第34話 火と苔の眠り
苔は、息をしていた。
それは、この星の“呼吸”だった。
誰も、何も言わなかった。
洞窟の奥、ロケットが沈んだ空間には、苔の光が滲んでいた。
柔らかく、湿った呼気のように広がる緑。天井から垂れ下がった胞子が、ぼんやりと発光している。
苔は岩を這い、外殻にこびりつき、配線の継ぎ目やスラスターの隙間にまで入り込んでいた。
まるで“宇宙船”を覆い尽くすように──“この星の呼吸”が、静かに侵食していた。
マリアはしゃがみ込み、指先で表面をそっとなぞる。胞子が砕け、甘くも鉄臭いにおいが、かすかに立ち上った。
「クッションになってくれたのは良いけど……胞子、入り込んでるわ。コネクタの中まで」
応える声はない。ただ、隣でエルナが記録端末を翳し、苔と空気の組成反応を観察していた。
スラスターの基部には、炭化した破片とクラック。パネルの継ぎ目からは、すでに中継ラインがいくつか脱落している。
クレールが外壁に手を当て、そっと目を伏せた。
「これじゃ……しばらくは動かないわね」
言葉というより、ひとりごとのような、確認だった。
──それでも、優司は動いていた。
無言で配線の一本を抜き、焼損の範囲を確かめ、代替ルートの確保を検討している。
まるで“この腐食した機械”が、もう一度だけ火を吹くことを信じているかのように。
彼の指は迷いなく、破損部を確認し、工具を選び、修理とは呼べない“仮設的な対応”を次々に試していた。
マリアは、炉の傍にいた。
だが彼女の存在は、注意深く見なければ背景に紛れる。音も動きもなく、ただ“正しい場所に立っている”だけだった。
指先で冷却ユニットの表面をなぞる。手袋越しでも分かるわずかな温度差──ほんの少しだけ熱が、逃げきれていない。ログは許容値内を示しているが、それが“正しい”とは限らない。
何も言わず、彼女は姿勢を変えた。
影になった側面にまわり、ひとつだけ端末の出力値を確認する。数値の変化はなかったが、発熱グラフの“間”に、ごく短い滞留が見えた。
マリアはそれを記録することも、誰かに告げることもしなかった。
ただ静かに、換気ラインの排熱角度をほんの少しだけ直し、何もなかったように元の位置へ戻る。
その動作は、炉の挙動に何の影響も与えなかったように見えた。
──それでも、室温は数秒後、僅かに下がった。
レオが、少し離れた岩に腰を下ろして、低くつぶやいた。
「……まるで、昔のアニメ映画で見た腐海の地下だな……地上じゃ吸えない空気が、地下じゃ生きてる──そんな場所、あったろ。昔の映像で」
誰も否定はしない。
優司の動きだけが、誰よりも早かった。
誰もが苔と空気の異質さに一瞬立ち止まる中で、彼はすでに、ロケットの背面に手を入れていた。外装の隙間に食い込んだ胞子を払い、配線の焼損箇所を洗い出す。
指先は正確に動き、動作に迷いはなかった。まるで、自分の体を修理しているような手付きだった。
この星の空気は、完全ではない。
体内に重さが残り、胸に淡い違和感がこびりつく。
だが彼はそれを“許容範囲”と判断した。検査値では語れない身体感覚──それを信じて、今、自らこの場に立っている。
宇宙服の外装を最初に外したのも、彼だった。
それは“勇気”ではなかった。
ただ、「確かめるべきものがある」という、それだけの理由だった。
酸素の比率、苔の拡張性、電力循環、破損個所──
どれか一つでも見誤れば、死ぬ。
それでも彼は、仮設的な補修を続けていた。火は消えても、構造はまだ残っている。ならば、“繋げ直せばいい”。
ひとつ部品を嵌め、焼損部を塞ぎ、次のケーブルへと手を伸ばす。
その手の動きに、誰も言葉を挟まない。
黙って行動を始めた者たちの中心に、彼はいた。
