第56話 残火の息
焼け跡に、まだ温もりが残っていた。
外の気配が、嘘のように消えていた。
森は息をひそめ、風すら音を立てない。
さっきまで壁を打っていた衝撃音が、耳の奥でまだ震えている。
それが“終わり”なのか、“次の始まり”なのか、誰も言わなかった。
優司は、入口近くの作業台に腰を下ろした。
金属片を指先で転がし、ひとつずつ角度を確かめる。
音を立てぬよう、息だけで熱を測る。
指の皮膚に残る温度が、まだ生きている証だった。
レオとカリームは、洞窟の出入り口側で寝床を整えていた。
誰に指示されたわけでもなく、自然にそう動く。
石壁を背に、視界を確保できるように並ぶ。
片方の手には工具、もう片方にはすぐ動ける靴。
寝るというより、いつでも立ち上がれる姿勢で。
「……この静けさが、いちばん怖ぇな」
レオの声は低く、息と変わらぬほどの音量だった。
カリームは答えない。ただ、腰を落とし、背で壁の音を測った。
地の底から微かな音と気配が伝わる。
それは、炉の名残か、敵の気配か、判別のつかない呼吸のようだった。
マリアは奥の光量を落とし、端末の画面を暗転させる。
数字は安定していた。だが、それが逆に不気味だった。
全員の生体波形が緩やかに揃う中で、空気だけがざらついている。
計測値では掴めない“異物”がある──そう直感した瞬間、
彼女の口元がわずかに歪んだ。
「……ほんと、退屈だけはしないわね」
囁くようにそう言い、端末を閉じる。
その横顔には、怯えではなく“静かな愉悦”が浮かんでいた。
クレールは記録装置を閉じ、背を壁に預ける。
誰も彼女を見ていない。
それでも、彼女は全員の息の長さを聞き分けていた。
ひとつ、ふたつ──規則正しく続く呼吸の中に、わずかな乱れ。
それが、ミナのものだとすぐに分かった。
洞窟の奥、少女の寝息が不安定に揺れている。
息を吸うたびに肩が小刻みに震え、吐くたびに音が詰まる。
夢の中で何かを掴もうとして、手がわずかに動く。
その手の中で、小石がかすかに光を返した。
洞窟の壁に、その反射がひと瞬、誰の瞳にも届く。
誰も声をかけない。
ただ、その小さな揺れだけが、夜の中心だった。
洞窟の空気が、ひと呼吸ぶん止まった。
遠くの水音も、風の擦れも消える。
その静寂の底で、ミナの喉が震えた。
「……ナ、メル……ッ、イ、ナ……!」
誰も意味を取れなかった。
けれど、その音が空気を切り裂く。
熱でも寒気でもない、“何か”が走る。
金属の響きが遠くで共鳴し、洞窟の壁が微かに鳴った。
レオがわずかに身を起こし、カリームが反射的に構える。
その動きが一瞬で止まる。
敵の気配ではない。
それは、もっと深いところにある“叫び”だった。
エルナが顔を上げた。
「今の……言葉?」
静かな声が、洞窟の奥へ滑っていく。
返事はなかった。
ただ、火の名残のような光が壁を舐め、影を震わせる。
ミナは岩壁に背を預け、耳を伏せていた。
小さな肩が、一定の間隔で震えている。
指先は石を握り、白くなるほど力がこもる。
尻尾は足の間に丸まり、呼吸のたびに揺れた。
それは、凍えるのではなく“思い出している”震えだった。
エルナがそっと膝をつく。
声をかけず、手のひらを近づける。
空気の温度が、わずかに変わる。
ミナの頬にかかる髪が震え、耳の先が動いた。
その瞬間、彼女の体が弾かれたように跳ねる。
息を呑む音が、夜の中心を突き抜ける。
視線が宙を彷徨い、焦点が戻らない。
彼女の目には、洞窟ではない“別の光景”が映っていた。
──空が、赤い。
息が荒れ、体が震える。
耳鳴りと炎の音が重なり、景色が反転する。
熱が、皮膚の裏まで染みていく。
ミナの唇が動く。
「……おとう、さん……」
その一言で、全てが繋がった。
夢ではない。
これは、彼女が生き延びた夜の記憶。
赤い空が、揺れている。
遠くで何かが爆ぜ、光が地を裂く。
父の背中が、炎の中を走っていく。
その腕の中で、母の息が荒くなる。
「行っちゃ、ダメ……!」
声が途切れ、音が溶けた。
世界が、火に呑まれていく。
視界が反転した。
音が消え、火の粉だけが舞う。
世界の端が崩れるように、記憶が流れ込んでいく。
──空が、赤い。
風が燃えていた。
草が焼ける匂いと、金属が軋む音が混ざる。
酸素が奪われ、息をするだけで胸が裂けそうだった。
ミナの耳が伏せ、尻尾が足の間で丸まる。
地を這うような熱気が、皮膚を刺す。
「ミナ! こっちだ!」
父の声が、熱風を切り裂いた。
煙の奥、黒い影がひとつ動く。
肩越しに振り返ると、背中が炎に照らされていた。
その背は、まるで火を押し返すように、真っすぐ立っている。
