第52話 手の奥の熱
静けさの奥で、息が重なった。
それが、“狩り”の始まりだった。
冷えた空気の中で、鎖が軋んだ。
踏み板を押すたび、木の繊維がわずかに鳴る。
そのまま、革鎧を手に取る。
昨日、マリアとエルナが縫い上げたばかりのものだ。
柔らかいが、芯がある。
腕を通すたび、まだ乾ききらない革の匂いが鼻を刺す。
背の紐を締めると、体の中心がひとつに集まる感覚があった。
カリームは黙って自分の鎧を締め、胸板を一度叩いた。
その音が、確かめるように洞窟へ響く。
「動けるか?」
レオが問う。
「動ける。重さも、悪くねぇ」
そう言って、カリームは肩を回した。
革が鳴る。
火でなめされた獣皮が、身体の動きに合わせてわずかに軋む。
レオは腕を回しながら、指で革の縫い目をなぞった。
「……思ったより、動くな。硬そうに見えて、芯だけ残ってる」
「乾かしすぎないで仕上げたの」マリアの声がよぎる。
優司が横で頷いた。
「火にかけすぎると脆くなる。いまが、ちょうどいい硬度だ」
レオは笑い、胸を軽く叩いた。
「なら──これで、喰らいつけるな」
レオは革鎧の下から、着慣れたスーツの袖をまくり上げる。
まだ“宇宙服”と呼ぶには軽すぎるが、最低限の酸素循環と密閉機能は維持していた。
「……酸素は、昨日より軽い気がする」
レオが首元に手をやる。
「でもな──まだ“深呼吸”する気には、なれねえな」
スーツの内部で、酸素循環のランプがかすかに点滅する。
呼吸が、浅く鳴った。
内側で、ランプがまた一つ点く。
息の重さは、昨日より薄い。けれど──喉の奥は、まだ焼けるようだった
レオはスーツの首元を引いて、中の酸素循環装置に視線を落とす。
「……結局、こいつがなきゃ死ぬ。だから“脱ぐ”んじゃなくて、“一緒に着る”しかねぇな」
「まあ……動けりゃそれでいいさ」
彼は肩を回し、革の軋む音に、ひとつ笑みを乗せた。
鎧の内側には、簡易化された宇宙服が通っていた。
密閉は最低限、酸素循環は不安定。
けれど、動けないよりはマシだった。
この惑星で戦うには──“脱ぎ捨てる”のではなく、“馴染ませる”必要がある。
レオは腰を上げ、ふと横を向いた。
その先に見えたのは、前回の狩りで仕掛けた“あの罠”の地点だった。
地面にはまだ泥の跡が残っている。一部が朝日に濡れ、うっすらと光を弾いていた。
「……もう少し、こっち側に寄せる。重心がずれてる」
指先で鉄の枠をなぞりながら、レオが呟く。
その横でカリームが鎖の節を持ち上げ、軋む音を確かめるように揺らした。
「……前より、重くなってねぇか?」
「強度上げたからな。跳ね上げたときの反動、殺せるはずだ」
「殺せりゃいいけどよ。前は“抜けた”ってより──“ぶち抜かれた”だったしな」
カリームの唇がわずかに吊り上がる。
「今度は逃がさない」
レオの声は静かだった。
けれど、その目には明らかな温度があった。
レオはしゃがみ込み、罠の支柱に指をかける。
その金具は、昨日カリームが削って立てたものだ。
跳ね上げ式──踏み板を踏めば、網が下から弾け、獲物の脚を絡め取る構造。
鎖がその反動を受け止め、暴れを封じる。
単純だが、実戦で通じるようになるまで何度も試作と改良を重ねてきた。
「……よし」
カリームが鉄槌を持ち直し、杭を打ち込む。
一撃ごとに地面の奥で鈍い音が返り、空気がわずかに震える。
その響きは、かつて“火”を起こした時と同じ、始まりの音だった。
その響きが──今日という日の始まりを、確かに刻んでいた。
「鎖、もう一度引くぞ」
「ああ」
レオが両手で鎖を握る。
重みが肩に沈む。鉄の節が骨を通して伝えてくる感触は、まるで“希望”だった。
「……これなら、跳ね上げても千切れねぇ」
レオが目を細めて言う。
