第43話 輪郭に灯が宿る
まだ形にならない場所に、光だけが差し込んでいた。
空気が、いつもより静かだった。
——この静けさの先に、火を置けるのか。
誰もまだ声を発さない。
音を立てる手も、ほとんど動いていなかった。
けれど、止まっているわけではない。
それぞれの手元には、別の種類の作業が広がっていた。
クレールは、前夜の工程リストを見返していた。
優司は素材の厚みを測り、マリアは小型ユニットの分解に取りかかっている。
カリームは作業着のポケットを整え、レオは小道具を磨いていた。
まだ何も始まっていない。
ただ──始める準備だけが、淡々と整えられていく。
その空気のなかで、クレールがゆっくりと顔を上げた。
「……まず、場所の話をしましょう」
作業場には、図面と素材リストを展開したままのタブレットが置かれていた。
前の晩、話し合いの末に浮かび上がった“加工炉”という一歩先の構想──
それを実現するための、最初の問いがあった。
「……で、どこに作るかよね」
クレールの声が、拠点の中心に落ちた。
整った口調だったが、その重みは軽くなかった。
全員がうなずくか、わずかに動きを止める。
炉。それは熱を使い、火を扱うものだ。
単に“建てられる場所”ではない。
“燃やしてもいい場所”であり、“制御できる場所”でなければならない。
マリアがタブレットの上で図面を引きながら、静かに言う。
「洞窟の中、という案はあるわ。遮蔽は自然にできてるし、熱も逃げにくい。風の影響もない」
「運用できれば、かなり理想的だな。冷却も岩伝いでできるかもしれん」
カリームが腕を組んでうなずく。
拠点内部の地形データが、少しずつ画面上に展開されていく。
「酸素送管も、通路から枝管を伸ばせばいけるはず。圧縮空気の取り回しも……今の仮設機材なら、三日は動かせる」
「空間制御ができれば、実験炉の段階で温度変化も測れるわね」
会話の端々が、“前向き”だった。
ただの理論ではない。そこには“運用可能性”を前提とした言葉が積み上がっていた。
レオが壁に背を預けたまま、手のひらを返す。
「──でも、火を使うんだぞ」
その一言が、空気にわずかな重みを戻す。
「光苔の層がある。万が一、制御を誤って酸素層に引火したら……どうなる?」
誰も即答しなかった。
あの洞窟の奥には、呼吸すら危うい酸素濃度の“神域”が存在する。
すでに彼らはそれを知っていた。だからこそ、火という言葉には緊張が走る。
「排気も課題よ。閉ざされた空間での熱の逃がし方は……岩伝いに熱を吸わせても、内部の圧が逃げなきゃ意味がない」
マリアの言葉が、熱を扱う者の視点を挟む。
「もし排気が滞って、酸素濃度が高まったまま残ったら……」
レオがうなずく。「燃え残りのガスが再点火するだけで、吹き飛ぶな」
「搬入経路も問題だな」
カリームが補足する。
「岩の隙間を通して素材を運ぶのは非効率的だ。大型部材を使うたびに現場を止めるわけにはいかねぇ」
静かに、否定が揃い始めていた。
最初は“よさそう”に思えた洞窟内部の案も、条件を重ねるごとに現実から遠のいていく。
クレールが、しばし図面を眺めたまま、口を開いた。
「利点はある。でも、総合すると──拠点内部の案は、リスクが高すぎるわね」
クレールの指先が、図面の“洞窟内”から“外部”へ静かに滑った。
誰も口にしないまま、鉛筆の向きだけが外を指した。
誰もが黙ったまま、図面の上を見つめていた。
洞窟内部の案が現実的でないと判断された今、次の選択肢に進まなければならなかった。
「……じゃあ、やっぱり外、よね」
クレールの声に、反論はなかった。
拠点の外部に炉を設ける──それは単純だが、もっとも現実的な案だ。運搬、換気、制御、すべての面で洞窟内よりも優れている。
「第二搬入口の近く、以前仮設倉庫を置いた区画。あそこなら、資材の搬入も手間がないし、土台もそこそこ安定してるわ」
マリアが図面の別エリアを拡大しながら言う。
「風が通る位置か?」
レオが確認するように問う。
「やや横風だけど、送管さえ敷けば問題ないと思う。換気は自然に逃げる構造になってるし、最悪、屋根を部分開放にすれば排熱もできる。建屋としての負担は大きいけど、条件的には悪くない」
「作るしかないってことだな」
カリームが膝に手を置いて言った。
「岩陰を利用できるとしても、最低限の遮熱壁と排煙筒は必要だ。送風管は仮設でも通せる。だが、本体は完全に一からだ」
