第51話 鉄の夜明け
音が、生まれるたびに、誰かの決意が宿っていった。
朝日がまだ低く、森は浅く息をしていた。
木々のあいだを縫ってのびる縄を、レオは膝をついてなぞる。
その先で、わずかに──土が、動いた。
くくり罠の輪の中。
跳ねるように身を震わせる、小さな影がひとつ。
耳が長く、体は丸く、脚だけが異様に強い。
毛並みはまだ幼く、だが目だけは、森の光を吸ったように鋭かった。
「……いたな」
カリームがそっと息を抜く。
その声は低く、朝の冷えよりも深く沈んでいた。
引き締まった縄の根元に、かすかに滲む血と毛。
露を含んだ土に、温い血の匂いが混ざった。
ふたりは声を出さず、視線だけで合図する。
それぞれが、無言のまま手を動かし、輪を外す。
逃がさぬように。傷を深くしないように。
洞窟へ戻ると、空気が変わった。
音がひとつだけ弱まり、誰かの息を呑む気配。
歩みを止めた瞬間、誰もがわずかに顔を上げる。
レオの腕に抱かれたものへ、自然と視線が集まっていく。
ミナがそっと前へ出る。
数歩だけ。何も言わず。
ただ、小さく、頬がゆるむ。
誰も言葉を足さない。
けれどその仕草だけで、“はじめての成果”が全員に伝わった。
鶏兎──けいうさ。
この惑星で初めて、自分たちの手で捕まえた“命”。
罠にかかった小さな鼓動が、いま、拠点に運ばれてきた。
マリアが近づき、体重と骨格をざっと測る。
優司が皮をめくり、内臓の状態を確認した。
クレールが背面の筋肉の膨らみに目を留める。
エルナは一歩引き、端末に生命反応を記録。
端末の数値に異常はない。だが、彼女の指先が一瞬だけ、止まっていた。
静かな作業。だがその呼吸の奥に、“熱”がある。
この小さな命は、ただの食料じゃない。
“できる”という実感と、“やれた”という証明。
小さな成功。だが、それは“次の課題”の始まりでもあった。
冬が来れば、獲物の動きは鈍る。だがそれ以上に、人間の足が止まる。
この惑星で生き残るには、もっと大きな命を仕留めねばならない。
カリームが手を止める。
鉄槌を置き、低く──けれど、確かに言った。
「……次は、雪辱戦だな」
あの速さに、罠も腕も追いつかなかった。だから次は、逃がさない。
誰も笑わなかった。
けれど、その言葉に誰より先に、レオが頷いた。
ミナは一歩近づいたまま、胸元の小石をきゅっと握る。
声は出さない。けれどその指先には、確かに“関わろうとする意志”がにじんでいた。
森の奥に残した、あの黒い背中。
レオは目だけで返した。けれど視線は、もう森の奥──あの黒い背中を射抜いていた。
次の獲物は、そいつだった。
影が、床に沈んでいた。
照明の光と光苔の脈が交わり、壁にゆらりと揺れる。
それは、火ではない。だが、光の底にあるものが、全員の目に焼きついていた。
中央に置かれていたのは──小さな命の、痕跡だった。
骨と皮と、淡く乾いた血の筋。
くくり罠にかかった鶏兎の、細くも確かな“結果”だった。
言葉は、なかった。
誰もが、黙ってそれを見ていた。
カリームが骨をひとつ取り上げ、関節を軽く折る。
指先に伝わる引きの重さが、彼の眉をわずかに寄せさせた。
声より先に、骨が語る。
弾力。粘り。指の節にかすかに響いた力の“芯”。
それは、体で覚えた者にしかわからない“重さの予感”だった。
「……この小ささでも、引きは強い」
ぽつりと漏れたその言葉には、感心でも感慨でもない、“計算”があった。
骨を置き、顔を上げながら、自分の肩と腕で“思い出す”。あの時の、突き上げるような衝撃。
足場を滑らせ、体ごと持っていかれるほどの質量。
カリームは、それを“ただの生き物”とは呼ばなかった。
「──あの巨体を止めるなら、鎖が要る」
空気が、少しだけ動いた。
優司が工具を拭きながら応じる。
指は止めず、声にも迷いはない。
「鉄はある。炉も、持つ。鍛てる」
すでに何通りかの設計は、頭の中で組まれていた。
だが口にしたのは、計画ではなく“可能”という一点だけ。
無駄な言葉は要らない。今、必要なのは──動ける根拠だ。
クレールが膝に端末を持ち上げ、数値をひと撫で確認する。
だが彼女が見ているのは、画面の先──“未来のどこに死があるか”という問いだった。
数字は足りている。
