第55話 呼吸する壁
壁は、生きるために呼吸していた。
それは、ただの構造ではなく──意志だった。
外の気配が、ふっと途切れた。
風が止んだわけではない。ただ、空気の層のどこかが“抜けた”ようだった。
耳の奥で、何かが遠ざかる。
生き物の歩みでも、金属の響きでもない。
それは──“意志の退き方”だった。
レオが息を吐く。
音にならない音。
その肩越しに、わずかに揺れた。
外にはまだ煙がある。
湿った森の匂いと、土に落ちた石の粉。
青がその輪郭を照らし、まるで見えない影の通り道を描いているようだった。
「……気配が、消えたな」
カリームが低く言う。
だが、言葉は確認ではなく、報告のようだった。
それでも誰も返さない。
ただ、呼吸だけが細く、一定の間を保っている。
マリアが動いた。
端末装置に手を伸ばし、酸素量の調整を確認し指先でなぞる。
揺らぎはない。
だが、“安定”という文字が、かえって不安を濃くした。
「引いたんじゃない」
優司の声が、静かに空気を割った。
「確認しにきただけだ。……ここに、何が居て、何があるかを」
言い切るでもなく、指示でもなく。
その声は、整備中の回路点検のように淡々としていた。
だが、その低さに、誰も異を唱えなかった。
火の脈動と同じテンポで、全員の鼓動がそろっていく。
レオが、岩壁の隙間を覗く。
湿った風が、頬をかすめる。
枝の影が揺れた。
それだけで、心臓がわずかに鳴る。
けれど、もう石は飛んでこなかった。
「待て……引いた、ように見せてるだけだ」
カリームが呟いた。
「……気配が抜けてない。音が、何か奥で詰まってる」
一拍、呼吸を吐く。
「本当に帰ったなら、空気の重さが変わるはずだ。……まだ、いる」
マリアが眉を寄せ、装置の光を落とした。
「何か急いで対策をしないとね」
それは命令でも提案でもなく、“防衛本能の音”として響いた。
優司は頷かず、ただ視線を洞窟口に置く。
明滅が、頬の線を一瞬だけ浮かび上がらせる。
何かを計算している。
そして、静かに言った。
「……なら、作るしかないな」
外の森が、沈黙を返した。
木々の葉がざらつき、遠くで水が跳ねる。
その音は、まるで“試している”ようだった。
誰もまだ見ぬ相手。
だが、その視線だけは、確かにこちらを射抜いている。
レオが立ち上がり、手のひらで壁を押した。
掌の下で、石の冷たさがわずかに震える。
「……動かなきゃ、意味がない」
その声は、合図でも命令でもなかった。
ただ、止まらないための言葉だった。
洞窟の奥に、呼吸が静かに揺れていた。
外の気配は消えたはずなのに、空気の奥ではまだ、見えない圧が残っている。
息をひとつ吸うたび、胸の奥が少し軋む。
誰も、それを口にしなかった。
優司は壁際に立ち、岩肌を指でなぞった。
熱の残りと湿りの配分、空気の流れを確かめるように。
「この開口を全部塞ぐと、酸素が籠る。けど……開けたままじゃ、撃ち抜かれる」
クレールが端末を開き、構造線を引き出す。
「換気を殺さずに遮断。……呼吸できる壁、ね」
その声に応えるように、優司は一歩前へ出た。
「縦板を、斜めに立てる」
岩肌をなぞる指先が、風の筋を描く。
「正面からは壁に見える。けど、角度をつければ──風も光も抜ける」
洞窟の奥で、空気がわずかに動いた。
光苔が微かに脈を返し、その青が指先に映る。
クレールが目を細めた。
「通気を保ちながら防御。……理屈は通る」
優司は頷き、指を空に向けて切った。
「空を閉じずに、守る構造だ。
濃度が滞れば、こっちも死ぬ。
けど“呼吸の道”さえ残せば、生きられる」
マリアが息を整えた。
「“塞ぐ”んじゃなくて、“生かす”壁……」
その呟きは、命の温度で空気に溶けた。
