表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
グラクラ(Glavity:Craft) ―壊れた世界でも、俺は作り続ける―  作者: はちねろ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

58/66

第54話 静圧の呼び声

空気は、何かを待っていた。

まだ名のない“衝動”のために。

 外の気配が、ふっと途切れた。

 風が止んだわけではない。ただ、空気の層のどこかが“抜けた”ようだった。

 耳の奥で、何かが遠ざかる。

 生き物の歩みでも、金属の響きでもない。

 それは──“意志の退き方”だった。


 レオが息を吐く。

 音にならない音。

 その肩越しに、わずかに揺れた。


 外にはまだ煙がある。

 湿った森の匂いと、土に落ちた石の粉。

 青がその輪郭を照らし、まるで見えない影の通り道を描いているようだった。


「……気配が、消えたな」

 カリームが低く言う。

 だが、言葉は確認ではなく、報告のようだった。

 それでも誰も返さない。

 ただ、呼吸だけが細く、一定の間を保っている。


 マリアが動いた。

 端末装置に手を伸ばし、酸素量の調整を確認し指先でなぞる。

 揺らぎはない。

 だが、“安定”という文字が、かえって不安を濃くした。


「引いたんじゃない」

 優司の声が、静かに空気を割った。

「確認しにきただけだ。……ここに、何が居て、何があるかを」


 言い切るでもなく、指示でもなく。

 その声は、整備中の回路点検のように淡々としていた。

 だが、その低さに、誰も異を唱えなかった。

 火の脈動と同じテンポで、全員の鼓動がそろっていく。


 レオが、岩壁の隙間を覗く。

 湿った風が、頬をかすめる。

 枝の影が揺れた。

 それだけで、心臓がわずかに鳴る。

 けれど、もう石は飛んでこなかった。


「待て……引いた、ように見せてるだけだ」

 カリームが呟いた。

「……気配が抜けてない。音が、何か奥で詰まってる」

 一拍、呼吸を吐く。

「本当に帰ったなら、空気の重さが変わるはずだ。……まだ、いる」


 マリアが眉を寄せ、装置の光を落とした。

「何か急いで対策をしないとね」

 それは命令でも提案でもなく、“防衛本能の音”として響いた。


 優司は頷かず、ただ視線を洞窟口に置く。

 明滅が、頬の線を一瞬だけ浮かび上がらせる。

 何かを計算している。

 そして、静かに言った。

「……なら、作るしかないな」


 外の森が、沈黙を返した。

 木々の葉がざらつき、遠くで水が跳ねる。

 その音は、まるで“試している”ようだった。


 誰もまだ見ぬ相手。

 だが、その視線だけは、確かにこちらを射抜いている。


 レオが立ち上がり、手のひらで壁を押した。

「よし、やるしかないな」

 その声は、合図でも命令でもなかった。

 ただ、止まらないための言葉だった。



 洞窟の奥に、呼吸が静かに揺れていた。

 外の気配は消えたはずなのに、空気の奥ではまだ、見えない圧が残っている。

 息をひとつ吸うたび、胸の奥が少し軋む。

 誰も、それを口にしなかった。


 優司は壁際に立ち、岩肌を指でなぞった。

 熱の残りと湿りの配分、空気の流れを確かめるように。

「この開口を全部塞ぐと、酸素が籠る。けど……開けたままじゃ、撃ち抜かれる」


 クレールが端末を開き、構造線を引き出す。

「換気を殺さずに遮断。……呼吸できる壁、ね」

 その声に応えるように、優司は一歩前へ出た。


「縦板を、斜めに立てる」

 岩肌をなぞる指先が、風の筋を描く。

「正面からは壁に見える。けど、角度をつければ──風も光も抜ける」


 洞窟の奥で、空気がわずかに動いた。

 光苔が微かに脈を返し、その青が指先に映る。

 クレールが目を細めた。

「通気を保ちながら防御。……理屈は通る」


 優司は頷き、指を空に向けて切った。

「空を閉じずに、守る構造だ。

 濃度が滞れば、こっちも死ぬ。

 けど“呼吸の道”さえ残せば、生きられる」