けれど、それは“生き残る”という保証ではない。
突進の角度。質量。反応速度──シミュレーションでは測れない現実が、すでに目の前にある。
クレールの沈黙は、決して思考の停止ではなかった。
……その先を見据える者だけが持つ、“先手の覚悟”だった。
「突進を受けたら──骨なんて、残らないわ」
その声音は冷静だった。けれど、逃げ場はない。
沈黙がその場に落ちる。
それを割ったのは、エルナの声だった。
「守るものが、要る」
短く、強く。だが、その語尾にだけ、微かな熱が残っていた。
「……皮なら、使える」
命の線が、あのときすぐ近くで切れていた──それを誰より知っているのは、彼女だった。
医療者としてではない。
……“間に合わなかった”ことを、自分の中に刻んだ者として。
誰かの視線が、ゆっくりとミナへと流れる。
彼女はまだ、ひとことも話していない。
だが──その指先が、そっと皮の端に触れていた。
無意識に。けれど確かに。
自分の手で何かを“確かめる”ように。
何ができるのか、ではない。自分が“関われるのか”を探るように。
自分の指が、自分の意志よりも先に動いた気がした。
けれど、それでもいい。
なにかを失った日々の中で、いまだけは──“関われる今”を、逃したくなかった
その手元を、レオが静かに見ていた。
目だけが揺れていた。
やがて、ぽつりと言う。
「……なめして、鎧にしよう」
誰とも目を合わさず。けれど、それは誰にも届くような声だった。
「薄くても……重ねれば、耐える」
いつも軽口を叩く自分が、そうしなかった。
“守れるかもしれない”という言葉は──、そのまま“守れなかったことがある”という意味になる。
だからこそ、言葉の重さを落としたままにしておく。
その一言が、重さを持って場に落ちた。
誰も反対はしなかった。だが、すぐに次の言葉も出なかった。
“それでいいのか”という問いが、沈黙の中で全員を巡っていった。
優司が、無言で工具を揃えていた手を止める。
握ったままのレンチが、わずかにきしんだ。
「……仕留める攻撃と、牽制の手段。両方いる」
言葉は短い。だが、そこには、前回“止められなかった”現実がにじんでいた。
「突っ込まれたら終わりだ。距離を取って削るしかない」
工具を見つめたまま、口元だけで言い足す。
優司が工具の並びを整えながら、短く言った。
「……仕留める前に、散らす武器がいるな」
手元を止めずに続ける。
「複雑なのはいらない。布と石だけでいい。
紐で回して、遠心で飛ばす──当たれば効く。……簡単だが、威力は出る」
レオが、その言葉に重ねるように呟いた。
「──スリングか」
視線を落としたまま、指で空をくるりと描く。
「振って、飛ばす。ただそれだけ。
でも、当てるには……練習いるな」
クレールが、手元の端末を静かに閉じた。
「……あのとき、ミナが放った石で怯んだって、言ってたわね」
情報の断片を繋ぐように、落ち着いた声で続ける。
「狙いをずらせれば、脚が空く。
目が割れれば──殺されずに済む。……十分、現実的だわ」
レオは一度だけ頷き、
拳をゆっくり握る。
「……外さねぇ。俺たちの手で──今度は、確実に仕留めてやる」
レオが、その流れを受け取って頷いた。
そして──あの動きの速さと重さを、もう一度思い出すように言葉を続けた。
「……鎖で引き止めて、スリングで目を引く。
脚を奪って、動きを散らして──あいつを落とす」
静かだった。誰も意見を返さない。
けれど、心の奥で誰もが知っていた。
……この作戦は、誰かが“真正面から囮になる”という意味だ。
それでも、誰ひとりとして──その覚悟から目を逸らさない。
そのとき、誰かが拳を握る音が、かすかに鳴った。
誰も笑わなかった。けれど、わかっていた。
いま、ここに火が灯ったのだと。
カリームが腕を組み、長く息を吐いた。
それは、戦いを受け入れる者の呼吸だった。
「……言うのは簡単だな」
レオはすぐに返す。けれど、言葉に冗談はなかった。
「言うのが、俺の役目だろ」
一瞬だけ、誰かが息を抜いた。
その場の空気が、少しだけ──動き出す。
マリアが結論のように口を開いた。
「決まったわね。鎖を鍛ち、革を縫い、スリングを編む」
クレールが目を伏せたまま、静かに言葉を足した。