誰よりも冷静で、誰よりも真っ直ぐに、“動ける限り”を試していた。
──その様子を、エルナはじっと見つめていた。
少女が眠る洞窟の入口近く──あの位置でだけ、彼女の呼吸は落ち着いていた。
だが逆に言えば、あの環境が“彼女にとっての生理的な基準”だった。
少女のすぐ脇、斜面に足をかけるようにして、カリームが膝をついていた。
環境端末と小型スコップを交互に持ち替え、苔の端を慎重に採取している。胞子が触れた表面はわずかに変色しており、風が通るたびに光の濃淡が揺れていた。
採取したサンプルを密閉容器に収め、次に取り出したのは簡易の燃焼試験具だった。
金属板の上に苔を薄く置き、わずかな熱を加える。その瞬間、苔が微かに膨張し、白い蒸気のようなものが立ち昇る──だが、炎は生じない。
彼はひとつ頷き、記録を残した。
「可燃性なし……今のところは、な」
自分にだけ聞こえる声で、そう零す。
数値を鵜呑みにするつもりはなかった。酸素を大量に吐き出すこの苔が、“何と混ざれば”火になるか──それは、誰にも分からない。
だからこそ、危うい火種を近づけるのではなく、“あらかじめ消火剤を散らしておく”ような発想で考えを巡らせていた。
今後の炉再起動──その時、この空気が“味方”になるか“爆薬”になるか。
そばでは少女が眠っている。まだ寝返りを打つほどの体力は戻っていない。
彼女の額に一度だけ目をやると、カリームは静かに別の苔へと手を伸ばした。
守っているつもりはなかった。ただ、この空気が彼女にとって“生きられる空気”か、“罠”かを、確かめる必要があった。
優司たちは、今も宇宙服を着ている。酸素供給を限定し、重力対応の外装を維持したまま、動いている。
──このままずっと“内部に籠もって”生きられるわけがない。
そんなことは、誰もが分かっていた。
エルナは優司の背中を見ていた。
洞窟奥、苔に侵食されたロケットの側で、彼は無言のまま配線を組み直している。姿勢に乱れはない。呼吸も、作業も、いつもの優司だった──外から見れば。
だが彼は、初めて“装備なし”でこの惑星の空気に晒された。
少女を運び出すとき、彼が着ていたのは、ただの外装服。冷却装置はあっても酸素供給はない。つまり──彼はこの空気を、そのまま吸ったのだ。
エルナは記録端末を開き、すでに採取していた彼の生体データを呼び出す。
呼吸数、脈拍、皮膚の水分量、体温。どれも許容範囲に留まっていた。だから一度目のスクリーニングでは「異常なし」と判断された。
だが、引っかかった。
──目の動き。
スキャンには現れない微細な瞳孔の反応が、呼吸の遅れとほんのわずかにズレていた。
彼は“酸素が少ない”ことだけではない、別の何かに抵抗していた。
エルナは立ち上がり、無言で優司のそばへ歩み寄る。
作業を邪魔するつもりはない。だが、医療班として確認すべきことがある。
「優司」
彼の指は止まらない。そのまま言葉も返さず、配線をつなぎ続けている。
エルナは胸ポケットからスキャンバンドを取り出し、彼の手首を軽く取った。無言のまま。
優司は抵抗しなかった。
作業の合間に手を差し出すように、何も言わず測定を受け入れる。
表示された数値を、エルナは見下ろす。
「やっぱり、あるわね……酸欠反応とは違う」
声は冷静で、記録用の口調だった。
「炎症値が微かに上がってる。気道か、もしくは……微細な神経伝達系」
これは仮説だ。だが、重要な仮説だ。
“この空気は、ただ酸素が少ないだけじゃない”
彼が受けたのは、“異物との最初の接触”だったのかもしれない。
エルナはスキャン結果を保存し、視線を外さず言った。
「……今夜、必ず再測定するから。逃げないで」
返事はない。
だが、それでよかった。