その言葉に、カリームは返さなかった。
ただ、代わりにレオの肩を軽く拳で叩いた。
レオは何も言わずに、笑みだけで返す。
罠は完成していた。
金属と木と人の呼吸がかみ合い、森の中に静かな緊張が満ちていく。
ただ、エルナが鎧の端に触れ、肩口の継ぎ目を確かめるように指を滑らせた。
彼女の目は言葉よりも静かで、しかしその目が見ていたのは──“誰が傷つくか”という一点だけだった。
ミナの視線が、その指先に触れる。
声は交わさない。ただ、わずかにうなずく。
エルナもまた、静かに頷いた。
それだけで──十分だった。
その空気のなかで、レオはひとつ息を吐いた。
「……いい感じじゃねぇか」
──狩りの時間だ。
誰も言葉にしなかったが、全員がそれを知っていた。
罠は動く。鎧は動く。
あとは、自分たちの“手”が、どこまで通じるかだけだった。
森が、沈黙した。
空気が揺れる寸前の、重さ。
次の一拍のために、呼吸そのものが姿を潜める──そんな静寂だった。
カリームはしゃがまない。立ったまま踵で地を押し、土の“戻り”を確かめる。
五歩先、斜めに抉れた跡。鼻先で掘り返された新しい土が、まだ湿って光っていた。
そのとき、レオが視線だけで左の茂みを示す。
カリームが手を上げ、指で三つ、リズムを刻む。押す──ずらす──落とす。
それで、全員が動きの順を理解した。
ミナは息を半拍だけずらし、体の芯を細くする。
腰の布袋から、まだ縫い目の硬さが残るスリングを取り出す。
火の匂いが微かに染みついていた。昨夜、マリアたちが縫い上げた“新しい道具”だ。
指先で、石をひとつ──そっと袋に落とす。
袋の内側には、自分の手に合わせた重ね布が入っている。
握ったときの“ずれ”がなくなっていた。
……たしかに、誰かの手が通っている。そんな感触があった。
枯枝がひとつ、遠くで鳴った。合図ではない。ただの森の癖。
だが、その直後──風が返る。匂いが、厚くなった。
ミナの足裏が、沈みを拾う。重い。獣が、いる。
最初に動いたのは、エルナだった。
乾いた木の皮を、わざと地面に滑らせて音を立てる。
ミナはそれを見ない。ただ、耳だけで“誘導”の意味を受け取った。
茂みの鼻先が、そちらへ向く。
その一瞬を使い、カリームが半歩踏み出す。足を止めず、重心だけを前に置く。
レオは反対側の影へすでに回っている。
動線が捻れる。捻れは、重心を崩す。
ミナの手が、静かにスリングを振る。ひゅ、と空気が裂けた。
まだ放たない。狙いは“音”だけ。獣の耳に、それを撃ち込む。
反応は、あった。
鼻先が、わずかに上がる。視線が浮く。──そこ。
ミナは一撃、放った。
石は鼻梁をかすめ、地を跳ねた。狙いは完璧ではない。けれど──怯んだ。
次の瞬間、茂みが裂ける。
重く、速く、狼豚が現れる。毛並みが逆立ち、筋肉の塊が跳ね上がる。
エルナが引く。レオが前に出る。
ミナは、ただ一歩も動かない。
胸が揺れた。恐怖ではない。音に、狼豚の重みに、反射した“鼓動”だった。
布袋から、もうひとつ石を取り出す。今度は低く、長く──回す。
放つ。
石が、狼豚の目尻を打ち抜いた。
短い鳴き声。苦鳴とも違う、怒声にも似た叫び。
視界が濁る。足が狂う。
その刹那、カリームの声が乗った。
「──押し込め」
カリームの声が落ちる瞬間、レオが息を止め、ミナが腕を振り上げた。
その一拍の後──空気が弾けた。
鋭い。静かに研がれた刃のように。
その言葉だけで、皆の動きが一斉に一拍、前へ出た。
両側は根が露出した土の壁、足場は濡れてぬかるむ。正面に倒木。越えるか、潜るか、戻るか──狼豚は一瞬だけ迷う。だが、そこに至るまでの全ては、ただ“その一瞬”のためにあった。
狼豚が突っ込んだ。