「資材も、材料もある。冬までに間に合わせるわよ。……全員で、急いでやるわよ」
誰も返事はしない。
けれど、反対もなかった。
言葉ではなく、“動き出すこと”がすべてだった。
手が伸び工具が持ち上がる。
図面が点滅し、素材の名前が端末に浮かび上がった。
誰かが椅子を引いた。誰かがベルトを締め直す。
小さな音が次々に連なり、作業場全体がまるで呼吸を始めたように動き出す。
緊張ではない。決意だった。
この場にいる全員が、“作る”ことを武器にする。
あの獣を獲るために。誰も、死なせないために。
誰も言わない。
だが──もう全員が“作る”という一点で、深く、繋がっていた。
──その始まりこそが、“全員で決めた”ことの証だ。
金属音が交錯した。
鉄の匂いが、喉の奥にまで染み込む。
端末の光と酸素の匂いの中、全員の声が交わるたび、空気が熱を帯びていく。
優司が図面を叩いた。
「鎖の節は三連。これで負荷は逃げる」
すぐにカリームが反発する。
「鈍る。重すぎる。動けなくなるぞ」
「軽けりゃ切れる」
「重けりゃ──潰れる!」
工具を握る手に、ぐっと力がこもる。
優司の目がわずかに光った。
「机上の強度と、現場の質量は別物だって、もう知ってるはずだろ」
「だから現場が言ってんだよ」カリームの声が低く唸る。
カリームの拳が無意識に机を叩いた。
鉄板が震え、図面の端がかすかに浮く。
優司はその音を無視して、端末を走らせた。
紙の上と現場の温度差──そのわずかな狂いが、金属のように軋んだ。
「お前の数字で命張るのは──俺たちなんだ」
ふたりの声がぶつかり合う。
理屈と体感。設計と現場。
それでも、どちらも正しかった。
……工具の軋む音だけが、間を埋めた。
誰も引かない。誰も、折れない。
マリアが一歩踏み出す。
「間を取る。二連にして、中央にねじりを入れる。伸びを殺して、粘りを残す」
優司が目だけで答える。
「……溶接温度を下げよう。酸化も抑えられる」
「つまり、切れにくいってことか」カリームの口元に、ようやくわずかな笑みが滲む。
その小さな変化に、マリアも頷いた。
言葉のかわりに、互いの温度が伝わる。
クレールが端末を立ち上げる。
「鎧の分、重量は増すわ。動ける範囲で設計して」
レオが腕を組み、すぐに反論する。
「動けなきゃ死ぬ。殺される前に動けなくなる」
「動けても、守れなきゃ意味がない」クレールは一歩も退かない。
「死なせねえために動くんだよ」
レオの言葉に、クレールの眉がぴくりと動く。
「……私もそれは、同じよ」
一拍ののち、ふたりの視線が交わる。
静かだったが──火花のような一瞬だった。
一拍ののち、ふたりの視線が交わる。
その瞬間、酸素濃度が下がったように空気が重くなる。
誰も息をしなかった。
ただ、ふたりの間に見えない熱が走り、
周囲の時間までもが、一瞬止まる。
静かだったが──火花のような一瞬だった。
互いの眼に映っていたのは、同じもの──生かすための計算。
その間にマリアが割り込む。
「肩と胸は重ね張り。関節部は層をずらす。動きは残す」
レオがふっと息を吐く。
「それなら、俺でも着られるな」
微かに笑いが零れ、空気が少しだけ柔らいだ。
だが、すぐにレオが顔を上げた。
「防ぐだけじゃ足りねぇ。攻撃手段を出そう。スリングを使う」
優司が反射的に返す。
「皮紐じゃ持たねぇ」
「繊維を撚る。腱を混ぜる。ブレは──」
「出る」クレールが即座に切る。
「そのブレ、利用する」レオの声が重なる。
「軌道を散らせば目を狙える。ミナがやったとき、怯んだだろ」
「狙いなんて、最初から完璧じゃねえ。……でもな」
レオが拳を握り直す。
「怯ませりゃ、足は止まる。そしたら──あとは、こっちの番だ」
その名が出た瞬間、場が少しだけ静まった。
クレールが端末を閉じ、ゆっくりと頷く。
「……確かに。記録でも確認済み。偶然じゃない」
沈黙を破ったのは、レオの拳だった。
「なら、狙える。俺たちの手で──確実に仕留める」
熱が一気に上がった。
呼吸が重なるたび、部屋の温度が上がっていく。
理屈でも感情でもない、“信念の温度”だ。
そのとき、小さな影が前に出る。ミナだった。
誰も声をかけないまま見守る中、彼女はそっと、自分の腰布を裂く。