 マリアが息を整えた。

「“塞ぐ”んじゃなくて、“生かす”壁……」

 その呟きは、命の温度で空気に溶けた。


 カリームが材を持ち上げ、斜めに立ててみせる。

「こうか。前から見たら塞がってるが……横からなら、向こうが見える」

 木が擦れる音が、壁と空気の間を震わせた。


「そう。それでいい」

 優司の声は低いが、明確な熱を帯びていた。

「風は通す。湿りは抜ける。……敵からは、見えない」


 カリームが手で材を押し、体でその強度を測る。

「斜めに張ることで、力が流れる。

 押されても、板ごとに逃げ道ができる。

 ……理にかなってる」


「つまり、隙間が守るってことね」

 クレールの指先が端末を走る。

「視界を遮って、呼吸だけ残す。……理想的だわ」


 マリアが壁の線を見上げ、短く言う。

「昔の木造建築と似てるわ。閉じるんじゃなく、風で支えるの」


 優司が応えるように息を吐く。

「風も、敵も、力の流れのひとつだ。

 止めるんじゃない。受け流して、生き延びる」


 カリームが材を打ち合わせ、乾いた音が洞窟に響く。

「……やってみる価値はあるな」

 その音が、皆の胸に火を落とした。


 壁はまだ立っていない。

 けれど、影だけが先にそこへ伸びていた。


 誰も言わなかった。

 ただ、全員の目が──同じ一点を見ていた。


 “これから作る”その未来が、

 もう、空気の中に息をしていた。


 優司は顎に手をやり、空を見上げるように岩を見た。

「支柱を二重に組む。圧を逃がす角度で立てれば、衝撃は分散できる。……呼吸は残る」

 指先が空を描き、見えない構造をなぞる。

 その軌跡を、クレールが端末に写し取った。

 光の線が走り、洞窟の壁に反射する。

 誰も言わないが──全員の呼吸が、その線と同じリズムで揺れていた。


「俺とカリームで材を運ぶ」

 レオの声が、火を思い出したように熱を帯びる。

 彼の手はすでに革手を締め、動く準備を終えている。


「森の手前なら、まだ安全圏だろ」

 マリアが即座に返した。

 その目は冷静だが、声音の奥にわずかな張りがある。

「“今は”ね。でも、油断すれば次の瞬間が最後になる」


 レオは小さく頷き、腰の道具を確かめた。

 その指先に、焦りも怯えもなかった。

 ただ──“動き出すしかない”という現実だけが、静かに息をしていた。


 短い会話の間にも、優司の目はずっと外に向いていた。

 敵ではなく、構造を見ている。

 どこまで壊され、どこまで耐えられるか。

 まるで未知の機械の耐久試験をしているかのように。


 クレールが皆の顔を順に見た。

「……動けるうちに、形を決める」

 その言葉が落ちた瞬間、空気の層がひとつずれた。

 呼吸の音が揃い、作業の気配が再び立ち上がる。


 エルナが端末を閉じた。

「作る。動く。──それしかない」

 彼女の声には、恐怖ではなく確信があった。

 言葉の奥で、金属が冷たく鳴った気がした。


 レオが頷く。

「いい。作業音で森がざわつくなら、上等だ」

 カリームの口元がわずかに上がる。

「見せつけてやる。……“こっちの生き方”を」


 優司は、作業台に両手をついた。

 掌に伝わる冷たさを確かめながら、静かに言う。

「酸素を殺すな。構造を殺すな。──生きるための設計だけを残せ」

 低く、硬い声。

 命令ではなかった。けれど、誰も逆らえなかった。

 それが、この拠点の“核”の音だった。


 マリアが最後に、息のように呟く。

「……防ぐために、呼吸する壁を」


 その言葉に、エルナが静かに頷いた。

「酸素濃度は今のままで維持できる。

 出入りを制限すれば……数値は安定する」

 冷静な声。だが、その裏に“生き残る覚悟”が宿っていた。


 レオが短く息を吐く。

「なら決まりだ。外は俺が行く」

 カリームが工具を掴み直す。

「打ち込む。構造が立つまで、止まらん」

 クレールが端末を抱え直し、静かに言う。

「換気ルートを計算する。……呼吸を絶やさない壁にする」


 優司は何も言わず、ただ全員を見渡した。

