に段差、踏まないで」
レオが汗を拭い、笑った。
「よし、次はニ本目、立ったら呼ぶ。──これで“見える”ようにしてやる。」
「任せろ」
カリームが拳を握る。
「次は左だ。日が落ちる前に三本だ」
その声に、誰も返さなかった。
ただ、全員が動いていた。
身体の軋みが、始まりの合図のように響いた。
岩と空のあいだに、確かに“始まり”があった。
二本目の柱が立つころ、陽はすでに傾きかけていた。
岩肌の影が長く伸び、赤く沈む光が地面の凹凸を浮かび上がらせる。
空の色が沈むたび、動きが速くなっていった。
レオが丸太を支え、カリームが杭を打つ。
腕と腕が交差し、動きの間に無言の合図が走る。
もう言葉はいらなかった。
音のひとつひとつが、互いの意志を伝えていた。
「角度、あと一度傾けろ」
優司が低く指示を出す。
その声が届く前に、レオの腕が動いていた。
丸太がわずかに揺れ、地面に沈む。
「固定、入った」
カリームの声が続く。
乾いた音が、確かな手応えとして残った。
クレールが端末を操作しながら言った。
「照度ライン、一本目から十七メートル。接続ポイント、左下」
マリアが即座にケーブルを走らせる。
「了解。エルナ、電圧チェック」
「安定してる。ノイズなし」
短いやり取りの間にも、指は止まらない。
彼女たちの動きは冷静で、正確で、どこか美しかった。
風が、ふいに頬を撫でた。
酸素の薄い外気が、湿った丸太の匂いを連れて流れた。
レオが目を細める。
「……この風、いつもより冷てぇな」
「日が落ちりゃ、すぐ温度が落ちる」
カリームが答える。
「急げ。三本目にかかるころには、視界が潰れる」
優司が立ち上がる。
薄い光の中、手にしたケーブルがわずかに輝いていた。
「二本目、通電準備入る」
その言葉に、全員の視線が一点に集まる。
誰も声を出さない。
ただ、呼吸の音だけが聞こえた。
端末の画面に、数値が流れる。
導通率、電圧、出力。
優司が指先で確認し、ひとつ頷く。
「……問題なし」
レオが短く笑った。
「よし、やっぱ俺ら、動くと早ぇな」
カリームが口元を歪める。
「口より手が動いてるうちはな」
空が群青に変わり始めていた。
光と闇の境に、二本の柱が立っている。
その上に並ぶ小さなLEDユニットが、まだ沈黙したまま、夜を待っていた。
クレールがその光景を見て、小さく呟く。
「……まるで灯台ね。まだ灯ってないのに」
誰も返さなかった。
だが、全員の胸の奥に、同じ言葉があった。
──次で、光が点く。
三本目の柱に取りかかるころ、陽はすでに森の向こうに沈みかけていた。
赤から紫へ、そして群青へ。
そのわずかな色の変化が、時間の残りを告げていた。
「残り一時間。光が消える前に終わらせる」
優司の声は短く、冷たく研がれていた。
だがその響きには焦りではなく、確信があった。
もう、全員がそのテンポを理解している。
優司とレオが丸太を担ぎ、カリームが地面を掘る。
岩混じりの土が重く、湿り気を帯びて沈むたびに鈍い音を返す。
ふたりの影が長く重なり、地面に網のような模様を描いていた。
クレールが端末を見ながら指示を出す。
「角度は二度右。一本目の影と平行に合わせて」
カリームが掘り進めた穴の底に、湿った土の匂いが立ちのぼる。
丸太を構えたレオの腕が震え、重さが地を押しつぶすように沈んでいく。
優司が横に立ち、角度を測る。
視線が交わる──ほんの一瞬。
その一拍で、互いの呼吸が合った。
「……今だ」
優司の声が落ちた瞬間、レオの足が地を蹴った。
丸太が揺れ、土が鳴り、空気がひとつ軋む。
全身の力が地に叩き込まれ、杭が沈み込む音が夜気を裂いた。
重心が止まり、世界が一瞬だけ静まる。
優司がその沈黙を測るように、指先で丸太の根を押した。
動かない。
ぴたりと噛み合っていた。
「……完璧だ」
その低い声に、レオの口角が上がる。
全身で受け止めた衝撃が、腕から背中へ、地面へと抜けていく。
呼吸だけが、地の底に沈んでいった。
優司が指先で根を押す。その確かさにぴたりと噛み合っていた。
「……悪くない」
低く漏れた声に、レオが短く笑う。
「そっちこそな」
一瞬、熱が通った。
風も音もない空気の中で、呼吸だけが響いていた。
「よし、固定」
その一言に全員の体が止まる。
呼吸と音が一致し、空気がひとつになった。
クレールの視線が、端末の光越しに角度を確かめた。わずかに頷く。
「……三本目、通電準備」
優司の手がケーブルを受け取る。
マリアが確認を入れた。
「導通率、安定。抵抗、標準値」
「電圧も問題なし」エルナが続く。
「接続ポイント、前方四メートル」
「了解、繋ぐ」
手の中のコネクタが“カチリ”と噛み合う音。
その瞬間、空気の密度が変わった。
誰も息をしなかった。
優司が端末に指を置く。
小さく、静かに、スイッチを押す。
一瞬の無音。
次いで──光。
暗闇を裂くように、細い白が走った。
一本目から順に、二本目、三本目。
洞窟の前方に並んだ柱が、順番に灯っていく。
薄い光の帯が風に揺れ、湿った空気を切り裂いた。
レオが小さく息を吐く。
「……点いた」
カリームが肩を回しながら笑う。
「上等だな」
マリアが端末を確認し、値を読み上げる。
「出力安定。照度、想定通り。これなら夜でも視認可能」
クレールが目を細めた。
「やっと、見えるわね」
優司は光の列を見つめたまま、何も言わなかった。
手の中の端末には、まだ微かな振動が残っている。
“生きている”ような機械の呼吸が、夜の冷気の中で唯一の熱だった。
ふと、風が止まった。
光の下、草の先端が揺れる。
レオが首を傾ける。
「……今、音、したか?」
誰も答えなかった。
風もないのに、一本目の柱の影がかすかに揺れた。
静寂が張りつめる。
草の先端が、音もなく揺れた。
マリアが小さく呟く。
「今の、風じゃない…… 」
クレールが目を細める。
「……何か、動いた気がする」
次の瞬間、最も左のライトが“弾ける”ように消えた。
乾いた音とともに、光が一つ、夜に溶けた。
誰も声を上げなかった。
ただ、静寂が深く、鋭く、全員の胸を貫いた。
──光が、試された。
光が立つたびに、闇もまた形を変える。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえるとうれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.057】
監視柱、三基の通電を確認。照度および導通値、すべて正常。
しかし、記録映像の末尾に微細な“影の揺らぎ”を検出。
その発生源は、風向・生体反応ともに一致せず。
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