短い紐を結び、掌に石を包み、ひゅ、と空に振る。
風を切る音がした。
石が壁をかすめ、金属の皿を鳴らす。
全員が思わず振り向く。
レオが片眉を上げ、口の端を上げた。
「ほら見ろ。うちのお嬢様も参戦だ」
声には出していない。けれど、布を握るその手がそう語っていた。
“私も、ここにいる”。
“あの日みたいには、させない”。
マリアが笑う。
「なら、こっちも本気を出すしかないわね」
エルナが小さく頷く。
「……全員で、ね」
誰かが笑い、誰かが頷き、誰かが工具を取った。
クレールは椅子を蹴るように立ち上がり、エルナは端末を抱えて動き出す。
マリアの指先が、試作図の“要”を塗り直す。
そのどれもが、黙ったままの“宣言”だった。
ぶつかり合い、反発し、譲り合い、そして重なっていく。
その熱の中に、確かに“家族”の形があった。
優司が最後に言葉を落とす。
「鎖を打つ。革を縫う。石を飛ばす。──全部、俺たちの手でやる」
その声が、鉄よりも重く響く。
誰も返さない。けれど、全員の心が動いた。
──その夜、作業場は呼吸を始める。
誰もが、立ち上がる音を立てなかった。
ただ工具が、ひとつ、またひとつ、動き始める。
それでも全員が、自分の場所で“生きるための技術”を打ちはじめた。
打撃音が、やがて呼吸と混ざり合う。
鉄の鼓動と人の鼓動が、ゆっくりと重なっていく。
作業場は──ひとつの生命になった。
──鉄の会話が終わり、今度は“手”が動く番だった。
幾夜を超えた先──副熱溝に、淡い朝が差し込んでいた。
それでも、炉はまだ唸り続けている。
誰も、手を止めず、火格子の底で脈打つ熱が、空気の粒を震わせ、鉄の匂いが喉の奥まで染み込む。
カリームが鉄片を取り上げる。
火をまとったそれは、まだ青白い光を帯びていた。
「……もう一打」
優司の声に、間髪入れず、鉄槌が振り下ろされる。
火花が横に走り、金属の甲高い音が作業場の天井に跳ね返った。
硬すぎれば割れる。柔らかすぎれば曲がる。
いま必要なのは、敵の質量を受け止める、ぎりぎりの“粘り”だ。
「温度、まだいける」
カリームが左手で温度を示す。優司は頷き、再び火口の制御弁を調整する。
炉の鼓動に、ふたりの動きが同期していく。
言葉がいらなくなるほど、打撃の間合いと、鉄の呼吸が重なっていた。
その裏手。もうひとつの音が重ねられていた。
マリアとエルナが、革を縫っている。
くくり罠にかかった鶏兎──その皮は薄く、けれど弾力を残していた。
針が布に入り、革を貫くたび、光苔の粒が反射してきらめく。
糸が通るたびに、革の表面がわずかに波打ち、光が静かに躍る。
「……糸、足りる?」
小声で問うエルナの手に、小さな擦過傷。だが、止まる様子はなかった。
「うん」
マリアの返事は短い。だが、その一音に迷いはなかった。
エルナは息を吸い直し、動作のリズムを取り戻す。
ひと針ずつ。守るための鎧が、確かに形になっていく。
革は小さい。だから重ねる。層をずらし、動きの余地を残す。
それを理解した手が、いまここに二つあった。
火の奥から、打撃音。
縫い針の間から、細やかな摩擦音。
どちらも違う命の道具──だが、いまはひとつの拍動だった。
その音が、洞窟全体に染み渡っていく。
鉄を打つ音。針を刺す音。酸素が脈打つ呼吸の音。
誰もがその中心で、“生きるための技術”を、今まさに形にしていた。
それは、何かを壊す音ではない。
“殺すための道具”を作っているのに、不思議と──それは“生きる音”だった。
鼓動のように重なる作業音。
全体が、ひとつの心臓のように震えていた。
火格子の脈動はなお衰えず、空気は熱の名残を含んでいる。
その手前。
冷えた鎖が、静かに呼吸をしていた。
鍛えあげられた金属の表面に、かすかな霜が浮き、淡く白く滲んでいく。
カリームが、それを静かに引き寄せる。
あとは締めるだけ。だが──それでも、手を抜かない。
鉄槌でひと節ずつ、確かめるように打ち込む。
音は硬く短い。だが、その芯に、手応えはあった。
カン、と刃金を打つ音が洞窟に響いた瞬間。
それはただの金属の反響ではなかった。
“命を繋ぐ鎖”が、初めて“自分の音”を発した、その刹那だった。
カリームが手を止める。
革手袋を外し、金具の先端をくるりと回す。