 その視線に、揺らぎが重なる。

 誰も命令を待たなかった。

 それぞれの動きが、同じ一点に集まっていく。


 マリアが小さく息を吸った。

「……生きるための設計、ね」

 その言葉が、場の中心で灯のように留まった。


 誰も言葉を足さなかった。

 けれど、空気の中に“決意の温度”が確かにあった。


 優司が立ち上がる。

 手元の工具が、かすかに鳴った。

「夜は俺が見る。……やるべき事がある」


 レオが眉を上げる。

「一人でか?」

「明日は素材集めがあるだろ。──何かあったら声をかける」


 カリームが短く息を吐く。

「悪いな。……任せる」

 レオも視線を落としながら、道具を片付けた。

「すまん。先に休む」


 優司は返事の代わりに、工具を軽く掲げた。

 次の瞬間、その姿は入口の影に溶ける。

 壁際の金具がかすかに鳴り、何かの作業音が静かに響く。


 レオとカリームは短く目を合わせた。

 言葉は要らない。

 体が覚えている配置のまま、入口側に寝床を作る。

 寝具のかたわらには、いつでも動けるように道具が並んでいた。


 夜は静かだった。

 けれど、その静けさの中に──“整備の音”だけが生きていた。

 金属が擦れ、遠くで風が応える。

 音はすぐ消えるが、余韻だけが残る。

 それは、呼吸のように洞窟をめぐっていた。



 朝日が昇る前の森の湿気が、隙間から入り込んでくる。

 酸素の流れがわずかに乱れ、耳の内側で脈の音が強くなった。

 外気と内気の境界が、曖昧に揺らいでいる。


 レオは呼吸を浅く整え、肩にかけたロープを引く。

 空気が濁るたび、視界が一瞬だけ白む。

 湿度の膜が頬をなぞり、呼吸の熱がマスクの内側で反射する。


「……視界、まだ平気か?」

「問題ない」カリームの声が、鈍い金属の響きを伴って届く。

「音の返りが遅い。湿気が増えてる。……地が、息してる」


 レオが額のあたりを押さえ、指先で装具の縁を確かめる。

「……これ、顔を覆いすぎて感覚が鈍るな」

 マリアが横目を向けた。

「外す気?」

「いや、ただ……空気の重さが、掴みにくい」

「死ぬ前にわかっても意味ないわ」

 レオは笑わず、小さく息を吐く。

「慣れてきた気がするだけだ。でも──このままじゃ、動きが鈍る」


 カリームが短く言う。

「戻ったら、優司に話せ。……今は、生きる方を優先だ」

 その声は金属を伝い、湿った空気の奥で響いた。

 装備越しに聞こえるその低音が、心拍と混じって脳裏を叩く。


 マリアが手を上げ、風の層を読む。

 指先に触れる空気の流れが、微かに鈍る。

「南西、二十メートル先。風が止まった」

 その声が反響して、すぐに溶けた。


 レオが顎を引き、曇りかけた視界を拭う。

「……境界か?」

「ええ。あの先だけ、空気が動いていない」


 彼らの動きが止まる。

 周囲の音が、呼吸の内側に沈む。

 機械の循環音だけが、沈黙を繋いでいた。


 マリアは膝をつき、苔の上に手を置く。

 指の下、湿り気の層が二重になっている。

 表面は濡れているのに、下は乾いていた。

「……ここの湿り、何か“使われた”形跡がある」

「罠の跡か?」

「もしくは……何かを固定してた」


 カリームが顎を引く。

「考えてる時間はない。木を取る」

 腕を伸ばし、太い根を掴む。

 金属手甲の中で関節が鳴り、軋みが手首に伝わる。

「節が浅い。割れ目は北側だ。──レオ、斧」


「了解」

 レオが腰から斧を引き抜く。

 一撃。

 鉄の響きが、濁った空気を裂いた。

 音の余波が、森の奥で跳ね返る。

 水滴が震え、葉がざわめいた。

 森が応え、遠くで何かが鳴いた。


 マリアの声がすぐ飛ぶ。

「動きあり。東。距離不明」

 カリームが一瞬だけ振り返る。

「追ってきてるか?」

「違う。……見てる」


 レオが斧を振り下ろす。

 衝撃が腕に伝わり、足裏から地面の呼吸が押し返す。

「切る。静かに速く」

「了解」

 二人の動きが合う。

 木が軋み、酸素の警告ランプがわずかに揺れた。


 マリアが通信の回線を切り替え、酸素の流れを一時的に抑える。

