第33話 まだ、息をしている
静かすぎる場所には、かすかな音がよく響く。
静かだった。
風はなく、水音も遠い。
わずかに軋む音が、ロケットの車体からだけ聞こえていた。
レオの手が、レバーにかかる。
押さえつけるでも、離すでもない。重さを感じているだけのようだった。
軌道の下に敷かれた木材が、微かに軋む。
クレールは、端末を見た。出力は落ちている。加速度も、限界を割っている。
このままなら──止まれる。
誰も言葉を発しなかった。
ただ、滑っている。静かに、重く。
レオが息をひとつ吐き、視線を落とした。
クレールはスラスター補助の画面に触れ、手を止める。
“ここ”で止める。
言葉にはならなくても、その意志だけが共有されていた。
加速限界を超えた圧力が、船体を軋ませる。
レオの目が、警告表示に焼き付いたまま動かない。
出力値が限界を超えて落ちていく。船体が軋み、警告が走る。
レオは咄嗟に操作盤を掴み、全身に力を込めた。
「信じてるぞ、お前ら……!」
レオの声が、震えとともに走った。
「──任せろ、抑える」
その声は、静かだった。
クレールは何も言わない。ただ、表示を切り替え、次の動作へと移った。
「止まれぇ!」
彼が叫ぶと同時に、ロケットが水場に突入した。
水を巻き上げながら、一気に減速──するはずだった。
ロケットの下部が水を弾いた。水場に落ちる直前、クレールはスラスター出力を調整しながら、減速のピークを水面に合わせていた。
──止める。ここで。
丸太が跳ね、バランスが崩れ、想定よりも深く水に突っ込む。摩擦抵抗のはずの水が、逆に加速の助けになった。
減速のタイミングが、ずれた。
クレールの目が、端末の加速度グラフを追い越した。
──無理だ、このままじゃ止まらない。
想定を外れた。計算は崩れた。だが──制御は、まだ捨てていない。
“正確に絶望する”ことが、私の仕事だ。
だが、ぶつける気もない。
クレールは反射的にスラスターの手動制御に切り替え、左右の偏向ノズルを操作する。
「角度補正、進路制御」
誰に言うでもなく、息のように呟きながら、彼女は指先でロケットの軸を滑り込ませていく。
突入するのではない。滑り込ませるのだ。
火花のように細かなスラストを断続的に点火し、機体の進行方向をわずかに修正しながら、クレールはロケットを“乗せた”。
四方を、黒く濡れた岩肌が囲んでいた。傾斜のついた断崖と、巨岩が積み重なり、まるで“壁”のように迫る。
三方を、黒く濡れた断崖が囲んでいた。滑らかさとは無縁の、ごつごつとした岩肌。水場の奥、山肌そのものが剥き出しになったような傾斜のついた断崖と、巨岩が積み重なり、巨大な壁が迫る。
だが、その一角──ほんの数メートルの“隙間”だけが、ぽっかりと空いていた。
クレールは、そこを選んだ。
壁ではなく、洞窟の“空間”に。
「進路、切り替え。進入──開始する」
押し殺した声で、それだけ告げた。
(崩れたら終わる。止まらなければ、全員が死ぬ)
だからこそ──導く者は、震えてはならない。
クレールは、指先に全てを乗せた。
機体の角度は、洞窟の軸に対してわずか五度以内に収まっていた。
それを見たとき、彼女は“入る”と判断した。
「進入します!」
クレールが叫ぶ。レオがブレーキを逆方向へ捻る。
──落ちる。
わずかに船体が傾ぎ、左側面が床に触れる。
衝撃はなかった。代わりに、苔がふわりと舞い上がった。
そこは、以前の探索では踏み込んでいない奥の空間だった。
天井は高く、空気の匂いがわずかに変わっている。
発光する苔とキノコの群落が地面を覆い、触れれば沈み込みそうな柔らかさで、胞子が霧のように漂っていた。
抵抗を抜けた瞬間、機体の前方がふっと沈む。
光を反射する胞子の膜が、地表をまるで呼吸するクッションのように揺らしていた。
──だが、クッションにも限界はある。
「──っ、ぶつかる!」
咄嗟にレオが叫ぶ。直後、船体前部が軋む音を立てた。
