第45話 設計限界の、向こうへ
熱を伝えるのは、言葉じゃなくて、手だった。
岩肌に沿って、湿った空気が流れていく。
中間域。拠点と呼ぶには未完成なこの場所が、今の彼らにとっての“中心”だった。
足音が、二つ。
レオとカリームが、袋を背負って戻ってきた。
その足取りには、わずかに惑星の重力が影を落としていた。
袋の口から、小さな鉱石が一つ、転がり落ちる。
レオがしゃがみこみ、それを拾い上げる。掌の中に、ひんやりと重みが宿る。
「……ま、悪くないだろ」
唇の端がわずかに緩んだ。
「これで遊べるな、じゃねえのか?」
カリームが肩越しに声を投げる。
レオは肩をすくめ、素知らぬ顔で先を歩き出した。
だが──その背中には、確かに熱が宿っていた。
“遊び”とは名ばかりだ。
この星での工作は、命を賭けた技術の実験場。
一つ間違えれば、吹き飛ぶのは手指ではなく、希望そのものだ。
それでも彼は、笑ってみせる。
恐怖を押し隠すように。未来を信じるように。
袋の中で、小さな鉱石がふたつ、ぶつかり合って音を立てた。
それはまるで、見たこともない歯車が、今ゆっくりと噛み合い始めたような──
そんな音だった。
その背に、鉱石が小さく光を返す。
酸素濃度の違いが、空気の“密度”として皮膚に触れる。
肺に入る呼吸が、わずかに重くなる。
その先にいる気配だけが、やけに静かだった。
通路の手前。酸素の境界線に近い地点。
そこでミナが、エルナと何かを並べていた。
木の筒、石の器、苔の粉末。
すぐに使えるものではないが、酸素パイプの試作に向けた“素材”が少しずつ並べられていた。
クレールが座ったまま片手を掲げる。
指先が、小さく合図を送るように震えた。
「酸素流量、下がりすぎないように注意して」
「……わかってる」
エルナが短く応じ、ミナに目を向けた。
少女は、洞窟の奥には踏み込まず、境界線ぎりぎりの場所で器を磨いている。
呼吸は浅く、早い。だが、逃げるような気配はなかった。
手に入れた鉱石の袋を、レオが背から降ろす。
それに続いて、カリームが石板の上に木箱をそっと置いた。
硬質な音が、壁に反響する。
中間域には誰の姿もなく、苔の淡い揺らぎが、照明のように天井を撫でていた。
木箱のふたがかすかに揺れ、中で鉱石が転がる音がする。
仄かな緊張だけが、空間の温度をわずかに変えていた。
足音も、声もないまま──ふたりは、淡く光る場所へ向かった。
レオとカリームは素材を置き、奥へ進む。
彼らの目に映ったのは、淡く光る仮設図面。
その前で、優司とマリアが、端末を囲んでいた。
その一角には、あの試作の土による断熱テストの結果が反映されていた。
重ねた層に微細な気泡を含ませることで、想定以上の遮熱効果が得られたらしい。
タブレットには、鋳造炉の構造と熱循環のシミュレーションが刻まれている。
断熱層と酸素供給路を分岐させるための検討が、文字と数字と──無言の視線で行われていた。
「……またやってんな」
レオが呟く。
「何を?」
カリームが視線を送る。
「天才たちが、限界を踏み越える遊びだよ」
それは、軽口ではなかった。
“何を作るか”ではなく、“どうやって挑むか”──
その選択こそが、彼のいう“遊び”の本質だった。
この星の重力も、空気も、未知の素材も。
すべては、ただの“条件”にすぎない。
だからこそ、どう動くかは、自分たちで決めていい。
呼吸は浅く、早い。
それでも、背を向けるような気配は微塵もなかった。
会話はそこまでだった。
優司もマリアも、こちらを振り返らない。
それなのに、全体の動きはぴたりと噛み合っている。
仮設図面には、炉の基部と見られる構造線がすでに描き出されていた。
断熱層の厚み、流路の角度、素材の配合比率。
試作していた土の断熱性能も、図面内に組み込まれている。
数値化された遮熱率と膨張係数が、すでに計算済みだった。
レオたちが持ち帰った素材は、すでに“組み込まれる前提”として扱われている。
タブレットの図面が、またひとつ形を変える。
マリアの指先が滑るたび、数字がわずかに塗り替えられ、それに応じて優司が素材の配合をタブレットの別画面で追従する。
呼吸すら、計算に含まれているような静けさだった。
けれど──その沈黙は、寒さではなく、熱を孕んでいる。