 内部の呼吸が深くこもり、声が湿気に溶けた。

「この空気……密度が上がってる。近いわ」

 カリームの息が重なる。

「気づかれたな。……急げ」


 木の裂ける音が、森の奥で反響した。

 倒れる寸前、レオが支えを引く。

 重い衝撃が地を這い、骨へ伝わる。

 その瞬間、遠くで枝の軋む音が返った。

 同じリズム、同じ呼吸。──誰かが“動いた”。


 マリアが短く息を整える。

「撤収する。戻りながら、台車を使う。ここで立ち止まるのは危険」

 カリームが木を担ぎ、レオが滑車を引き出す。

 縄の軋みが、森の奥まで響いた。

 装甲の擦れる音が、汗の代わりに空気を震わせる。


「……あいつら、気づいたな」

 レオが短く呟く。

 カリームは答えず、ただ重い木を押し出した。

 その背を追いながら、マリアは空気の流れを測る。

 風は動かない。


 けれど確かに──“何かが呼吸している”。



 木材が洞窟に運び込まれたとき、空気がわずかに変わった。

 湿った森の匂いと、切り口から立ちのぼる熱気。

 それは、外の気配を引きずり込むような重たさだった。

 けれど、誰も手を止めなかった。


 優司が支柱の角度を測る。

 レオが木片を押さえ、カリームが鉄槌を構える。

 ひと振りごとに、木の芯が鳴る。

 その音が、呼吸の拍と重なっていく。

 リズムは一定ではない。だが、それが“生きている音”だった。


「支点をここ。圧が逃げる方向は左」

 優司の声が短く飛ぶ。

 マリアがすぐに受け取る。

「了解。結束は二重。上部だけ、湿度を逃がす」

 手元の動きが、もう会話になっていた。


 クレールは端末で酸素流の変化を計測しながら、柱の間隔を示す。

「この距離なら、呼吸は保てる。閉じても、生きられるわ」

 マリアが頷き、ロープを引き締める。

 繊維が軋む音が、鉄よりも鋭く響いた。


 木槌の音、金属の擦れ、息の混じる音。

 それらが重なり、ひとつの呼吸のように洞窟を満たす。

 誰も言葉を選ばない。

 言葉より早く、体が動いていた。


 カリームが柱を押さえる。

 その腕に流れる筋肉の線が、汗で濡れ、反射する。

 打撃のたび、手のひらの皮膚が鳴った。

「もう少し右、カリーム!」

 レオの声に、短く頷いて力を込める。

 斧を振るうよりも重い作業だった。

 だが、誰も疲れを見せなかった。


 “作ること”が、そのまま“戦うこと”になっていた。

 この音が止まるとき、それは死だと全員が知っていた。

 だから、止めなかった。


 優司が最後の部材を押し込む。

 その指先に、かすかな震えが残る。

「……よし」

 短い声が落ちる。

 それを合図に、全員が息を吐いた。


 完成した柵は、陽を反射して淡く光っていた。

 木と鉄と汗の色が混ざり、ひとつの構造になっている。

 生きるために組まれた壁──

 呼吸する防壁だった。


 マリアがそっと手のひらを触れる。

 木の鼓動が、かすかに伝わる。

「……生きてる」

 その言葉に、誰も笑わなかった。

 だが、全員が同じことを感じていた。


 この壁は、戦いの象徴ではない。

 “生きようとした音”が、形になっただけだった。



 洞窟の奥は、外よりも静かだった。

 けれどその静けさは、休息ではない。

 耳の奥で、まだ鉄槌の余韻が響いていた。

 壁の内側を伝い、床を細かく震わせている。

 それはまるで、ここにいる者たちへ──

「まだ、生きている」と伝えるための鼓動のようだった。


 ミナは岩に背を預け、膝を抱えていた。

 顔は上げない。

 息を潜めるたび、喉がかすかに震える。

 その震えが、体温を少しずつ削っていく。

 外で鳴る音の一つひとつに、肩がわずかに跳ねた。


 エルナは隣に座り、黙って彼女の手を包んでいた。

 その細い指を、両手で包み込むように。

 脈を取るわけでもなく、ただ“確かめる”ための触れ方だった。

「……冷えてる」

 呟きは独り言のように落ちた。

 湯気を吸い込んだような、やわらかい声だった。


 ミナの掌から、湿りが移る。