エルナが記録端末を閉じ、静かに言う。
「……あとで、血液検査。肺の浄化機能も含めて、順に確認しましょう」
誰に向けた言葉でもない。だが、それは全員の“これから”に向けた宣言だった。
外は生きている。
苔は酸素を吐き、胞子を散らし、この洞窟を自分のものにしていく。
だがそれは、“敵”とは限らない。
「この空間に、適応する」
言葉にはされないその意志が、各自の動きの中に滲んでいた。
誰も指示を出していないのに、カリームはロケットの横で苔を払い、地面の傾斜を確かめている。
レオは、ロケットの外装を一枚ずつ見ていた。
焼けた板金、歪んだ支持パーツ、剥がれた遮熱材──ひとつひとつを手に取り、音を立てずに並べていく。誰に言われたわけでもない。ただ、“誰かがやらなきゃ”という沈黙が、彼の中には最初からあった。
端から見れば、それは雑多な瓦礫の整理だった。
だが彼の目は、もう少し先を見ていた。
──「使えるかもしれないもの」
──「誰かが後で必要とするもの」
その両方を、ほんの一手先の映像として思い描いていた。
破片の山から、銀色のパーツが転がり出る。
かつて彼が整備した冷却ユニットのカバー。割れてはいたが、形は残っていた。
レオは少しだけ眉を上げ、指でなぞるように撫でた。
「……まだ、動けるな」
誰にも聞かせない、ほとんど独り言だった。
そのまま彼は姿勢を低くし、次の山へと手を伸ばす。
指先の動きに迷いはない。まるで、ここに何があるか最初から知っていたかのような動き。
火が消えても、酸素が狂っても、地面が軋んでも──
彼は止まらなかった。
“今、手を動かせること”を探している限り、希望の火種はどこかに残っていると知っている。
マリアは工具の点検を始め、酸素分圧に対応した簡易マスクの改良に取りかかっていた。
クレールはロケットの発熱コアを確認し、内部の火種が生きているかを確かめたあと、ロケットの外縁に背を預けていた。
足はまだ本調子ではない。装具で固めた関節をかばいながら、ゆっくりと視線だけを動かす。焦げた外殻、ねじれた板金、そして──奇跡的に持ち堪えた接合部。
彼女の眼差しは、それらの間を穏やかに往復していた。
指は動かさない。触れて確かめなくとも、破損の“呼吸”のようなものが見えてくる。
数メートル先、レオが分解されたパーツの山を整理している。彼の背が動くたび、クレールは視線で追う。だが声はかけない。今は、声よりも空気の音を拾う時間だった。
彼女が見ていたのは、損傷そのものではない。
──「壊れたこと」に誰がどこまで気づいているか。
──「使えるもの」がどこにあるか。
──「次の一手」に、どれだけ静かに繋げられるか。
そうした“隙間”を読むように、視線を滑らせる。
足元に転がってきたパーツを、レオが片手で拾い上げる。クレールは一瞬だけ眉を上げた。
それは、以前彼女が組んだ冷却補助ユニットの一部だった。焼け焦げてはいたが──
「……形は、残ってる」
声というより、呼吸に近い。
その小さな呟きが、場に一つだけ“次の選択肢”を置いた
そして──優司は沈黙のまま、工具を握り直す。
“地面”を見た。まだ濡れていたが、わずかに平らな岩が並んでいる。
──ここを、拠点にする。
その無言の選択が、静かに始まっていた。
火は消えていない。
この静けさの下で、誰もが選び始めている。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.034】
墜落機体、苔生す洞窟にて一時的安定を確認。
内部空気は呼吸可能域。ただし、影響因子を含む未確認成分あり。
生存に向けた“第一の選択”が下された記録を、ブックマークに登録することを推奨。