わずかな汗を腕で拭い、握っていた鎖をもう一度、真っ直ぐに見る。
「……これなら、切れねぇ」
その声に、作業台の向こうでレオが笑みを返す。
火の揺らぎが、彼の横顔を照らす。
「じゃあ次は、俺たちの番だな」
その言葉に応じるように、別の場所でまた音が動いた。
革の鎧が吊るし上げられ、静かに揺れている。
マリアが左手で裾を押さえ、右手の指先で、縫い目の一針ずつをなぞっていく。
硬すぎず、軟らかすぎず──守るために必要な“しなり”が、そこに確かにあった。
エルナは隣で無言のまま、継ぎ目を丁寧に検分していく。
彼女の手の甲には、薄い裂傷が幾筋か刻まれていた。
けれど、その動きは止まらない。
一針ごとに、体温を通すように──“命のための防壁”を確かめている。
「……十分だ」
優司の声が、やや離れた場所から響く。
誰かに見せるわけでも、褒めるでもない。
ただその目で、“機能する”と判断した。
図面も数値も要らない。ものを見れば、それでいい。
そして──最後に、音を立てたのは、彼女だった。
ミナが、道具箱の端に置かれていた小さなスリングを手に取る。
掌に石をひとつ乗せ、布の中心でそっと包み込む。
かすかに震える指。だが、それは恐れではなかった。
息を吸う。肩をひねる。
──振る。
ひゅ、と空気を裂いた音だけが、洞窟に残った。
石は放たれなかった。ただ、その“軌道”だけが、明確に刻まれた。
火の光がゆらりと揺れ、数人の視線が自然とミナに集まった。
誰も言葉は出さない。ただ、その手元に宿った“温度”を見ていた。
……音が、消えた。
けれど、その静寂の奥には、確かに──“明日”の気配が、芽吹いていた。
炉の熱が、ようやく静まりつつあった。
金属の匂いはまだ空気に漂い、壁にこびりついた熱が、音もなく染み出している。
鉄の床に置かれた鎖からは、白くかすかな冷気が立ちのぼっていた。
焼きと打ちを重ねた鉄の節が、ようやく冷たさを取り戻していく。
カリームがしゃがみ込み、その鎖をひと節ずつ指で撫でていく。
その眼差しは、手で作った“技術”ではなく、
“明日を繋ぐ強度”を確かめる者のそれだった。
優司が、図面を見直し端末を閉じながら低く言った。
「……明日、行く」
返事はなかった。だが、それだけで十分だった。
マリアが小さく頷き、近くの作業机から端末を受け取る。
エルナがその端末を開き、身体データのグラフを指先でなぞる。
緩やかな上昇曲線を見て、ぽつりと口を開いた。
「……全員、体温上昇中」
クレールがそれに目をやり、そっと片眉を上げる。
そして、かすかに笑った。
「当然よ」
ミナは、手元の布に包んだスリングをそっと胸に抱く。
布からわずかに立つ革の匂いを、彼女は小さく鼻で吸い込んだ。
それは、まだ新しく、そして“仲間の手”の匂いがした。
カリームが静かに立ち上がり、鎖をゆっくりと巻き取っていく。
その動きに無駄はなかった。
一節ごとに、重さが手に返ってくるたび、彼の呼吸は深くなる。
レオが最後の釘を締めていた。
構造を支える補強材の端をひとつずつ確認しながら、慎重に力を込めていく。
──カン、と硬い音が響いた。
それは鉄の声。
炉の奥で、まだ熱の残る金属が、かすかに鳴いた音だった。
すべてが、整っていた。
だが、それは終わりではない。
ひと晩の静けさが、次の鼓動を待っていた。
“明日”が、始まる。
誰も声を発さない。
ただ、その音だけが──まだ消えずに、作業場の奥で静かに響いていた。
最後に鳴ったのは、誰の声でもなかった。
──鉄が、戦いを呼んでいた。
火は沈み、鉄は冷えた。
けれど──明日が、息をする。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえるとうれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.051】
捕獲個体“鶏兎”を初めて解析。皮膚・筋繊維ともに高い弾性を確認。
鎖・革・投擲装置の製作を同時進行で開始。
すべての作業音が同期し、拠点はひとつの“心臓”として鼓動。
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