 熱はある。

 けれど、その下の感触は冷たかった。

 記憶の温度が、体の奥を支配している。

 それは怪我でも、病でもない。

 もっと深い層に残る、“拒絶の記憶”だった。


「外には、行かないのね」

 エルナの声は穏やかだった。

 問いでも、誘いでもない。

 ただ、いまの現実をなぞるだけの声音。


 ミナはゆっくりと首を振る。

 髪が頬をかすめ、風が撫でた。

 その一瞬の揺らぎだけが、彼女の存在を照らした。


 エルナは手を離さずに、洞窟の口へ目をやった。

 外の音が、少しずつ遠のいている。

 木を打つ音、声の交わり、呼吸の熱──

 それらは、薄い膜の向こうで鳴っていた。


「……体が、覚えてるのね」

 その声は静かだった。

 けれど、静けさの奥に“痛みのような優しさ”が滲んでいた。


「……あなたは悪くないわ」

 エルナの声は、驚くほど静かだった。

「世界が怖いのは、ちゃんと見えている証拠。

 何も見ずに笑える人の方が、きっと弱いの」


 指先でミナの掌を撫でる。

 その手の中の小さな石が、わずかに温もりを帯びた。

「あなたは逃げてない。

 まだここで息をしてる。

 それだけで、十分に強いのよ」


 エルナは言葉を止めた。

 けれど、息を整える音がひとつ、沈黙の中に響いた。

「……私ね、怖いものを見すぎたせいで、何も感じないって思ってた。

 でも今、違うってわかったわ」


 視線を落とし、ミナの頬にかかる髪を指で払う。

「あなたの手が、こんなに冷たいのに──私の指が震えてる」

 声がわずかに掠れる。

「……だから、あなたが生きてるって、ちゃんと伝わる」


 一瞬、呼吸が詰まった。

 理屈ではない。

 目の前の命が確かに在るというだけで、胸の奥の何かがほどけていく。

 それを止める術を、彼女は持たなかった。


「ねえ」

 エルナは小さく息を吐き、笑うように呟いた。

「生きるのは、簡単じゃない。

 でも、それでも生きなきゃダメなの」


 その声は、命令でも慰めでもなかった。

 祈りに似た確信の響き。

 理性の奥に隠していた熱が、ふとこぼれた瞬間だった。


「……そのうちでいい。外を見ようと思えたら、私が一緒に行く」

 言葉の端に、かすかな震えが混じった。

「あなたの足が止まるなら、私が引っ張る。

 あなたが泣くなら、代わりに怒る。

 ……それでいいのよ」


 言葉が終わっても、彼女の胸は波打っていた。

 その鼓動が、ミナの手を通して伝わる。

 声よりも確かに、彼女の“生きたい”がそこにあった。


 ミナの指が、静かに握り返す。

 その一瞬、エルナの頬に光が宿った。


 彼女は息を吸い、わずかに目を伏せる。

「……やっぱり、放っておけない」

 その声は、誰に向けたものでもなかった。

 けれど、洞窟の奥でやわらかく反響した。


 外では、鉄槌の音がまたひとつ響いた。

 その音が洞窟の奥へと届き、二人の鼓動と重なった。



 日が傾きはじめていた。

 洞窟の入口付近では、最後の杭が打ち込まれている。

 乾いた音が、岩肌の奥に響いて消えた。

 レオが押さえ、カリームが打つ。

 木と鉄と呼吸のすべてが、同じ拍で動いていた。


 優司は膝をつき、固定具の角度を指でなぞる。

「……これで、簡易版だがひと晩は保つ」


 汗が顎を伝い、地に落ちた。

 その一滴までもが、“ここに生きる”という証だった。

 ……と挟むと、静寂の中に生の鼓動が入って熱が増す。


 確認する声の奥に、わずかな疲労と確信が混じった。

 それを聞いたカリームが、鉄槌を肩に担ぐ。

「十分だ。守るには、足りる」

 マリアが息を整えながら、柵の外を見やる。

「見えなくても、いるわ」

 その声は、観測ではなく、感覚だった。


 クレールが手元の端末を閉じる。

「酸素濃度、変動なし。圧力も安定」

 数字は静かだ。けれど、全員がその“静けさ”を疑っていた。

「向こうも……“見てる”のね」

 クレールの言葉に、誰も答えない。

 答えがないことが、すでに答えになっていた。


 柵の向こうには森。