カリームが材を持ち上げ、斜めに立ててみせる。
「こうか。前から見たら塞がってるが……横からなら、向こうが見える」
木が擦れる音が、壁と空気の間を震わせた。
「そう。それでいい」
優司の声は低いが、明確な熱を帯びていた。
「風は通す。湿りは抜ける。……敵からは、見えない」
カリームが手で材を押し、体でその強度を測る。
「斜めに張ることで、力が流れる。
押されても、板ごとに逃げ道ができる。
……理にかなってる」
「つまり、隙間が守るってことね」
クレールの指先が端末を走る。
「視界を遮って、呼吸だけ残す。……理想的だわ」
マリアが壁の線を見上げ、短く言う。
「昔の木造建築と似てるわ。閉じるんじゃなく、風で支えるの」
優司が応えるように息を吐く。
「風も、敵も、力の流れのひとつだ。
止めるんじゃない。受け流して、生き延びる」
カリームが材を打ち合わせ、乾いた音が洞窟に響く。
「……やってみる価値はあるな」
その音が、皆の胸に火を落とした。
壁はまだ立っていない。
けれど、影だけが先にそこへ伸びていた。
誰も言わなかった。
ただ、全員の目が──同じ一点を見ていた。
“これから作る”その未来が、
もう、空気の中に息をしていた。
優司は顎に手をやり、空を見上げるように岩を見た。
「支柱を二重に組む。圧を逃がす角度で立てれば、衝撃は分散できる。……呼吸は残る」
指先が空を描き、見えない構造をなぞる。
その軌跡を、クレールが端末に写し取った。
光の線が走り、洞窟の壁に反射する。
誰も言わないが──全員の呼吸が、その線と同じリズムで揺れていた。
「俺とカリームで材を運ぶ」
レオの声が、火を思い出したように熱を帯びる。
彼の手はすでに革手を締め、動く準備を終えている。
「森の手前なら、まだ安全圏だろ」
マリアが即座に返した。
その目は冷静だが、声音の奥にわずかな張りがある。
「“今は”ね。でも、油断すれば次の瞬間が最後になる」
レオは小さく頷き、腰の道具を確かめた。
その指先に、焦りも怯えもなかった。
ただ──“動き出すしかない”という現実だけが、静かに息をしていた。
短い会話の間にも、優司の目はずっと外に向いていた。
敵ではなく、構造を見ている。
どこまで壊され、どこまで耐えられるか。
まるで未知の機械の耐久試験をしているかのように。
クレールが皆の顔を順に見た。
「……動けるうちに、形を決める」
その言葉が落ちた瞬間、空気の層がひとつずれた。
呼吸の音が揃い、作業の気配が再び立ち上がる。
エルナが端末を閉じた。
「作る。動く。──それしかない」
彼女の声には、恐怖ではなく確信があった。
言葉の奥で、金属が冷たく鳴った気がした。
レオが頷く。
「いい。作業音で森がざわつくなら、上等だ」
カリームの口元がわずかに上がる。
「見せつけてやる。……“こっちの生き方”を」
優司は、作業台に両手をついた。
掌に伝わる冷たさを確かめながら、静かに言う。
「酸素を殺すな。構造を殺すな。──生きるための設計だけを残せ」
低く、硬い声。
命令ではなかった。けれど、誰も逆らえなかった。
それが、この拠点の“核”の音だった。
マリアが最後に、息のように呟く。
「……防ぐために、呼吸する壁を」
その言葉に、エルナが静かに頷いた。
「酸素濃度は今のままで維持できる。
出入りを制限すれば……数値は安定する」
冷静な声。だが、その裏に“生き残る覚悟”が宿っていた。
レオが短く息を吐く。
「なら決まりだ。外は俺が行く」
カリームが工具を掴み直す。
「打ち込む。構造が立つまで、止まらん」
クレールが端末を抱え直し、静かに言う。
「換気ルートを計算する。……呼吸を絶やさない壁にする」
優司は何も言わず、ただ全員を見渡した。