空気が重みごと弾ける。跳ね上げ式の網が爆ぜ、鎖が唸る。全体が宙に持ち上がる錯覚。地面から空気が剥がれたような感覚だった。金属が地を噛み、張り詰めた重みが肩から背骨まで突き刺さる。
レオの額に、ぬるい汗が浮いた。
鎖の節が一つだけ鳴く。支えの木がしなる。──持ってくれ。
歯を食いしばり、息を押し殺す。そして肩の力を抜いた。腕だけでなく、腰も、脚も、全身を連動させる。狙いはただ一点、あの牙のすぐ下。練習じゃない。それでも──体が覚えていた“投げ方”が、ひとつだけあった。
だが、あの日──仲間を庇って反射的に撃ち返した、あの一投。
脳裏に焼きついた軌道が、今も手の中に残っていた。
その隙を、誰よりも冷静だったのはエルナだった。
横から飛び込むように、脚の外側へ石を叩きつける。狙い通り。だが、それで、十分だ。狼豚の足が半歩流れる。重心が傾く。鎖の張りがわずかに変わり、跳ね上げた網の角度が崩れた。獣が、空に浮く。
それで十分だった。
ミナは撃たない。構えたまま、動かない。
スリングの革を握った指が静かに震える。けれど視線だけは、ずっと──もう一体の気配を追っていた。
影が走る。茂みを裂いて、もう一頭が姿を見せる。連れか、偶然か、関係ない。止めなければ、殺される。
石が飛んだ。首、肩、肩──三度。
誰が放ったかは見ない。ただ、投石が視界と脚を止めた。ミナはまだ撃たない。狙いは“眉間”だ。
カリームが、獣の前へ踏み出す。全身で前線を張り、仲間を背後に入れる。レオはもう動いている。眼差しの先、獣の“逃げ道”を塗りつぶすように石を撃ち込んでいた。
それだけでは殺せない。誰もが知っている。
だから次だ。
カリームが倒木を越える。両手に構えた鉄槌が、獣の肩甲へ。刃ではない。ただ重さと速度だけを──だが、それでいい。衝撃がねじれる。狼豚の動きが鈍る。そこで、エルナの声が短く響いた。
「今──!」
ミナの手が、袋の中へ走る。
最後の石。皺だらけの布に指が絡む。肩が回る。視界が狭くなる。音が遠くなる。
怖くなんてない。けれど、震えていた。
これは恐れじゃない。──願いだった。
この一投が、誰かの傷を減らすなら。
この石は、“私の手”で放たれる意味がある。
放つ。
狙いは正確だった。だが、当たった瞬間──獣の全身が一瞬だけ、止まった。石は空気を切り裂き、一直線に眉間を打ち抜いた。
その衝撃で、獣の脚がわずかに沈み、全身の動きが凍りつく。
その“間”を、ふたりが逃さない。
レオとカリーム。躊躇なく踏み込み、鉄槌を振るう。
──鉄ではなく、拳の延長。
刃ではなく、命を止めるための“質量”。
銃でもない、人の手だけで振るえる“最後の一撃”。
地を蹴る。
脇を締める。
振り下ろした瞬間──腕の内側で、骨が軋んだ。
レオは首へ。鋭く、速く、“打撃”。衝撃が、手首を抜けて背骨に突き刺さる。音じゃない。振動だ。骨ごと震える“手応え”があった。まだ倒れない。引かない。振りかぶり直す。だが──獣の体が、よじれ向きが変わり、土が跳ね、湿ったものが頬をかすめた。
そこに──待っていたように、カリームの影が入る。
背よりも高く掲げた鉄槌が、上空から牙を掠めるよう眉間へ斜めに振り下ろされる。
刃ではない。銃でもない。
“人間の手”でしか振り下ろせない、ただの鉄の塊。
だが、その重さには、“ここで生きる”という選択が込められていた。
鳴き声は短く、かすれた。
衝撃は、外へ逃げず、内へ沈む。
骨と肉を突き抜け、重さのすべてが──狼豚の“芯”へと届いた。
重さという音が、地面に落ちた。
息が、戻る。風が、また通る。
レオは、鉄槌を振り直しの構えのまま、しばらく動かなかった。
拳に残った痺れと重みを、静かに確かめるように──ただ、そこで呼吸を整える。
