第44話 起源の坩堝
名が与えられるとき、言葉は旗になる。
タブレットの画面に、仮設図面が淡く脈打つ。
青白い光がクレールの頬を照らし、彼女は手を組み直す。
指先がほんのわずかに震える。迷いではない──決断を刻むための、無言の合図だった。
「……プロジェクト名を、つけましょう」
静かな声に、作業場の空気がぴんと張り詰める。
彼女は画面に滑らかな指先を走らせた。
画面には、《Creuset d’origine》という文字が表示される。
一瞬、誰も声を発さない。レオが片眉を上げる。
「……オリジン、ってとこしか耳に残らなかったな。フランス語か?」
クレールがうなずく。
「……読みは、“クルズ・ドリジヌ”。少し発音しづらいけど……意味は、“起源の坩堝”」
カリームが腕を組んで笑った。
「言葉はわかるが、口に出すのは骨が折れそうだな」
マリアは視線を画面に落とし、小さく息を整える。
「響きとしては美しい。けれど実務では、少し長いわね。現場で呼ぶなら短縮形が必要かも」
軽口のやりとりの奥で、画面に浮かぶ文字は揺らがない。
そこに立ち上がったのは、ただの名称ではなく“旗”だった。
数秒の沈黙。呼吸の音だけが並ぶ。
レオが軽く首をかしげた。
「……クルズ・ドリジヌプロジェクト、ね。俺の頭には“起源の壺”って出てきたぞ」
エルナは表情を崩さず、小さく頷く。
「Creuset は“坩堝”の意。英語の crucible と同義です」
「だから聞き慣れないんだな」
レオが肩をすくめて笑う。
カリームが腕を組んだまま言った。
「発音が難しい。現場じゃ噛むやつ続出だな」
マリアはタブレットに視線を落としたまま、わずかに口元を緩める。
「響きは綺麗よ。でも、通称を決めた方が運用しやすい」
レオが言った。
「じゃあ、“オリジンプロジェクト”で」
クレールは短く頷いた。
「略称はそれで。……異論は?」
誰も口を開かなかった。
カリームが膝に手を打ち、短くうなずく。
「なら決まりだ。旗は立った。あとは俺たちが動かすだけだ」
名が定まり、場に静かな一体感が生まれていた。
クレールはタブレットを操作し、画面を切り替える。そこには、炉建設に必要な素材や工程が並んでいる。
「次に──作業の分担を決めましょう」
彼女の声に、全員の視線が自然と集まった。
「安全機構の設計と通気の試作は、拠点内で進めるのが妥当です。ここにはエルナ、私、優司、それからミナ」
クレールは淡々と名前を挙げ、ひと呼吸おいて指先を滑らせた。
「断熱材と内壁構造の検証は、候補地で実施する必要があります。マリア、そして優司──あなたには往復してもらう」
優司は黙って頷き、マリアは一瞬だけ眉を動かす。
「素材調達は……カリームとレオ。落石地帯で粘土と繊維蔓を確保してほしい」
その名を聞いたカリームは椅子から腰を上げる。
「任せろ。運ぶのは俺の仕事だ」
レオが軽く肩をすくめ、笑みを見せる。
「じゃあ、拾う役は俺だな。どっちが多く集められるか勝負するか?」
場にわずかな笑いが走る。
だがクレールの指先は止まらない。タブレットの画面に次々と役割が記されていく。
「以上です。……異論は?」
短い沈黙。
誰も声を上げなかった。むしろ、全員がすでに頭の中で作業の段取りを組み始めている。
それからしばらくして、各自が必要な道具をまとめていく。
袋に縄を詰める音、工具を確認する金属音。小さな動作が拠点のあちこちで重なり合い、やがて外に向かう気配へと変わっていった。
──レオとカリームは、調達班として荷を背負う。
拠点を離れると、岩肌に残る湿気が肌にまとわりついく。
落石地帯は、崩れた岩が折り重なって通路を塞ぎ、ところどころに影の縦穴を作っている。
カリームが前を歩き、手斧で枝を払いつつ道を切り拓く。
「粘土質の土は、斜面の下に溜まる傾向がある。雨の跡を辿れば、手がかりになるはずだ」
レオは後ろで頷き、岩陰へ視線を滑らせた。
「繊維蔓は……あったな。岩の隙間に絡みついてる」
彼は腰を落とし、手袋越しに蔓をつかんで力を込める。
乾いた繊維が裂け、ぱらぱらと地面にこぼれた。
二人は無言で袋を埋めていく。
レオは拾った蔓を膝の上で裂き、繊維を束ねながら袋に押し込む。裂け目から細い糸のような繊維がこぼれ落ち、風もないのにふわりと漂った。
カリームは斜面にしゃがみ込み、湿った土を掌で掬う。指の間から水気を含んだ粘土がにじみ出し、袋の底に重たく沈んでいく。
「……これなら使える」
土の色と感触を確かめ、さらに塊を削り取っては袋に放り込む。
土の重みで袋が沈み、肩に掛けた縄が軋む。
汗が首筋を伝う頃、ようやく一息つけるほどの量になった。
やがて、カリームがふと足を止めた。
「……今、聞こえたか?」
レオも顔を上げる。
周囲の岩陰に風はない。だが、ひとつ先の影の中で、小石が転がった気配があった。
彼は目を細め、声を潜める。
「……ミナ?」
返事はない。
崩れた岩の奥で、空洞の闇だけが口を開けていた。
カリームは斧を握り直し、耳を澄ます。
風は止んでいる。残ったのは、小石の転がった音だけ。
「……いや、人の足音にしちゃ雑だ。狼猪か、別の獣かもな」