その視線に、揺らぎが重なる。
誰も命令を待たなかった。
それぞれの動きが、同じ一点に集まっていく。
マリアが小さく息を吸った。
「……生きるための設計、ね」
その言葉が、場の中心で灯のように留まった。
誰も言葉を足さなかった。
けれど、空気の中に“決意の温度”が確かにあった。
優司が立ち上がる。
手元の工具が、かすかに鳴った。
「夜は俺が見る。……やるべき事がある」
レオが眉を上げる。
「一人でか?」
「明日は素材集めがあるだろ。──何かあったら声をかける」
カリームが短く息を吐く。
「悪いな。……任せる」
レオも視線を落としながら、道具を片付けた。
「すまん。先に休む」
優司は返事の代わりに、工具を軽く掲げた。
次の瞬間、その姿は入口の影に溶ける。
壁際の金具がかすかに鳴り、何かの作業音が静かに響く。
レオとカリームは短く目を合わせた。
言葉は要らない。
体が覚えている配置のまま、入口側に寝床を作る。
寝具のかたわらには、いつでも動けるように道具が並んでいた。
夜は静かだった。
けれど、その静けさの中に──“整備の音”だけが生きていた。
金属が擦れ、遠くで風が応える。
音はすぐ消えるが、余韻だけが残る。
それは、呼吸のように洞窟をめぐっていた。
朝日が昇る前の森の湿気が、隙間から入り込んでくる。
酸素の流れがわずかに乱れ、耳の内側で脈の音が強くなった。
外気と内気の境界が、曖昧に揺らいでいる。
レオは呼吸を浅く整え、肩にかけたロープを引く。
空気が濁るたび、視界が一瞬だけ白む。
湿度の膜が頬をなぞり、呼吸の熱がマスクの内側で反射する。
「……視界、まだ平気か?」
「問題ない」カリームの声が、鈍い金属の響きを伴って届く。
「音の返りが遅い。湿気が増えてる。……地が、息してる」
レオが額のあたりを押さえ、指先で装具の縁を確かめる。
「……これ、顔を覆いすぎて感覚が鈍るな」
マリアが横目を向けた。
「外す気?」
「いや、ただ……空気の重さが、掴みにくい」
「死ぬ前にわかっても意味ないわ」
レオは笑わず、小さく息を吐く。
「慣れてきた気がするだけだ。でも──このままじゃ、動きが鈍る」
カリームが短く言う。
「戻ったら、優司に話せ。……今は、生きる方を優先だ」
その声は金属を伝い、湿った空気の奥で響いた。
装備越しに聞こえるその低音が、心拍と混じって脳裏を叩く。
マリアが手を上げ、風の層を読む。
指先に触れる空気の流れが、微かに鈍る。
「南西、二十メートル先。風が止まった」
その声が反響して、すぐに溶けた。
レオが顎を引き、曇りかけた視界を拭う。
「……境界か?」
「ええ。あの先だけ、空気が動いていない」
彼らの動きが止まる。
周囲の音が、呼吸の内側に沈む。
機械の循環音だけが、沈黙を繋いでいた。
マリアは膝をつき、苔の上に手を置く。
指の下、湿り気の層が二重になっている。
表面は濡れているのに、下は乾いていた。
「……ここの湿り、何か“使われた”形跡がある」
「罠の跡か?」
「もしくは……何かを固定してた」
カリームが顎を引く。
「考えてる時間はない。木を取る」
腕を伸ばし、太い根を掴む。
金属手甲の中で関節が鳴り、軋みが手首に伝わる。
「節が浅い。割れ目は北側だ。──レオ、斧」
「了解」
レオが腰から斧を引き抜く。
一撃。
鉄の響きが、濁った空気を裂いた。
音の余波が、森の奥で跳ね返る。
水滴が震え、葉がざわめいた。
森が応え、遠くで何かが鳴いた。
マリアの声がすぐ飛ぶ。
「動きあり。東。距離不明」
カリームが一瞬だけ振り返る。
「追ってきてるか?」
「違う。……見てる」
レオが斧を振り下ろす。
衝撃が腕に伝わり、足裏から地面の呼吸が押し返す。
「切る。静かに速く」
「了解」