クレールは頷きながら、情報をひとつずつ整理する。
「地形の条件としては最良に近い。搬入経路、排気経路、安全距離──全部クリアできる」
「時間はかかるけど、それだけの価値はあるわ」
マリアの目は図面ではなく、すでに現地の空間そのものを思い描いていた。
「加工の精度を上げるには、炉の“安定性”が絶対条件。仮設じゃ温度が揺れすぎる。制御ができないってことは、技術の蓄積ができないってことよ」
誰も否定しなかった。
最短ではないが、もっとも堅実な道。それが、屋外建築による“加工炉の新設”だった。
ただ、その時だった。
マリアがタブレットを閉じ、爪先で机を軽く叩く。
小さな音が、全員の視線を集めた。
静かに、けれど確かに、別の方向を見ていた。
「……本命ではある。でも、もう一つ、可能性のある場所があるかもしれない」
その声に、全員の意識がわずかに揺れた。
全員の視線が戻る。
マリアは少し考えてから、言葉を選ぶように続けた。
「以前、台車の滑車を取りつけたあの場所──岩が縦に重なって、空洞になっていたあたり、覚えてる?」
レオが目を細める。「あの、……落石群のことか?」
マリアはうなずいた。
「ええ。地形的には不安定そうに見えるけど、実際には倒れずに長いあいだ維持されてる。空気の通りも悪くない。自然に“縦の空間”ができてた」
「まるで……筒のように岩が立って、内部に空洞があったな。雨避けに使えるか、って言ってた場所か」
「そう。あのときはただの岩の陰くらいに思ってたけど……炉の外郭として見れば、使えるかもしれない」
カリームが腕を組んだまま、少し首をかしげる。
「でも、それだけで炉にできるのか?」
「もちろん“そのまま使える”とは言わない。ただ、既存の地形を生かして加工できるかもしれないって話」
マリアの口調はあくまで慎重だった。
「建築を一からやるのが難しいなら、“すでに立っているものを使う”という考え方もある。素材を組むよりも、岩盤の安定性を活かす方が、短期的には有効かもしれない」
クレールが静かに問いかける。
「具体的に、どの程度の規模?」
「外径は人ひとり分、内部は縦に抜けてて、通気があった。上部は開口してるけど、横の亀裂を埋める必要があるかも。……ちゃんと見てみないとわからないけど、少なくとも“組み換え前提の資材”よりは早いかもしれない」
少し沈黙が流れる。
マリアは付け加える。
「とにかく、一度見に行ったほうがいい。あそこが使えそうなら、基礎も空間もある程度活かせる。無駄足になっても、確認する価値はあるわ。だめなら、建築に戻るだけで済む」
クレールがゆっくりと頷いた。
「──行きましょう。全員で確認して検討しましょう」
靴音が、斜面の小石を鳴らしていた。
空は薄曇りで、風もない。けれど、拠点の中よりも少しだけ空気が澄んでいる。
全員が荷物を最小限にまとめ、歩調をそろえて落石群の地帯へ向かっていた。
その場所は、拠点からそれほど離れていない。
台車を通すために何度か往復した、小さな崖下。
だがその奥にある地形は、当初は“通路の一部”としか認識されていなかった。
崩れた岩の層が斜面に沿って折り重なり、ところどころに縦長の隙間を作っている。
あのときは資材の搬入ルートを確保するための障害として見ていたが──いまはその視点が違う。
レオが最初に足を止めた。
「ここだな……確かに、思ってたより“形”になってるかもしれない」
立ったまま岩の列を見上げる。
重力に逆らうように積み上がった岩群が、偶然にも縦長の筒のような空間を形作っていた。
マリアが前に出る。
手にしたタブレットを操作しながら、周囲をゆっくりと見渡した。
「……記憶してた形と、大きくは変わってない。
横の亀裂はあるけど、上部は吹き抜けてる。日照は……限定的だけど、熱は逃げるわね」
「空気の抜けもあるな。奥が貫通してる」
カリームが腕を組み、反対側から覗き込む。
「こっち、少し傾いてるけど……排気の誘導には逆に使えるかもしれない」
優司が地面の傾斜を指差した。
「ただ、地盤が緩いと話にならない」
クレールが低く言い、タブレットで地形図を開く。
「……でも、岩盤自体は動いてないわね。苔もついてない。比較的安定してる」
全員が、言葉ではなく動きで情報を拾っていた。
ただの岩の重なりに見えた場所が、“見方”を変えたことで違うものに映る。
その変化は、ご都合ではなく“観察”と“再定義”の結果だった。