優司の目がほんのわずかに細められる。
マリアの指先が止まり、視線がわずかに彼のタブレットへ流れた。
「……これなら、あと一〇パーは持つ。限界値には、届かないが」
彼女の低い声に、優司は何も言わず、静かに頷く。
次の瞬間、彼のタブレットに新たな素材構成が入力された。
その数値を見て、マリアがほんのわずかに目を見開く。
「そこまで削るの?」
優司は、口元を引き結んだまま、再びグローブ越しに端末を操作する。
その手の動きには、技術屋の意地が宿っていた。
断熱層にあたる部分には、茶褐色の層が見えていた。
前話で試作していた、あの“土”に近い色だ。
粘りと粒子の配合比──ミスを経て辿りついた、あの感触。
いつの間にか、それが“図面上の前提”として、ここにある。
マリアは、画面に映る数字の列を指でなぞった。
「──断熱率は想定より高かった。収縮も、膨張率も、ほぼ理論値」
低い声でそう告げると、彼女はほんのわずかに笑った。
「やっぱり、あの土……正解だった」
その笑みに、優司がゆっくりと頷く。
「粘度が高い分、冷却の時間を稼げる。
あれを挟層に使えば、素材全体の応力も分散できるはずだ」
マリアが目線を送る。
すでに次の試作を見据える眼差しだった。
「じゃあ、次は構造材の方ね。内側のフレーム。
あれに、あの黒い鉱石を使って……」
「膨張率が違いすぎる。合わせるなら、焼き入れ工程を挟んで──」
そこでレオが、背後からぽつりと漏らす。
「おいおい……もう次の設計、入ってんのかよ」
マリアは振り返らない。ただ、指先だけが微かに止まった。
「“もう”じゃないわ。最初からそのつもりで、試してる」
背後で、誰かの息がふっと抜ける音がした。
レオだった。
唇の端をわずかにゆるめ、指先で図面の端を軽く叩く。
「──まじで、遊んでるみたいだな。あいつら」
冗談めかして言いながらも、その眼差しは真剣だった。
指先に触れた素材名や数値を、じっと見つめている。
優司の指が止まることはなかった。
まるで、ずっと前からこの瞬間だけを待っていたように、線と点が迷いなく図面に刻まれていく。
「やり直し三回目、ってとこか」
マリアの声は低い。けれど、その目は静かに燃えていた。
表示された温度変化のグラフがわずかに傾くたび、彼女は別の案を投げ、優司は無言でそれを組み込む。
まるで、何かを確かめ合うように──
ふたりのあいだには、設計ではなく“対話”があった。
「……さっきのデータ、気づいた? 熱拡散が予想より早いわ」
「流動性が原因だ。混ぜたときの比率が甘かったかもな」
「なら、“あれ”を混ぜてみる?」
「──お前、どこでその材料の使い方知った?」
マリアは微笑を見せない。けれど、わずかに顎を引いた仕草だけで、その意図が伝わった。
“あれ”──それは、軍の機密資料で知った最先端の耐熱素材。
本来ならここにあるはずがない。だが、彼女の知識は現場ではなく、“かつて見た何か”から生まれている。
「面白いじゃない、こういうの。
本当に、どこまでやれるか──」
声は小さい。だがその温度は、優司の手よりも、画面の発熱よりも、ずっと熱かった。
隣で、カリームも肩をすくめた。
「……限界の先で遊べる奴らだ。おれらには、ああは真似できねえな」
けれど、その声には僅かな羨望がにじんでいた。
少しだけ、喉の奥が熱くなる。
名もない試作だと思っていた。
けれど、それが“使えるもの”として、技術の一部に加わっていたのだ。
これが限界、ではない。
ここからが“設計された限界の向こう”だった
レオとカリームが、無言で目を合わせた。
言葉は要らなかった。
持ち帰った素材が、“次の段階”にすでに繋がっているのなら──
彼らに残された役割は、ひとつだけだ。
足場を組む。
この熱を、支えるために。
ふたりは袋を背負い直し、静かに踵を返した。
その静かな熱のやりとりを、クレールは少し離れた場所で見ていた。数字ではなく、“完成されていく意志”の流れを。
レオがふと足を止め、通路の端に目を向けた。
そこには、かつてミナが座っていた岩のくぼみがある。いまは誰もいない。だがその空白が、妙に目についた。
あの小さな影が、そこにいない。
それだけで、風景にどこか“欠け”ができたように見える。
レオは足を止めることなく、視線だけをくぼみに残した。