二人の動きが合う。
木が軋み、酸素の警告ランプがわずかに揺れた。
マリアが通信の回線を切り替え、酸素の流れを一時的に抑える。
内部の呼吸が深くこもり、声が湿気に溶けた。
「この空気……密度が上がってる。近いわ」
カリームの息が重なる。
「気づかれたな。……急げ」
木の裂ける音が、森の奥で反響した。
倒れる寸前、レオが支えを引く。
重い衝撃が地を這い、骨へ伝わる。
その瞬間、遠くで枝の軋む音が返った。
同じリズム、同じ呼吸。──誰かが“動いた”。
マリアが短く息を整える。
「撤収する。戻りながら、台車を使う。ここで立ち止まるのは危険」
カリームが木を担ぎ、レオが滑車を引き出す。
縄の軋みが、森の奥まで響いた。
装甲の擦れる音が、汗の代わりに空気を震わせる。
「……あいつら、気づいたな」
レオが短く呟く。
カリームは答えず、ただ重い木を押し出した。
その背を追いながら、マリアは空気の流れを測る。
風は動かない。
けれど確かに──“何かが呼吸している”。
木材が洞窟に運び込まれたとき、空気がわずかに変わった。
湿った森の匂いと、切り口から立ちのぼる熱気。
それは、外の気配を引きずり込むような重たさだった。
けれど、誰も手を止めなかった。
優司が支柱の角度を測る。
レオが木片を押さえ、カリームが鉄槌を構える。
ひと振りごとに、木の芯が鳴る。
その音が、呼吸の拍と重なっていく。
リズムは一定ではない。だが、それが“生きている音”だった。
「支点をここ。圧が逃げる方向は左」
優司の声が短く飛ぶ。
マリアがすぐに受け取る。
「了解。結束は二重。上部だけ、湿度を逃がす」
手元の動きが、もう会話になっていた。
クレールは端末で酸素流の変化を計測しながら、柱の間隔を示す。
「この距離なら、呼吸は保てる。閉じても、生きられるわ」
マリアが頷き、ロープを引き締める。
繊維が軋む音が、鉄よりも鋭く響いた。
木槌の音、金属の擦れ、息の混じる音。
それらが重なり、ひとつの呼吸のように洞窟を満たす。
誰も言葉を選ばない。
言葉より早く、体が動いていた。
カリームが柱を押さえる。
その腕に流れる筋肉の線が、汗で濡れ、反射する。
打撃のたび、手のひらの皮膚が鳴った。
「もう少し右、カリーム!」
レオの声に、短く頷いて力を込める。
斧を振るうよりも重い作業だった。
だが、誰も疲れを見せなかった。
“作ること”が、そのまま“戦うこと”になっていた。
この音が止まるとき、それは死だと全員が知っていた。
だから、止めなかった。
優司が最後の部材を押し込む。
その指先に、かすかな震えが残る。
「……よし」
短い声が落ちる。
それを合図に、全員が息を吐いた。
完成した柵は、陽を反射して淡く光っていた。
木と鉄と汗の色が混ざり、ひとつの構造になっている。
生きるために組まれた壁──
呼吸する防壁だった。
マリアがそっと手のひらを触れる。
木の鼓動が、かすかに伝わる。
「……生きてる」
その言葉に、誰も笑わなかった。
だが、全員が同じことを感じていた。
この壁は、戦いの象徴ではない。
“生きようとした音”が、形になっただけだった。
洞窟の奥は、外よりも静かだった。
けれどその静けさは、休息ではない。
耳の奥で、まだ鉄槌の余韻が響いていた。
壁の内側を伝い、床を細かく震わせている。
それはまるで、ここにいる者たちへ──
「まだ、生きている」と伝えるための鼓動のようだった。
ミナは岩に背を預け、膝を抱えていた。
顔は上げない。
息を潜めるたび、喉がかすかに震える。
その震えが、体温を少しずつ削っていく。
外で鳴る音の一つひとつに、肩がわずかに跳ねた。
エルナは隣に座り、黙って彼女の手を包んでいた。