 その奥に、淡く揺れる光苔の反射。

 風が通るたび、木々の影が形を変える。

 レオがその揺れを目で追う。

「……風、じゃねぇな」

 その言葉の直後、マリアの視線が鋭く跳ねた。


 外の空気が、一瞬止まった。

 音も、鳥も、何もない。

 代わりに、簡易版の壁に弾かれ岩肌に何かが当たった。

 ガンッ、と乾いた音。

 壁に当たって転がる。

 それは、磨かれた小石だった。

 手のひらほどの、丸く削れた“スリングの弾”。


 カリームが反射的に前に出る。

 レオがその横で姿勢を低くした。

「まだいるのか……!」

 優司が素早く状況を掴み、低く言う。

「伏せろ。外からは、まだ角度が取れる」

 その冷静さが、逆に場の緊張を研ぎ澄ませた。

 誰も叫ばず、ただ“整備されるように”動いた。


 声の調子は、異常でも緊急でもなかった。

 ただ、整備士が不具合を確認するような“冷静な命令”だった。


 全員が即座に動く。

 クレールが照度を落とし、マリアが索敵に入る。

 エルナが奥へ走り、ミナにヘルメットを被せ手を引いた。

「来て。──中に」

 ミナは抵抗しない。

 だが、その瞳は、洞窟の口を離さなかった。


 優司が工具台からスリングの束を取り上げ、レオに投げる。

「持ってけ」

 金具が空中で鈍く鳴る。

 レオが片手で受け取り、腰に掛ける。

「任せろ」

 短い返事。

 もう誰も、疑問を口にしなかった。


 外の森が、息を潜めた。

 音も風も止み、見えない何かが“こちら”を量っている。

 さっきの小石は、威嚇ではない。

 ──まだ、終わっていない。


 クレールが低く言う。

「動きはない……でも、引いてはいない」

 マリアが頷く。

「ええ。あの目は、まだこっちを見てる」


 その言葉が、誰の胸にも重く沈んだ。

 わずかに風が揺れ、柵の影が歪む。

 優司はその動きを目で追い、ほんの一瞬だけ息を止めた。

 ──測るように。確かめるように。

 次の瞬間、指先がパネルに触れた。


 洞窟の口に並んだ感知灯が、静かに光を放った──


 暗闇が裂け、森の影が浮かび上がる。


 その中に、ひとつ──動く影。


「そこだ!」

 レオがスリングを構え、腕を引く。

 弾が空気を裂き、夜の向こうへ消えた。

 続けざまにカリームの弾も飛ぶ。


 石を弾くような音が返り、何かが倒れる気配。

 音が消えたあとも、耳の奥で振動だけが残っていた。

 静寂。

 風が、ゆっくりと戻ってきた。


 森は何事もなかったかのように、再び呼吸を始めた。


「……引いたか?」

 カリームが低く言う。

 誰も答えない。


 優司は照明を切り、もう一度闇を戻した。

 その手元だけがわずかに光を残す。


 ミナが息を潜めて見ていた。


 握られた石が、微かに脈を打っている。

 それはまるで、外の森のどこかに残る鼓動と、同じ拍で響いていた。


 その鼓動が、まだ止んでいない。

沈黙の奥で、呼吸が目を覚ます。


……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、

星をそっと置いてもらえるとうれしいです。


……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。


【整備ログ No.054】

外部圏・森域にて“構造罠”の存在を確認。

生体素材による編み込み構造、稼働周期は不明。

同時刻、被験体ミナの生体反応に異常な同期波を観測。

この“呼応”現象の記録を追う者は、“ブックマーク”への登録を推奨。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
ついに獣ではなさそうな存在との邂逅。
ついに現地の人(?)と出会いましたね! しかも初手で投石。敵対しています。レオたちは宇宙服を着ていますから、怪しいですよね……。 パニックになりかけるなか、的確に指示を飛ばす優司! 最後のあたりの…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