何も起きていないのに、なぜか心のどこかがざわつく。
けれど今は──その理由を、まだ言葉にできなかった。
「……さっきから、見当たらないな」
低く呟いた声に、カリームも顔を上げる。
ふたりの視線が、自然と拠点の奥へと流れていった。
「……また、ひとりで動いたのか」
カリームが舌打ちしかけて、唇を結び直す。
怒りというより、どこか引っかかるような気配だった。
誰も、責めるような声は出さない。
「エルナが探してた。外には出られるけど……あいつ、奥には入れねぇしな」
レオが、ふと岩のくぼみに目を戻す。
そこに残された温度のようなものが、静かに宙に溶けていく。
「……俺たちを追ってきたのかもな。帰るころには、森のほうで──ひょっこり顔を出すかもしれない」
声に棘はなかった。
ただ、気にしている。けれど今は──その感情を、行動には変えない。
ふたりは視線を戻し、前を向く。
いまは、動くときだった。まずは、やるべきことを。
洞窟を出たとき、空はすでに淡く光っていた。
朝というにはまだ早く、夜というには薄すぎる──そんな宙の色だった。
レオは一度だけ振り返る。
拠点の入口、岩壁に埋もれるように点いた光が、ぼんやりと揺れていた。
「優司たち、まだやってんのか……」
ぽつりと呟くが、応えはない。
代わりに、横を歩くカリームが、道の先を見据えたまま言った。
レオは、もう一度だけ視線を送った。
ふたりの手の動きは、迷いなく図面を塗り替えていく。
あれが“再現”ではなく、“創造”の作業であることが──手の熱で伝わってくるようだった。
「……ああいうの、さ」
「ん?」
「見せられちまうとさ。俺らにできること、もっとあるんじゃねぇかって思うんだよ」
「……なんかさ。見てると……負けてらんねえ気がするんだよな」
カリームは答えなかった。
ただ、手袋の上から自分の指先をじっと見つめていた。
「……木は、あっちだな。前に見かけた倒木、覚えてる」
「ああ。湿ってなきゃいいけどな」
足場を組む。
その言葉だけで済ませるには、手間が多すぎた。
支柱を立てるには、土台の水平を出す必要がある。
滑車の荷重を受け止めるなら、丸太一本では足りない。
脚場、横木、結束の縄──すべてが、ずれずに噛み合わなければ、支えにならない。
カリームは手の中で指を鳴らすように拳を握った。
「……まずは、乾いてる材だな。前に見た倒木、幹が割れてなきゃ使える」
「あとは、強度と……荷重の分散か」
レオの声に、言葉の代わりに風が返ってくる。
森はまだ、朝と呼ぶには早すぎる淡色の中に沈んでいた。
だが、それでも彼らは歩みを止めない。
地面の傾き、枝の張り出し、倒木の位置──
見るものすべてが、いまは“使える素材”に変わっていた。
彼らの手には設計図はない。
けれど、さっき見た図面が、頭のどこかで光っていた。
ふたりは、踏み締めるように地を進んだ。
目的は、熱を支えるための“足場”。
支柱となる丸太、連結材、そして滑車を通す架構を組むには、それなりの量がいる。
「荷重は分散できても、吊り荷が振れたら終わりだ」
カリームが呟く。
「丸太を組むにしても……三本脚じゃ足りねぇな。四点止めにして、滑車の反動逃がさねえと」
「……トラス組むか。覚えてるか? あの訓練のときのやつ」
「無茶言うな、ありゃ3Dプリントだろ。けど──似たような形は、作れるかもしれねぇ」
森は、まだ深く眠っていた。
だがその静けさの奥で、木々の骨が軋むような音が、わずかに聞こえていた。
幹に沈むたび、湿った木屑が跳ねる。
惑星の重力は、筋肉だけでは受け止めきれない。
だが、彼らは止まらなかった。
それが“誰かの作業を支える”という選択である限り──
限界は、いつだって図面の外にある。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.045】
素材搬入後、炉構造の再設計が進行。試作土の遮熱性能を反映し、想定域を越える応答を記録。
また、設計中の“熱”がレオとカリームにも伝播、足場構築への初動が確認された。
ただし、観測対象“ミナ”の定位置に微かな空白。所在未確認。
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