その細い指を、両手で包み込むように。
脈を取るわけでもなく、ただ“確かめる”ための触れ方だった。
「……冷えてる」
呟きは独り言のように落ちた。
湯気を吸い込んだような、やわらかい声だった。
ミナの掌から、湿りが移る。
熱はある。
けれど、その下の感触は冷たかった。
記憶の温度が、体の奥を支配している。
それは怪我でも、病でもない。
もっと深い層に残る、“拒絶の記憶”だった。
「外には、行かないのね」
エルナの声は穏やかだった。
問いでも、誘いでもない。
ただ、いまの現実をなぞるだけの声音。
ミナはゆっくりと首を振る。
髪が頬をかすめ、風が撫でた。
その一瞬の揺らぎだけが、彼女の存在を照らした。
エルナは手を離さずに、洞窟の口へ目をやった。
外の音が、少しずつ遠のいている。
木を打つ音、声の交わり、呼吸の熱──
それらは、薄い膜の向こうで鳴っていた。
「……体が、覚えてるのね」
その声は静かだった。
けれど、静けさの奥に“痛みのような優しさ”が滲んでいた。
「……あなたは悪くないわ」
エルナの声は、驚くほど静かだった。
「世界が怖いのは、ちゃんと見えている証拠。
何も見ずに笑える人の方が、きっと弱いの」
指先でミナの掌を撫でる。
その手の中の小さな石が、わずかに温もりを帯びた。
「あなたは逃げてない。
まだここで息をしてる。
それだけで、十分に強いのよ」
エルナは言葉を止めた。
けれど、息を整える音がひとつ、沈黙の中に響いた。
「……私ね、怖いものを見すぎたせいで、何も感じないって思ってた。
でも今、違うってわかったわ」
視線を落とし、ミナの頬にかかる髪を指で払う。
「あなたの手が、こんなに冷たいのに──私の指が震えてる」
声がわずかに掠れる。
「……だから、あなたが生きてるって、ちゃんと伝わる」
一瞬、呼吸が詰まった。
理屈ではない。
目の前の命が確かに在るというだけで、胸の奥の何かがほどけていく。
それを止める術を、彼女は持たなかった。
「ねえ」
エルナは小さく息を吐き、笑うように呟いた。
「生きるのは、簡単じゃない。
でも、それでも生きなきゃダメなの」
その声は、命令でも慰めでもなかった。
祈りに似た確信の響き。
理性の奥に隠していた熱が、ふとこぼれた瞬間だった。
「……そのうちでいい。外を見ようと思えたら、私が一緒に行く」
言葉の端に、かすかな震えが混じった。
「あなたの足が止まるなら、私が引っ張る。
あなたが泣くなら、代わりに怒る。
……それでいいのよ」
言葉が終わっても、彼女の胸は波打っていた。
その鼓動が、ミナの手を通して伝わる。
声よりも確かに、彼女の“生きたい”がそこにあった。
ミナの指が、静かに握り返す。
その一瞬、エルナの頬に光が宿った。
彼女は息を吸い、わずかに目を伏せる。
「……やっぱり、放っておけない」
その声は、誰に向けたものでもなかった。
けれど、洞窟の奥でやわらかく反響した。
外では、鉄槌の音がまたひとつ響いた。
その音が洞窟の奥へと届き、二人の鼓動と重なった。
日が傾きはじめていた。
洞窟の入口付近では、最後の杭が打ち込まれている。
乾いた音が、岩肌の奥に響いて消えた。
レオが押さえ、カリームが打つ。
木と鉄と呼吸のすべてが、同じ拍で動いていた。
優司は膝をつき、固定具の角度を指でなぞる。
「……これで、簡易版だがひと晩は保つ」
汗が顎を伝い、地に落ちた。
その一滴までもが、“ここに生きる”という証だった。
……と挟むと、静寂の中に生の鼓動が入って熱が増す。
確認する声の奥に、わずかな疲労と確信が混じった。
それを聞いたカリームが、鉄槌を肩に担ぐ。
「十分だ。守るには、足りる」
マリアが息を整えながら、柵の外を見やる。
「見えなくても、いるわ」