カリームは、倒れた獣の上で視線を落とす。拳を見つめ、握りしめた手に残る柄の痕を指先でなぞった。
けれど──その“重さ”は、まだ掌の奥で、脈打っていた。
それは鉄の質量じゃない。
命を絶った、という実感でもない。
“守りきった”という──言葉にならない何かだった。
レオは泥を払う。けれど、それでも手の奥に残る熱だけは、最後まで消えなかった。
──痛みはない。
だが、その“重さ”だけは、確かに刻まれていた。
血は熱く、匂いは重かった。
冷えた風が通るたび、温度だけが逆らうように立ちのぼった。
ただの“生臭さ”ではない。脂の甘みが混ざり、湿った土と結びついて、肌の奥にまとわりつく。冬の底に、身を置いたような感覚だった。
獣の息が消えても──命の残り香だけが、地面に染みこんでいく。
エルナがしゃがみ込み、無言でナイフを走らせる。皮が剥がれ、腱が割れ、赤が白を縁取っていく。感情は一切ない。けれど、その手付きに迷いはなかった。必要なものと、不要なもの。その境界を、彼女は“生き延びるための知”として正確に切り取っていく。
レオとカリームが獣の腹を傾け、重量を計るように筋肉の沈みを探る。骨の太さ、関節の角度。重さはある。だが、持てない重さではない。
ミナは少し離れて座り、指についた血を見ていた。
乾きかけた赤が、光に淡く反射している。
それは、彼女の手の線をなぞるように、指の隙間に入りこんでいた。
怖くはなかった。痛みもない。
けれど、“重い”と思った。
手に残ったそれは、ただの血ではなかった。
誰かが傷つかずに済んだ証。
誰かが食べられるという確信。
それを、いま、自分の手が持っている。
──それが、胸の奥で、ひとつだけ熱くなった。
レオが肩で息をして、ふと笑った。
静かな笑いだった。けれど、はっきりと熱を持っていた。
「……これで、冬を越せるかもしれないな」
誰も返事はしなかった。
けれど、その言葉だけが、土に沈み、木の根を伝い、遠い拠点まで静かに届いていく気がした。
カリームが獣の脚を持ち上げ、節の張りを確かめる。
鎖は切れていない。金具も歪んでいない。
エルナが端末を立ち上げ、最低限の記録だけを取って閉じる。
けれど──彼女の目は、もっと先を見ていた。
いま冷えるなら、保存はここでやる。
陽はまだ昇っているが風は東から。乾きは悪くなる。
彼女は何も言わない。ただ手を止めず、ナイフの角度を変えた。
この手で、命を整える。それが自分の“居場所”だと知っていた。
帰還の前、ミナは自然と歩んでいた。
誰に促されたわけでもない。ただ、足がそう動いた。
風は弱く、匂いも薄い。だが──何かが“違う”。
最初に視界に入ったのは、切り株だった。
自然に裂けたものではない。刃物の跡でもないが、表面には、何かを繰り返し擦ったような均一な痕があった。
木肌は、誰かが撫でたように整えられていた。
その上に、小石が七つ。明るい色から暗い色へと、等間隔に並んでいる。
ただ、ひとつだけ──わざと“余らせた”ように見えた。
その配置の“揺れ”が、目の奥に残った。
ミナは、しゃがみ込んで見つめる。
それは獣の行動ではなかった。意図がある。──誰かの、手。
その少し先。
苔の下、木の皮の継ぎ目に、小さな繊維の束がねじ込まれていた。
ミナは指先でそっと引き抜き、鼻先に近づける。
植物ではない。けれど動力油でもない。種子を潰したような、わずかに温かい香り。
エルナが無言のまま、目だけでそれを見る。
レオが側により肩をすくめた。知らない匂いだった。
さらに奥。
倒木の陰に、平らな石。腰の高さに合わせたような位置に、座り痕のような擦れ。
石の端は、時間をかけて丸くなっていた。
焚き跡はない。灰もない。だが、そこには“暮らし”の形が残っていた。