レオは蔓を手にしたまま、足元を見やる。
砂にかすかな跡が刻まれているが、影とも爪痕ともつかない。
「……あり得るな。どっちにしても油断はできねぇ」
カリームが短くうなずき、周囲を一瞥する。
「獣でも、人でも、相手は分からん。とにかく気を張っとけ」
彼は息を吐き、袋を締めながらぼそりと漏らした。
「……もしミナだったら、危ない場所だな」
レオは作業を続けながら、苦笑混じりに返す。
「だから急いで戻ろうぜ。こんな岩場に長居するもんじゃない」
カリームも袋を持ち上げ、肩に担ぐ。
「そうだな。さっさと終わらせよう」
レオが軽く笑って言った。
「じゃあ勝負だ。どっちが多く詰めて早く戻れるか」
二人の手が慌ただしく動き、袋はじわりと重みを増していく。
土の粒が指先からこぼれ落ち、縄がきしむ音が短く響いた。
肩にのしかかる圧は、作業の成果と同時に、この場所に長く留まる危うさを思い知らせる。
「よし、これだけあれば十分だ。急いで戻ろう」
カリームが息を吐くように言い、袋を肩へ担ぎ直す。
レオは黙ってうなずき、蔓を最後に押し込んで紐を締めた。
指先に残る繊維のざらつきが、まだ乾かぬ汗と混じり合う。
斜面の影はすでに伸び、落石群の奥は闇に沈みつつある。
その静けさを裂くように、遠くで鳥の声が一瞬だけ響き──そして、途絶えた。
湿った岩の裂け目に、白い光が落ちていた。
優司は立ち止まり、壁を見上げる。崩れかけた岩の列、その隙間を風がわずかに抜けていく。
マリアが隣に立ち、岩肌へ手を伸ばした。指先で触れた感触を確かめながら、目を細める。
「通気はある。でも……全体が生きてるわ。加熱したら、強度がどこまで保つか怪しい」
優司は黙ってしゃがみ込み、足元の土を掬った。湿り気の残る赤土に、指先で圧をかける。
粘りはある。だが、それだけでは足りない。
「繊維を混ぜれば、成形できる。割れやすいが……焼き締めれば一体化する」
「使うの? ここで採れた土を」
マリアはすでにタブレットを操作し、岩の断面と既存設計を重ねている。
「潜入した極低温施設で見たことがあるの。似た素材を、断熱層として使ってた」
優司は顔を上げた。
「冷やす方向か。なら、熱もいける」
マリアの視線がわずかに揺れた。口調に感情は見えない。それでも、相手の反応を測っている気配があった。
「理屈ではね。温度を遮る構造は、熱でも応用できるはず」
優司は土を指で裂き、ゆっくりと形を崩した。
「層をつくる。芯、断熱、外殻。三層構造にすれば、内部で保持、外に逃がす」
「それって、パッキンの構造と一緒」
「そうだ。密着させて、熱を逃がさず、暴走を抑える。……同じだよ。機械でも、土でも」
マリアはわずかに息を抜いた。
「普通は、そこを繋げない」
優司は肩をすくめ、立ち上がる。
「繋げなきゃ、作れない」
タブレットの画面に、新たな設計線が引かれる。
マリアの指が静かに動き、図面の縁に淡く光の残滓が揺れた。
「……土と熱と構造の話を、こんな場所でするとは思わなかった」
「機械の外でやってるだけだ。考え方は一緒」
「言ってくれるわね」
マリアは小さく笑い、画面を閉じた。
「まずは試作ね。三層を成形して、加熱試験。……再現性がなければ、ただの理屈になる」
「やる価値はある」
優司は岩の裂け目をもう一度見上げた。
その奥、微かに差し込む光が、岩の内壁に淡く揺れていた。
「あのときの施設も……似てたわ。使える素材が限られてて」
優司が少しだけ眉を上げた。
「どこだ?」
「極東の気象研究所。データを奪いに行った任務だったけど──本命は別だった」
優司は答えない。ただ、土をもう一度手に取り、今度は粘度を押し出すように伸ばしてみせる。
「あの施設、使える素材がほんの数種類しかなかったの。逃げる道も、耐える壁も、制限だらけで……」
マリアは記憶を辿るように、タブレットを見つめたまま口を閉じる。
「……あの時、逃げるしかなかった。でも、あなたならもう少し他の道を見つけてたかもね」
優司は何も言わず、地面の土を指先でこすった。
「……それでも、素材は残ってたんだろ」
優司はゆっくりと立ち上がる。
「なら、焼けるかどうか。俺たちで判断する」
優司が淡々と言うと、マリアは静かに笑って、背を向ける。
「……焼くなら、ちゃんとした素材でやってほしいの」
マリアは少し間を置き、背を向けたまま続けた。
「信頼できるやつで、失敗はさせない。任せて」
その背で、マリアの手がゆっくりと動いた。
タブレットの画面に浮かぶ図面の端に、仮設の炉構造が淡く描かれていく。
線はまだ不確かで、熱も光も持たない。
けれどその輪郭の中に──確かに“火を扱う準備”が、始まりつつあった。
その火は、まだ脈を打たない。けれど、もう生まれている。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.044】
拠点内にて新規クラフト計画が正式に命名・可視化された。
全ユニットの役割分担が完了し、素材調達・試作工程に移行。
内部構造の設計および断熱構造の試案が進行中。
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