第50話 森へ沈む拍動
灰はまだ、音を残していた。
灰が薄く舞い、鉄槌の面がかすかに鳴った。
副熱溝の奥、まだ名のない炉は、呼吸するみたいに温度を揺らしている。
昨日、釘一本が生まれた。今日はもう、その釘が“道具”の側に立つ番だった。
副炉の縁には、ミナの小石が“順番待ち”のまま置かれている。
カリームは炉の縁に鉄片を置き、火の吐息が通るまで待った。
鉄片をつかんだ手を止めずに、ぼそりと呟く。
「また、逃がすわけにはいかねぇ」
それは、誰に向けたわけでもなく言い訳でもない。自分から動くための、ただのひと言だった。
レオは目線を上げずに応じる。
「この前の、あの獣か」
カリームは頷かない。ただ、留め金になる鉄をU字に折った。
「待ってたって、腹は膨れねぇからな」
端が赤くなったところでペンチを挿し、U字に折り込む。
かすがい──ばらけるものを、無理やり繋ぎ止めるための小骨。
レオは木杭を削りながら、節の固さを確かめていた。
木目に逆らわないよう、刃をわずかに斜めに当てる。
道具ではなく、獲物を“捕らえる”ための仕掛けを作っていた。
木目を削っていたレオが、ふと声を落とす。
「……なあ。何匹くらい捕れそうなんだ、これで」
誰かに言われたからじゃない。腹の底から、今は“自分の番だ”と思った。
カリームは釘の先端を見ながら、答えずに鉄片を曲げ続ける。
やがて、静かに言った。
「わからねぇ。でも……俺らが何もせずに、冬越せる気はしねぇ」
逃げた背中のまま、冬には入りたくねぇ。
声は低かった。火の音に飲まれそうなくらいに。
だが、それが“今ここでやる理由”そのものだった。
レオは何も返さなかった。ただ、木杭をもう一本、少し丁寧に削り直した。
釘はまだ少ない。鉄も同じだった。
だからこそ、どこに使うかは選ばれる。
皮ひも、押し板、蝶番の代わり──鉄を要する部分にだけ、その一本が通される。
「反発、強い」
マリアが言った。
釘のときと同じだ。要るところにだけ鉄を通す──それで十分に強くなる。
釘の頭を削り、面を少し落とす。
それだけで反動が減り、材が割れにくくなる。彼女の言葉は短いが、金属と同じ重さを持っていた。
優司は計測器を置き、罠の軸を指で弾いた。
その沈黙の動きが、“いける”という合図になる。
罠の構造はまだ粗い。
踏み板に使う板は、湿気を含んで反っていた。
それをカリームが手のひらで押さえ、炉縁の熱を板に移し、鉄槌の腹でそっとならしていく。
金属の精度ではない。だが──今あるもので、罠が形になっていく。
風が、崖の上からひと筋抜けた。苔の匂いを含んだ湿った風。
釘一本から始まった道具が、いま森の仕掛けへと姿を変えようとしている。
レオが灰をひとつかみ取り、手の甲に擦りつけた。
「匂い、殺しとく。風下に回る」
灰の粉が薄く舞い、指の皺に沈む。
枯れ根が露出した獣道に、踏み板を伏せる。
苔の剥げ方が細く続き、湿りの浅い土に小さな爪痕が折り返していた。
風は左から抜ける。匂いは流せる。ここで落とす。
「この辺で、耳の長いのを見た。跳ねて、小さいやつだ」
レオが視線だけで藪の影を示す。
「あれなら、いける」
夕方までに、踏み板が二つ、くくり罠の枠が一つ。
形は不格好でも、“捕るための形”になっていた。
鉄槌を下ろすと、掌の皮に節の跡が点のように残っていた。
痛みはない。だが、手の奥にだけ──重さの記憶が残っていた。
それは“誰かに言われた作業”ではない。自分の手で、最初に選んだ一歩だった。
夜、椀の中身は薄い根と粉でとろりとしている。
ミナの椀だけ、肉が入らない。差し出されても、静かに首を横に振った。
誰も理由は聞かない。ただ、器を少し近くに寄せておく。
クレールは支えなしで座り、膝に紙片を置いて何かを弾いている。