火を使っていない。あるいは──痕跡を残さない生き方。
エルナがぽつりと口を開く。
「……誰かが、いた?」
断定ではない。けれど、否定でもない。
ミナは言葉を返さなかった。ただ、ゆっくりと顔を上げる。
風が──止まったように感じた。
音が遠ざかり、森の奥が、一瞬だけ“狭く”なる。
落ち葉の端に、足跡があった。
細く、長く、浅い。子どもにしては幅があり、大人にしては軽すぎる。
裸足ではない。足袋のような形。
地面の柔らかい部分だけを選び、最小限の接地で歩いたような軌跡。
ミナの喉が鳴った。
声ではない。ただ、水を飲まずに歩き続けた後のような、乾いた音だった。
獣の肉は、すでに滑車の上に括られている。
分けた骨と皮、血抜きした内臓。すべてを詰め、重心が崩れないように縛ってある。
レオが一度だけ滑車の具合を確かめ、カリームが後ろで押しながらうなずいた。
エルナも手を添える。いまは、力よりも“正しい配分”のほうが大事だった。
荷は重い。だが、誰も急がない。
滑車の重みを背に感じながら、歩幅を合わせていく。
急がないことが、いちばん速く、いちばん確実だと──皆が知っていた。
ミナの一歩が、わずかに遅れた。
ただ、視線が自然に上がり、そのまま、首が上がる。
木々の隙間から覗く、暮れかけの空。
雲は薄く、流れは遅い。鳥も、音もない。
けれど、その夕日が──どこかで見た“あの空”と重なった。
足が、止まった。
レオが小さく名を呼ぶ。けれど、返事はない。
エルナが横に寄り、肩に手を──伸ばしかけて、置かなかった。
代わりに一歩前へ出て、ミナの手首をそっと取る。
体温は低くない。だが、皮膚の内側が、汗で湿っているような感触だった。
「……急いで戻るぞ」
レオの声は短く、低い。だが、それ以上の説明はいらなかった。
誰も反対しない。けれど、全員の足は──もう、洞窟の方へ向いていた。
カリームが荷を引き、エルナがその脇に添える。
レオは時折振り返り、足音と空気の変化を見ていた。ミナの指が、布の上でわずかに動いたのを、……見ていた。けれど、声はかけなかった。
その“わずかな動き”が、言葉では壊れてしまいそうだったから。
ミナは、その荷の上にいた。
目は前を向いている。けれど、ときどき──視線が、夕日へ上がる。
指がわずかに震え、布の中で小石を探すように、手のひらが動いた。
エルナの手がそっとミナの手首を握る。強くはない。
けれど──もしこの手を離せば、何かが“戻らなくなる”気がした。
一度だけ、エルナが振り返る。
その視線の先には、切り株と、小石の列。
色の違う七つの石。それがただ、森に並んでいた。
──あれは、火の痕ではなかった。
けれど、“何かを残す”ための手の跡だった。
洞窟の口が見えた。
影が濃くなり、空の夕日が闇へと消えていく。
マリアが先に駆け寄り、優司が黙って荷の後部を支える。
その瞬間、ミナは一度も顔を上げなかった。
誰も、言葉をかけない。
けれど、彼女の両手だけが──布の中の“小石”を強く握りしめていた。
その夜。
ミナは、肉を食べなかった。
洞窟の端で静かに座り、ただ、胸の前で──ひと粒の石を包んでいた。
その小さな重さが、誰よりも静かに、
“なにか”に震えていた。
手に残ったのは、痛みではなく、熱だった。
それが、次の夜を照らしていた。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.052】
新型罠、作動。
対象個体“狼豚”を拘束し、初の捕獲成功を記録。
同時に観測対象“ミナ”の投擲行動に新たな精度を確認。
帰還途中、拠点外に未知の痕跡を発見。
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