母の手が、ミナの手を掴んだ。
掌は焦げた灰でざらつき、血が滲んでいる。
「走るの。目を閉じて」
その声は震えていたが、強かった。
頬を伝う涙が蒸発し、煙に混じって消えた。
地面が震えた。
何かが空を裂く。
音より先に、光が落ちた。
次の瞬間、世界が弾ける。
耳鳴りが鼓膜を焼き、空気の圧が胸を叩く。
木の破片が飛び、屋根が砕けた。
母の足に、銀の破片が突き刺さった。
血が溶けた地面に滲み、音もなく蒸気を上げる。
「お母さん!」
叫ぶ声は掻き消えた。
炎の唸りが、すべての言葉を飲み込む。
それでも、母は笑っていた。
「いいの。……行って。水の方へ」
その手がミナの背を押す。
触れた指先が、すでに冷たかった。
父の姿が炎の向こうで揺れる。
その手には、焦げた梁を支える鉄の棒。
崩れ落ちる天井を押し返し、道を作っていた。
「大丈夫だ、行け!」
その声が、雷鳴のように胸に響いた。
ミナは走った。
足の裏が焼け、息が詰まる。
けれど止まれなかった。
風も音も、もう敵のように感じた。
水場が見える。
蒸気に包まれた川のような裂け目。
空の赤が水面に反射し、血のように滲んでいる。
そこだけ、火が寄らない。
まるで何かが“拒んでいる”ようだった。
「──あそこだけは、行っちゃダメ」
母の声が頭の奥で響く。
“死の洞窟”──そう呼ばれていた。
息をするたび、喉が裂ける。
背後で、何かが崩れた音がした。
振り返る。
母が、地に倒れていた。
足は焼け、肌が白く剥がれている。
それでも、唇が動く。
「ミナ……走って」
その一言で、世界が止まった。
風も、音も、光も。
ただ、赤い炎だけが、母の形を照らしていた。
ミナの足が、勝手に動く。
涙が蒸発し、頬に白い跡を残す。
空の裂け目から、鉄の雨が降る。
火の粉が髪に降り、焦げる音がした。
世界が傾いた。
空と地面が入れ替わり、視界が白く弾ける。
ミナは転び、岩を掴んだ。
指先に熱が移り、皮が剥がれる。
それでも、手を離さなかった。
暗闇があった。
洞窟の口。
空気が違う。冷たい。重たい。
そこだけ、炎の音が届かない。
ミナは息を吸い、入り口で膝をつく。
背後で、母の名を呼ぶこともできずに。
光が途切れた。
音も途切れた。
ただ、心臓の鼓動だけが残った。
──そして、世界は火に呑まれた。
その熱は、まだ彼女の中で息をしていた。
瞼の裏に焼けた空の残光が残り、喉の奥でかすかな息が詰まる。
指先は岩を探し、ようやく現実の冷たさに触れる。
胸の鼓動が速い。けれど、音はもう炎ではなかった。
洞窟の空気が戻り、誰かの気配がそっと寄り添う。
まだ怖い。けれど——もう、独りじゃない。
そう思った瞬間、熱が静かに落ち着いた。
そして、夜が明けきらぬ空が、洞窟の口に淡く滲んでいた。
朝の光が、洞窟の口に落ちていた。青よりも灰に近い光。
それでも、闇よりは少しだけ暖かい。
優司は作業台の端で、指先についた黒粉を拭いながら息を吐く。
「……夜の間、ミナがうなされてたな」
レオが頷く。
「だからこそ、外を安定させよう。あの子が眠れるように」
金属の冷たさがまだ手の内に残っている。
眠気はない。ただ、思考の熱だけがずっと燃えていた。
レオとカリームは入り口側で背を合わせて座っていた。
誰も何も言わない。
だが、その沈黙には「次」をどう動くかの構えがあった。
マリアは端末を閉じ、背伸びをひとつして言う。
「……静かね。嵐の後みたい」
クレールが壁際の灯りを調整しながら答えた。
「外気、安定。酸素量も変化なし。
でも、動きがないってことは──“考えてる”側もいる」
その言葉に、レオがわずかに顎を上げる。
「向こうも構えてるってことか。なら、こっちもやるしかねぇな」
優司が図面を開く。
壁の線を指でなぞりながら、短く言った。
「ここまでが今の防壁。……だが、鍛冶場までは開いてる」
カリームが腕を組み、肩を鳴らした。
「柵を延ばすにしても、木材が足りねぇ。あの森から引けば、奴らに気づかれる」
レオがすぐに返す。
「じゃあ、鉄で補う。炉があるんだ。時間はかかってもやるしかない」
マリアが片眉を上げた。
「熱の供給を守るために、熱で守る……理屈は好きよ。でも酸素が燃えるわ」
「燃えるなら、燃えないように制御すればいい」
優司の声は低く、だが鋭い。
「温度差で流れを作る。熱を逃がして、外気を押し返す。」
マリアが頬に手を当てる。
「熱風じゃなく、逆流の風圧で守るってことね。……理屈は嫌いじゃないわ」
優司が図面の端を指でなぞる。
「“戦う”じゃない。“壊さないための環境制御”だ。」