数字の並びが、火の光で淡く滲んだ。
副炉の縁で小石は静かに冷えていた。欠けた接続部には、新しい輪がはまっている。
明日、触る。今日は罠だ──それでいい。
「明日の朝、見に行く」
優司が短く言う。
その一言が、空腹より重く、夜気の底に沈んだ。
風が弱まり、遠い闇のほうで、枝の先がひとつ鳴った。
釘から始まった音は、もう森の中へ入っている。
昼の風は静かだった。
時間がくれば、ロケットの供給ユニットが淡く唸り、今日の“食事”を吐き出す。
栄養はある。熱もある。けれど──誰もそれを“楽しみ”とは呼ばなかった。
最初の数日は、まだ味にも“違い”があった。
甘いもの、塩のあるもの、懐かしい匂い。
だが今は、形と温度だけが残っている。
生きるには足りている。けれど、それだけだった。
“食べる”ことは、すこしずつ“摂る”ことに変わっていった。
言葉もなく、誰も咎めず、ただ繰り返す。
習慣のような食事。
満たされていないのではない。だが、満ちてもいなかった。
クレールは支えなしで歩いた。五歩、止まり、また五歩。
膝に手を当てて息を整えると、端末を壁に立て、画面をなぞる。
並ぶのは数列と残量曲線。どこにも赤字はない。
けれど、見ていたのは“数字”ではなく、“いつまで持つか”の境目だった。
誰も問わない。ただ、彼女が“止まっていない”ことだけが、ここでは答えだった。
気圧口のそばで、積まれた空袋が静かに崩れている。
その端にしゃがんだミナが、ひとつの袋を拾い上げる。
破れ目に顔を近づけ、そっと鼻を寄せる。
匂いはない。けれど──彼女は微かに息を吸った。
ミナはそっとしゃがみ、背に立てかけた小さなタブレットに目をやった。
表示されているのは、誰かの脈拍、体温、呼吸数──“皆の身体”だった。
指は触れず、音も出さず。
ただその一覧を、目の奥で“何かが変わっていないか”確かめるように見ていた。
目は伏せたまま。
けれどその動作だけが、この空間に“味”の記憶を持ち込んでいた。
匂いのしない袋と、変わらない数字。
どちらにも、彼女はなぜか、“確かさ”のようなものを探していた。
日が変わる。罠も、少しずつ変わっていく。
蝶番の木が割れた。繊維に沿って、音もなく裂けた。
材が負けた。──だから今日は、かすがいを三つに増やす。
噛ませ方を変える。重くせず、浅すぎず。音の出ない“繋ぎ方”を、指先で探る。
レオが皮ひもを指に巻き、苔の導管でしめらせた。
「昨日より、ちょっとだけ……“戻る”な」
確かめるように、何度も手を離す。
熱は、昨日と同じ。だが、感触は違う。
材料じゃない。“生きた時間”が変えてくる。
優司は引き金の角を、紙やすりでひと撫でした。
音は出ない。けれど──炉の奥の呼吸が、わずかに揺れる。
重すぎても駄目。軽すぎても駄目。
それは数字ではなく、“手が覚える”境界だった。
カリームは釘の頭に鉄槌を添える。
前より、面が潰れていた。
打ち下ろす直前で止め、手首だけで角度を変える。
芯材の中の“まだ固まっていない部分”を、探るように。
火の吐息が背にまとわり、心臓の鼓動が槌の重みと重なる。
そこへ、マリアの指先がすっと入り込む。
何も言わず、釘の角度をひっくり返した。
それだけで、打つ場所が変わる。
ごつ。
音が落ちる。灰がわずかに跳ねた。
金属の音じゃない。“重さが芯に届いた”音だった。
クレールが、壁の端末に手を置く。
自分の足で、作業場まで往復。歩数は数えない。
額に薄く汗。だが、呼吸は静かに整っていた。
画面に並ぶ数列を、まぶたの裏に焼きつける。
“まだ足りない”と分かっていても、“まだ進める”と知っていた。
動ける。それだけのことが、これほど遠かった。