潰れた苔が胞子を舞い上げ、白い靄が視界を包む。
ブレーキ代わりの丸太が弾け、後部で金属の悲鳴が響いた。
機体は一度だけ、きしりと声を漏らす。
そのとき、機体が何かに引っかかった。
《ゴギィッ!》
後方。ロープが限界まで張り詰めた。
ロケットに括りつけられていた支柱に、丸太の束が洞窟入り口や内の天然岩柱に突っかかり、弾かれるように衝撃が返ってくる。
船体が浮きかけ、斜めに揺れ──
《ドンッ》
ロケットは、その苔の上に片側を預け、軋む金属音のあと、機体はわずかに沈み──それきり、動きを止めた。
機体側面には、わずかなひしゃげがあった。
──クッションにはなったが、奇跡ではない。重力と質量の現実が、金属の皺となって残っていた。
だが、衝撃は想定よりもはるかに小さかった。機体下部を覆ったのは、緑と青の光を滲ませる奇妙な群落──
苔とも菌糸ともつかない、発光する柔らかな植物が、洞窟奥の床を覆っていた。
まるで、ここだけが“別の生態圏”に属しているかのように。
内部に、誰も声を出せなかった。
警告灯だけが赤く点滅し続けている。
機体がわずかに跳ね、そのまま沈み込むように止まった。
警告灯が、なお赤く明滅している。
だが、音はない。動きもない。誰も、喉を鳴らさなかった。
一瞬のあと──マリアが表示に視線を戻す。
点滅する表示を見つめたまま、ぽつりと漏らす。
「……支持、抜けてない。ギリ……耐えたわ」
それでも、誰もすぐには動けなかった。
脳が追いつかず、指が反応しない。
ただ、目の奥が勝手に滲んでいた。
それでも、誰も泣かなかった。
ひとり残らず、“生き延びた”という現実に──静かに、耐えていた。
かすかに、“人間の気配”だけが戻ってきた。
それはまだ、音にも言葉にもならない──生の輪郭だった。
突然、警報が鳴った。
ロケット内部の酸素センサーが反応し、甲高い警告音が艦内に響く。
レオが咄嗟に操作盤を振り返る。クレールは環境制御画面に切り替え、マリアが即座に酸素供給ラインの出力値を確認する。
エルナも端末を操作し、濃度と分圧のログに目を走らせた。
「上がってる……酸素圧が」
マリアの声が落ちる。
だが、どの装置にも“流出”は記録されていなかった。
上がっているのは、供給側の異常ではない。環境自体の変化──洞窟内の空気そのものに異常が生じている。
「……減ってない」
エルナが小さく言う。
その声に反応するように、全員が沈黙した。
──酸素が減っていない。むしろ、増えている。
エルナはフィルターのログを素早く引き出し、外部吸気と内部空気の組成変化を確認する。
洞窟内部の空気は、わずか数分で人間の基準値を越えかけていた。
「苔か……」
クレールが端末を操作し、天井の発光菌と酸素濃度の相関を照合する。
そのときだった──
少女が、小さく咳き込んだ。
全員の動きが止まった。
振り返ると、少女が壁際で肩を震わせていた。目を伏せ、浅く、速く、苦しそうに呼吸している。唇の色が、明らかに薄くなっていた。
その表情は、言葉にできないほど苦しげだった。
エルナが最初に動いた。
「酸素、違う……?」
その一言で、マリアとクレールも即座に理解した。
女子会の中で話していた、あの仮説──「彼女の生理基準が私たちと違うかもしれない」。
「この空気、彼女にとっては……毒ね」
マリアが静かに断言する。
“適応していない”のではない。“最初から別の条件下で育った”、それだけだった。
すぐに様子を確認しようと歩み寄り──視線の端で、誰かの影が少女に近づくのが見えた。
──優司だった。
彼は何も言わないまま、すでに少女の側にいた。
しゃがみ込み、その身体を見下ろしている。
いや、“観察している”というべきだった。
その視線は、苦しむ人間を見つめるものではない。
まるで──“壊れかけた機械”の異常反応を確認する整備士のように。
肩の上下、肺の動き、脈の速さ。皮膚の色。