──その沈黙を、金属の冷たさが埋めた。
「熱で焼くってことか?」カリームが眉を上げる。
「違う。“焼かずに流す”酸素を奪うんじゃなく、風向きを変えるだけだ」
マリアの目がわずかに光る。
「……制御系としては、悪くない。維持ができれば、ね」
その声に、誰も言葉を重ねられなかった。
レオが立ち上がる。
「……守るのも大事だが、動けるようにもしときたい」
カリームが頷く。
「外での作業が増える。防具を重くしてたら逃げ遅れる」
マリアがすぐに理解する。
「軽装化ね。耐圧を落として、動きやすく。……それ、あなたがやるの?」
レオの声に、わずかな熱が宿る。
「優司が設計。俺たちが試す。──それで、動く。そういう流れだろ」
クレールが冷静に言葉を継ぐ。
「つまり、外と内を分けて守る。どちらも“呼吸”を殺さない構造にする」
マリアが頷き、唇を噛んだ。
「……攻めてはないけど、いいわね。守りながら動く、か」
優司が顔を上げ、全員を見る。
「守り方は、それぞれ違っていい。
だが、“守る理由”は一つにしろ。迷うな」
静かな声だったが、その瞬間、空気が震えた。
レオが息を整え、短く笑う。
「迷うほど、時間ねぇしな」
カリームが腕を鳴らした。
「どうせやるなら、限界までやる。作る方も、動く方も」
カリームの拳が鳴った。
「止まるより、壊れる方がマシだ」
「限界の先まで、ね」
マリアが軽く笑い、肩をすくめた。
「そういう無茶、嫌いじゃないわ」
沈黙が再び落ちた。
だが今度のそれは、冷たい沈黙ではなかった。
全員の中で、何かが形になり始めている。
“守り”ではなく、“生き抜く構造”としての意志。
エルナがゆっくり立ち上がり、洞窟の外を見た。
朝の光が薄く差し込む。
「……これだけ考えてるなら、見張りはいらないわね」
その声に、誰も笑わなかった。
けれど、その一言が、夜を終わらせた。
光が鉄片を照らし、微かに跳ね返る。
“生きる”という言葉より確かな熱が、そこにあった。
壁に残った青白い残光が、息のように震えた。
朝の空が、洞窟の奥まで滲みはじめていた。
夜と昼の境がまだ曖昧で、光の筋が鉄片の隙間を縫う。
冷えた空気が戻り、肌の上をゆっくりと流れていく。
レオが立ち上がり、肩を回した。
「……さて、寝起きにしては悪くない朝だ」
カリームが隣で工具を持ち直す。
「寝てねぇけどな」
言葉の端に笑いが混じる。
どちらも、もう夜を引きずってはいなかった。
優司は炉の側で、昨日の残熱を確かめていた。
金属の表面を指で撫で、微かな温もりを拾う。
「……温度、保ってるな」
マリアが横から覗き込み、片手で計測値を呼び出す。
「炉の安定率、97パーセント。上出来じゃない?」
優司は頷くだけで、端末の図面を書き換える。
その仕草ひとつで、もう次の工程が始まっている。
「柵を延ばす前に、支柱を試す。外で圧を測る」
レオの声が響き、カリームが即座に応じる。
「了解。昼までに一列は立てる」
その動きの速さに、マリアが肩をすくめた。
「ほんと、休むって言葉知らないのね」
「お前もな」レオが言い返す。
マリアは笑って、返事をしなかった。
洞窟の奥で、エルナが立ち上がる。
白い呼気がわずかに揺れ、腕の中の端末が光を返す。
「酸素循環、安定。血中値も正常。……起こしていい頃ね」
その声に、全員の視線が奥へ向いた。
岩の陰で、ミナが眠っていた。
薄い毛布の下で、耳がぴくりと動く。
光が頬に触れ、わずかに顔をしかめた。
エルナが近づき、膝をつく。
「……おはよう、ミナ」
ゆっくりと開いた瞳が、青い朝を映した。
その目に、昨夜の炎はもうなかった。
ただ、静かな光だけが、息をしていた。
最初の瞬きで、世界が動き出す。
音も熱も、彼女の呼吸と一緒に戻ってくる。
まだ言葉はない。けれど、その瞳の奥にあった。
“ここにいる”という、静かな意志。
レオが入口を振り返り、短く呟く。
「……始めるか」
外の風が、柵の影を揺らした。
夜が完全に終わる。
そして、また“作る日”が始まった。
鉄の表面に、朝の光が細く走った。
それが、今日の最初の線だった。
息をするたび、世界は少しずつ形を取り戻していく。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.056】
観測個体“Mina”、過去記憶領域の発火を確認。
外部刺激による断片的再現から、精神安定波形の回復を検出。
炉内温度・酸素循環ともに安定へ移行。
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