数歩ごとに足が止まる。だが、それでも“止まっていない”と、ようやく言える。
この数日、誰よりも焦っていたのは──たぶん、自分だ。
口では数字を並べた。足りない手を補うように。
だが、膝に汗がにじむたび、指先は震え、心臓の音が──“追いつけていない”と突きつけてきた。
あの日、カリームが「やれてねぇ」と言った。
胸の奥で、その言葉は自分にも突き刺さっていた。
足を止め、タブレットに目を落とす。
指先が数値をなぞる。酸素、栄養、消耗率。
異常はない。だが、それは問題ないではない。
構造が、わずかに傾いている。
数字の裏にある、温度とリズムが──少しずつ、“揃っていない”。
整えなければならない。
それが、クレール・ド・ルナという“器”の役目だ。
脚は、もう動く。ならば、理由はひとつだ。
──“私は、間に合わなければならない”。
風が変わる。雲が、低くなる。
季節が──ひとつこちらへ、近づいてくる。
罠の数は、まだ足りない。
けれど、“良い音を出す”引き金が、ひとつ増えた。
その音は、昨日より深く、今日の風と重なって──森へ沈んでいく。
湯気が、頬の輪郭をなぞる。
温い粥を、ミナはゆっくりと口に運ぶ。
味ではない。匂いでもない。ただ、“温度”を確かめるように──慎重に、静かに。
皿の端に、細く裂いた肉片が添えられていた。
指先で、ほんのわずかに動かす。だが、そのまま手を引いた。
目が、揺れる。光苔の脈が宿る器の底に、焦点が落ちる。
誰も、言葉は出さない。止める者も、勧める者も──いなかった。
エルナが器に手を伸ばし、湯を少しだけ足す。
スプーンの角度を、無言で直す。
ミナは頷かない。目も合わせない。けれど──指先が、もう一度だけ粥へ伸びる。
それで十分だった。
胸元、小さな小石が揺れていた。
崩れていた金具は、仮の結び目で留め直されている。
粗くも丁寧な手つきで繋がれたその小石に、彼女は気づかぬうちに触れていた。
指先が、ただ“確かさ”を求めるように、そっと撫でる。
それは、名もない“誰かの手”が通った跡。
道具ではない。記号でもない。
たったひとつの、小さな“贈りもの”だった。
レオが肉片をひとつ摘まむと、ぽいと自分の皿の端へどかした。
目は上げない。けれど、ひと息つくように呟く。
「……今日は、腹いっぱいだな」
誰も突っ込まない。
いつもより口にした量が少ないことも、
端に残った肉が手つかずなことも。
レオは箸先をそっと滑らせる。
そのまま、何気ない仕草で──ミナの器の端へと寄せた。
誰も見ていない。けれど、空気がほんのわずかに、温くなる。
口角を、誰かがわずかに緩めた。
それだけ。けれど──誰も止めようとはしなかった。
カリームは根を刻み、マリアは粉末をすこし多めに振る。
優司は、無言で配膳の順を一つだけずらす。
気づかれないように、ミナの器がいちばん先に届くように。
どれも、小さな変化だった。
誰も“それ”について言及しない。
けれど──そうすることが“当たり前”になっていた。
言葉にすれば壊れそうなものほど、人は言わない。
ミナは、小さな肉片を指でつまんだ。
ひと呼吸、置く。
それから、そっと口に運ぶ。
噛む動きは控えめだった。
けれど──ふと、レオの顔をちらりと見て、
唇の端が、ごくわずかにゆるむ。
それだけのこと。
でも、火のまわりの空気が、ほんの少しだけやわらかくなった。
空の器を、ミナは両手で包み込む。
指の節が、冷えた陶器の縁をゆっくりなぞった。
光苔の青い脈が、節の間を淡く流れていく。
彼女は胸元の小石に、一度だけ触れる。
そして、ことばもなく──器を差し出す。
その動きは、まるで“答え”のようだった。
器の内には、もう熱が残っていない。