優司はそれらを、数値ではなく“感覚”で捉え、静かに判断した。
エルナは、少女の呼吸と数値を一瞥し──即座に言った。
「洞窟の外。空気が変われば、落ち着く可能性が高い」
彼の腕が、少女を抱き上げる。
手に迷いはない。
重量に反応することもなく、ただ、その小さな身体を保持し、確実に運び出す準備を終えていた。
──外の空気。影響が届かない、生の風が届く場所へ。
マリアとクレールが顔を見合わせ、声をかけようとしたが──やめた。
その背が向かっている先を見て、すべてを理解した。
少女の体を抱きかかえたまま、優司はロケット外へと向かって歩き出す。
機体が滑り込んだ際に抉った地面が、そのまま一本道の轍になっている。
湿った苔が削れ、茶色く乾いた地表が露出していた。
その道を、彼はまっすぐに進む。
──風がある。
優司の歩みが正確に進む。
湿気の濃度を感じ取り、まるで修理対象の機器を“破損させないように”搬送する技術者のように。
言葉はない。ただ、行動だけが、正確だった。
進むごとに、空気が変わっていくのがわかった。
苔の甘い香りが消え、濃すぎた酸素の膜が剥がれていく。
少女の体から、ほんのわずかに力が抜けた。
肩の動きが落ち着き、呼吸の速度がわずかに整う。
それでも優司は何も言わない。
手元の“装置”の状態が安定してきたことを、ただ確認するだけだった。
入り口は、見えていた。
ロケットが通ってきた穴の先、うっすらと自然光が漏れている。
風はそこへ向かって流れており、苔の胞子も届かない。
そこで、彼は止まった。
ゆっくりと膝をつき、少女の身体を地面へ預ける。
少女は、浅く息を吐き──そのまま、眠るように目を閉じた。
優司の肩が、わずかに上下した。
呼吸が荒くなっている。
フィルター付きの外装服は着ていたが、酸素供給機能までは搭載していない。
ここまで急ぎすぎて、“装備を選ぶ時間すらなかった”。
それでも、彼は戻ろうとしなかった。
自分の苦しさより、優先すべき対象があった。
この場所に少女を置くこと。そこで安定するまで、離れないこと。
──それだけだった。
後方では、マリアが一歩だけ進み出て立ち止まる。
声はかけなかった。かける必要もなかった。
少女の呼吸は、落ち着いていた。
優司は、その様子を見届けてから──目を閉じるように、深く、長く、呼吸を繰り返していた。
入り口付近に出たとき、空気が変わった。
風が通る。冷たく、やや薄い。だが、そこには苔の胞子も、過剰な酸素もない。
少女の身体が、優司の腕の中で、肩の揺れが静まっていく。
呼吸が落ち着いていくのが、明らかだった。
一方で──優司の肩が、わずかに揺れていた。
呼吸が荒い。
全身を冷却装備で包んではいても、宇宙服の酸素供給はしていない。
この空気は、少女にとって“ちょうど良い”が、彼にとっては“薄すぎる”。
それでも、彼は立ち止まらなかった。
少女を地面に降ろすまで、一度も息を乱したことを口にせず、咳ひとつ漏らさなかった。
──その場に“いなければならない”と判断したからだ。
少女の身体をそっと地面に預けると、優司はゆっくりと後ろに下がる。
呼吸は、確かに苦しそうだった。だが、視線だけは前にあった。
少女の呼吸が落ち着いていくのを確認したのも束の間、奥からふたりの足音が近づいた。
優司の宇宙服を抱えたマリアと、酸素量を最小に調整した予備装備を持ったエルナが、岩肌を伝って姿を現す。
「優司、これ──」
マリアが宇宙服を差し出し、優司が黙ってそれを受け取る。
エルナはすぐに少女の脈を取り、呼吸のリズムを確認。
マリアは手早く環境測定端末を翳し、空気の質と変化を読み取った。
「数値、安定してる。心拍も落ち着いた」
「この位置──苔の酸素は届いてない。彼女には、こっちが合ってる」
医学と環境の双方から、答えは明らかだった。
ふたりは顔を見合わせ、わずかに頷き合う。
エルナが軽く肩を回し、少女の様子を見守る。