「……ここを加工できるなら、工程は大きく短縮できる。建築の半分以下の時間で済むかもしれない」
マリアが最後に静かに言った。
「でも、仕上げには細かい調整が必要だ。通気の制御、亀裂の塞ぎ、内壁処理──やることは多い」
レオの言葉に、誰も否定の声をあげなかった。
「……有力な選択肢になるわね。ただし、仮定の上に立って動くのは危険。
帰って再検討しましょう。設計に落とせるどうか、全工程の中で評価する」
クレールが、静かにまとめた。
マリアが短くうなずいた。
その視線は、もはやただの落石を見ていなかった。
“利用可能な空間”としての意味を、明確に捉えていた。
戻った拠点では、さっそく検討が始まった。
タブレットの画面には、マリアが現地で撮影した複数の角度からの画像が並ぶ。
クレールがそのひとつを指先で拡大しながら、全体の構造を確認していた。
「形状的には、たしかに“囲い”としての条件を備えてるわ。上部開口、下部の通気、そして側面の厚みもある」
「高さは? 加熱空間として機能するだけの縦距離は取れそうか?」
カリームが問いかける。
「内径は狭いけど、縦の空間は十分よ。最低限の炉芯は取れる。
むしろ、縦があるから温度が偏りにくいかもしれない」
マリアが図面に簡単な炉構造を描き加えながら言う。
「ただし、気流の制御は難しい。吸気と排気が自然任せだと、逆流のリスクが出る」
「そこは、弁構造で対応だな。設置位置を変えれば、片方向の流れは維持できるはず」
優司が工具箱から簡易模型を取り出しながら口を挟む。
「吸気は低所、排気は高所。それだけで流れは決まる」
優司は簡易模型を置き、余計な説明は切り捨てた。
「あと、内部の処理。今のままだと岩肌が荒すぎる。断熱も遮熱も効かない」
レオが言いながら、手元の板を裏返した。
「だから焼成用に、内壁に“層”を作る。粘土を塗って、繊維を挟む。
前に拾ったあの繊維、耐熱性あっただろ?」
「森で採ったやつか。まだ残ってる。
あれ、乾くと縮む性質ある。焼けば形状固定できるかもな」
優司が静かに応じた。
「既存地形を炉の構造に転用するのは、たしかにイレギュラー。
でも──あの岩が数年、数十年も崩れずにあるとしたら、私たちが“組む”より強度があるかもしれない」
マリアがタブレットの画面を指先でなぞりながら、改めて言う。
クレールが図面を一度閉じ、周囲を見渡す。
「……決めましょう。拠点内はリスクが高い。新設は工程と時間がかかる。
──あの地形を“活用”する方向で、正式にプロジェクトへ組み込みます」
全員が、わずかに頷いた。
「──作れる。素材の確認と、流路の測定から始める」
そのとき、ずっと黙っていたエルナが、ゆっくりと口を開いた。
「……ひとつ、気になることがある」
全員の視線が向く。
「この地形、通気があるとはいえ、閉じた空間になるわ。
熱処理を繰り返すことで、排気の抜けが悪くなると、内部の圧力や温度が異常上昇するリスクがある」
レオが眉を上げた。
「爆発の話なら、逆止弁の構造で──」
「違う。……もっと小さな、でも見逃されがちな蓄積」
エルナは、わずかに視線を落とした。
「……センサーに反応しない濃度のガス残留。
小さな圧損や、徐々に狂っていく流量制御。
最初は問題なくても、“気づかないまま限界を超える”ことがいちばん危険」
クレールが目を細めた。
「……人間じゃなく、装置のほうが先に壊れる」
「ええ。最初から“壊れること”を前提に、設計にマージンを設けて。
定期点検と排気試験、それから──逃げられる設計にしておいて」
クレールが頷き、タブレットに新しい項目を追加した。
──それは“構造”ではなく、“安全”のための備えだった。
新しい炉のかたちが、ついに「現実の選択肢」として、拠点の計画図に書き込まれた。
図面の下で、次のチェックリストが静かに点灯した。
その小さな光は、まだ炉の炎ではない。
——だが、確かに“熱”の始まりだった。
輪郭は、意志を通して灯になった。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.043】
加熱構造の候補地、拠点外部・崖下エリアにて仮認定。
周囲構造の安定性と通気性を確認。変形加工および安全設計フェーズに移行中。
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