日が傾く。影が細く長くなりはじめたころ、二人は仕掛けを抱えて森の縁へ出た。
足音は落ち葉に吸われ、風の通り抜ける音だけが、肩のあいだから流れていく。
踏み板の試し置きを、二カ所。
くくり罠の輪を伏せるようにして置き、地面のゆるみを、片足ずつ確かめる。
何も残っていない。ただ──土の層の奥に、ごく薄い“揺れ”だけが残っていた。
「……前、見たよな」
レオの声は、風に合わせるように低い。
カリームが、地面を撫でながら小さく頷く。
「羽みてぇな耳。跳ねる時は速いくせに……歩くと、ぺたぺた音がする」
「草、食ってたな。……匂い、軽い」
息の抜けるような囁きが続く。
「うさぎ、みたいだ」
「いや、にわとりだった」
一瞬だけ、ふたりの目が合う。
そのまま同時に、少しだけ唇が上がる。
「鶏兎……って呼ぶか?」
「名前はどうでもいい。捕れるなら、それでいい」
言葉は軽くても、目の奥には飢えを抱えたままの熱が残っていた。
レオが笑いを残したまま、人差し指で地面をなぞる。
細く削った線の途中、ふっと手を止めた。
「……ここで、止まるな」
理由は言わなかった。
けれど、カリームはひとつ頷いて、罠の位置を半歩ずらした。
地面のわずかな隆起。獣の足裏が擦ったような、小さな“流れ”の変化。
踏み板の蝶番を手で押す。皮ひもの戻りを、強めにひと巻き。
引き金は噛みすぎないよう、かすかに緩めて調整する。
脚の太さは覚えていた。あれに負けるようでは、罠の意味がない。
仕掛けは、今日のところは二つ。
多くは置けない。だが、数が問題じゃない。
通り道の“正しい側”に、釘の頭が沈んでいれば──それで十分だった。
夜の匂いが、風に乗って降りてくる。
苔の導管がじわりと膨らみ、湿気が足もとに這い寄ってきた。
レオが仕掛けの土をそっと戻しながら、ぽつりと呟く。
「……これ、うまくいけばさ」
カリームは罠の蝶番を指で押し込みながら、視線だけ向ける。
「ミナの皿にも、肉が乗るな」
ふたりの手は止まらない。
けれど、その一言で、土の匂いが少しだけ柔らかくなった。
「……また、あの顔見てぇな」
レオが言う。冗談でもなく、大げさでもなく。
ただ、ぽつんと、湯気みたいに落とす。
カリームは少しだけ笑う。
言葉にはしないけれど、“同じ気持ちだ”というのが、手の動きから滲んでいた。
ふたりの手は止まらない。けれど、そのやりとりだけで、
罠を埋める土が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
誰も“それ”については言わない。
けれど、ミナの笑顔があるだけで、
ここはいつもより、すこしだけ──帰ってきたくなる場所になった。
風が変わる。
森の奥から、まだ誰も知らない音が、静かに届く。
カリームは返さない。
ただ、土に指を添えて、罠の輪をもう一度、確かめる。
それは、誰かの“帰り道”に置くような──そんな手つきだった。
レオが、木片を整えながらぽつりと呟く。
「……明日、かかってるといいな」
ミナの笑顔も、そんな明日も。
その願いごと、風の先に静かにほどけていった。
──その奥で、まだ名のない音が、ひっそりと揺れた。
罠に沈んだのは、森より深い拍動だった。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえるとうれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.050】
副炉で生成した金属部品を基点に、罠の基礎構造を設置。
外部環境下での捕食試行は初観測。栄養補給体系に変化の兆しあり。
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