その声は、観測ではなく、感覚だった。
クレールが手元の端末を閉じる。
「酸素濃度、変動なし。圧力も安定」
数字は静かだ。けれど、全員がその“静けさ”を疑っていた。
「向こうも……“見てる”のね」
クレールの言葉に、誰も答えない。
答えがないことが、すでに答えになっていた。
柵の向こうには森。
その奥に、淡く揺れる光苔の反射。
風が通るたび、木々の影が形を変える。
レオがその揺れを目で追う。
「……風、じゃねぇな」
その言葉の直後、マリアの視線が鋭く跳ねた。
外の空気が、一瞬止まった。
音も、鳥も、何もない。
代わりに、簡易版の壁に弾かれ岩肌に何かが当たった。
ガンッ、と乾いた音。
壁に当たって転がる。
それは、磨かれた小石だった。
手のひらほどの、丸く削れた“スリングの弾”。
カリームが反射的に前に出る。
レオがその横で姿勢を低くした。
「まだいるのか……!」
優司が素早く状況を掴み、低く言う。
「伏せろ。外からは、まだ角度が取れる」
その冷静さが、逆に場の緊張を研ぎ澄ませた。
誰も叫ばず、ただ“整備されるように”動いた。
声の調子は、異常でも緊急でもなかった。
ただ、整備士が不具合を確認するような“冷静な命令”だった。
全員が即座に動く。
クレールが照度を落とし、マリアが索敵に入る。
エルナが奥へ走り、ミナにヘルメットを被せ手を引いた。
「来て。──中に」
ミナは抵抗しない。
だが、その瞳は、洞窟の口を離さなかった。
優司が工具台からスリングの束を取り上げ、レオに投げる。
「持ってけ」
金具が空中で鈍く鳴る。
レオが片手で受け取り、腰に掛ける。
「任せろ」
短い返事。
もう誰も、疑問を口にしなかった。
外の森が、息を潜めた。
音も風も止み、見えない何かが“こちら”を量っている。
さっきの小石は、威嚇ではない。
──まだ、終わっていない。
クレールが低く言う。
「動きはない……でも、引いてはいない」
マリアが頷く。
「ええ。あの目は、まだこっちを見てる」
その言葉が、誰の胸にも重く沈んだ。
わずかに風が揺れ、柵の影が歪む。
優司はその動きを目で追い、ほんの一瞬だけ息を止めた。
──測るように。確かめるように。
次の瞬間、指先がパネルに触れた。
洞窟の口に並んだ感知灯が、静かに光を放った──
暗闇が裂け、森の影が浮かび上がる。
その中に、ひとつ──動く影。
「そこだ!」
レオがスリングを構え、腕を引く。
弾が空気を裂き、夜の向こうへ消えた。
続けざまにカリームの弾も飛ぶ。
石を弾くような音が返り、何かが倒れる気配。
音が消えたあとも、耳の奥で振動だけが残っていた。
静寂。
風が、ゆっくりと戻ってきた。
森は何事もなかったかのように、再び呼吸を始めた。
「……引いたか?」
カリームが低く言う。
誰も答えない。
優司は照明を切り、もう一度闇を戻した。
その手元だけがわずかに光を残す。
ミナが息を潜めて見ていた。
握られた石が、微かに脈を打っている。
それはまるで、外の森のどこかに残る鼓動と、同じ拍で響いていた。
その鼓動が、まだ止んでいない。
防ぐために、閉じたのではない。
生きるために、風を残した。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえるとうれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.054】
新規構造体《呼吸壁》、洞窟主開口部に設置完了。
酸素流と防御角の両立を確認。生体反応は安定域に推移。
ただし外部圏より未知の監視反応を検出。
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