マリアは、その視線の先で、呼吸の重さを隠さずに立ち続ける男の姿を見た。
静寂が戻りかけた洞窟の入り口。
その空気を、荒い足音が切り裂いた。
「──っ、おい! 全員……無事か!?」
宇宙服の足を引きずるように、カリームが洞窟へと駆け込んできた。
装備の肩を上下させ、酸素の調整音がわずかにスピーカー越しに漏れる。
重力二倍の環境下で全力移動してきた代償が、全身から伝わっていた。
誰かが倒れていないか、酸素が切れていないか──
全員の顔を、目で追った。
……だが、クレールとレオの姿が、見当たらない。
一瞬、心臓が嫌なふうに跳ねた。
音も応答も、外からは聞こえなかった。
「……クレールとレオは!?外から見てても、音も反応も途切れて──」
短く、息を継ぐように言葉をつなぐ。
「止まる予定、……水場だったよな? なんかトラブルでも、あったか?」
その声には、怒りも責めもない。
ただ、“何かあったのか?”という、確認と焦りだけがあった。
マリアは一歩だけ振り返り、唇の端を、わずかにゆるめた。
その仕草は微笑みとも、ただの呼吸ともとれたが──
不思議と、誰も目を離せなかった。
「無事よ。ふたりとも、ロケットの確認をしてる」
その一言は、熱でも冷たさでもなく、ただ真実だけを伝えていた。
声には余裕があり、それでいて甘さはなかった。
「少し、ね。……予定より、深く沈んだだけ」
彼女はゆっくりとロケットの奥に視線を向ける。
「でも──その程度で吹き飛ばなかったのは、あなたの仕掛けがよくできてた証拠よ」
声は柔らかく、まるで熱を帯びた空気が言葉の形を借りて流れ出すようだった。
カリームは一瞬だけ視線を向け──すぐに少女に目を戻した。
「……この子、平気か?」
「今は安定してる。エルナが見てる」
マリアが淡々と答える。横ではエルナが無言で頷いた。
カリームはわずかに身を屈め、少女の額に目を落とす。
その表情に、一瞬だけ“外に置いてきた自分”への悔しさがにじんだ。
「……酸素濃度、やっぱり異常値」
端末を覗き込んでいたエルナが、ぽつりと呟いた。
「この苔──おそらく、酸素を過剰に生成してる。胞子との関係性は未確定だけど……生体反応は一致してるわ」
マリアもその横で測定ログを確認しながら頷く。
「光合成のサイクルが不自然。発光と連動してる。……一種の適応型かもしれない」
「まだ確証はない。でも、いまの環境──この苔のせいで酸素が増えてるのは、まず間違いない」
ふたりの言葉に、カリームがすぐ反応した。
周囲を見渡し、岩の傾斜、苔の発光、湿度の揺れを目で追う。
洞窟の内圧、酸素分布、推進の痕跡──全体を掴もうと、息を整えながら視線を巡らせた。
仲間を背負えなかった者に残された“次の役目”を探し、彼は動き出す。
「端末、貸してくれ」
マリアが無言で差し出した環境端末を受け取り、数値を一瞥。
「……もしこの胞子が可燃性だったら、次に熱源が入ったときに爆発する。再点火の可能性もある」
声は抑えていたが、行動には迷いがなかった。
カリームの中で、悔しさと責任はすでに──
「今この場で、命を張って返すべきもの」に変わっていた。
……仲間が命懸けで繋いだこの先を、
後から来た自分が繋ぐことだった。
ロケットの内部で、クレールがひとつ息をつき、モニターを見つめる。
数値は安定。エラーも出ていない。
だが彼女の手は、操作盤の上で止まったままだった。
止まったのは、火だけじゃなかったのかもしれない。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.033】
滑走終了。機体は苔群落上にて制動。全員生存。
内部環境に酸素過多反応あり。少女の症状は安定。
作業班はロケット後部を確認中。
ただし、異常なしの中で操作を止めた者がいる。
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