第32話 この火は、止まらない
息を吸った。それだけで、命が傾く気がした。
誰も、何も言わなかった。
最初に動いたのはレオだった。音を立てぬよう、操作席に歩を進める。
足音を吸い込むような空気の中、彼は静かに座り、右手を操作レバーに置く。指はまだ動かさない。
その背後で、クレールが端末に接続ケーブルを差し込んだ。
スラスター制御パネルの画面が立ち上がり、ブロック単位で再起動シーケンスが走る。カウントダウンは開始されていない。それでも、全員の胸の中では、もう始まっていた。
優司はその二人の背後、配線の間に腰を落とし、冷却チューブとケーブルの最終固定を手早く確認していた。
音を出さず、手の感触だけで締め付け具のズレをなぞり、ひとつだけ微調整する。
「……準備完了」
クレールが告げた。だが、誰も動かなかった。
レオの指は、まだレバーの上に置かれたままだ。
ほんのわずかに震えていた。それは、冷気のせいでも、恐怖のせいでもない。
ただ、“この一秒が最後になるかもしれない”という現実が、身体の奥で脈打っていた。
マリアが炉の脇から視線を外し、クレールと目を合わせる。
その一瞬、何かが通じたように、クレールは静かに頷いた。言葉はいらない。
「──いけるのか」
レオが、誰に向けたでもない声を落とす。
返事はなかった。
だが、優司が最後に工具を置いたその音が、答えの代わりだった。
彼の手が、炉の側面に一度だけ触れる。
──命を載せるには、十分だと判断した、それだけの合図。
端末には、**“起動条件:全項目クリア”**の表示。
その瞬間、マリアが黙って横を通り、炉本体の脇にしゃがみ込む。
起動直後にスパークが走る箇所に指先を添え、必要最低限の配線処理を手早く、無言で行う。
カリームは外にいた。
ロケットと丸太、ロープの位置を一つずつ視線で確認し、最後尾の固定ポイントに腰を落とす。片膝をつき、手袋越しにロープの張りを探る。
この位置──ブレーキの支点だ。
ロケットの基部には、あらかじめ滑車を通じて伸ばしたロープの末端を“丸太の束”に繋いである。動き出せば、後方の木々に丸太が引っかかり、自然とブレーキがかかる仕組みだ。
だが、問題は“その瞬間”だった。
タイミングを間違えれば、ブレーキがかかる前に荷重が逆流し──仲間ごと、吹き飛ぶ。
内部の空気が、ほんの少しだけ熱を帯びた。
誰も呼吸を乱さない。いや、呼吸を“止めている”。
その沈黙が、逆に全員の集中を一つに結ぶ。
優司は、最後まで言葉を発さなかった。
だが、それが「黙って賛成した」のか「覚悟を飲み込んだ」のか──誰にもわからない。
ただ、彼が工具を置いたとき、レオはレバーに手を置いた。
レオが最後の確認スイッチに手をかける直前──。
その場の全員から聞こえる、わずかな呼吸音。
酸素濃度は安定、気圧も保たれている。座標と角度の誤差は端末上で青く点滅しているが、許容範囲だ。だが、誰も言葉を発しない。
沈黙の中、手袋の音だけが、わずかに重く響いた。
マリアは背後のハーネスに自らの命綱を通し、背筋を立てる。クレールは照明を落とし、端末のロックを解除。エルナはスピーカーの音量を最小に落としたまま、応答ランプを見つめている。
音を出さぬように、全員が“備えた”。
まるで、何かを祈るように。
──あるいは、何かを手放すように。
この手で起動させるということは、その責任を全て背負うことだ。
逃げ道はない。もう引き返せない。
レオはゆっくりと息を吸い、肩を落とした。
レオの指が、スイッチの上に浮いた。
押すでもなく、離すでもなく。
空気は、止まっていた。
息をしているのかさえ、もう誰にもわからない。
ただその指先に──全員の命が、掛かっていた。
レオの肩が、ほんのわずかに下がる。
「……カリーム、外は任せた」
誰も返さない。誰も、言わない。
それでも、ロケットの外にいる男の影だけが──“応え”だった。
通信に応答はない。だが、背後の小窓には、外部遮蔽パネルの隙間から──立ったままロケットを見つめる影が映っている。彼もまた、言葉ではなく、その場に立つことで“参加していた”。
カリーム、外にいるのは、彼ひとり。
けれど、それは逃げ場所ではない。
「誰かが止める場所には、誰かがいなきゃならない」──それが彼の答えだった。
マリアが壁に手をつき、振動の伝達を直接感じ取る。
──まだ、行ける。
それは爆発の合図ではない。
命を載せた炎を、“走らせる”ための解放の号令だった。
これを止める。何としても。
──でももし、止められなかったら?
その問いを、カリームは何度も飲み込んでいた。
優司は装置の端末前。マリアは接続系統を双方向で監視し、レオは機内後部の加圧弁の前。クレールは俯いたまま、腕の端末に手を添える。
全員が“同じもの”を見ていた。──核融合反応。点火は一瞬。だが、暴走すれば、ロケットごと吹き飛ぶ。
「命を懸けるってのは、死ぬ覚悟じゃない。生き残って、全部背負うってことだ」
レオは息を吸い、誰にも向けず、誰にも待たずに言い放つ。
「──皆、準備いいか?」
レオの言葉が落ちる。
誰も応えない。
だが、そのわずかな間に──誰一人、視線を逸らさなかった。
レオは一度だけ瞬きをし、操作席にわずかに体を預けた。
その背に集まる視線を、無言のまま受け止める。
そして、操作レバーを握った。
呼吸の底で、何かが軋むように崩れた。
身体の奥にあった「まだやれる」の最後の一滴が、そこで零れた。
「──行くぞ」
──サブエンジン、オールグリーン。
どこかで、誰かの息が詰まる音がした。
「だったら──俺が、この火を点ける」
そう言って、レオは手を伸ばした。
迷いも、逃げ道も、もうどこにもなかった。
──失敗したら、みんな死ぬ。
そんなの、誰も言わなかった。
けど、誰よりも先にこのレバーに触れたのは自分だった。
だったら──もう、迷う理由はなかった。
「点火……三秒前」
クレールの声が落ちた。
三。
静寂。誰の呼吸も聞こえない。ただ、端末の表示が、一秒ごとに赤く点滅する。
二。
マリアがごく小さく、手のひらを拳に変えた。誰にも見えない場所で。
一。
エルナが、目を閉じた。口元は、きつく結ばれたまま。ほんの一瞬、まつげが震えた。呼吸すら、許されていないようだった。
「──点火」
レバーがわずかに沈み、信号が走った。
何も言わずに──ただ、全員の視界が前を向いた。
指が触れた。その一瞬、世界が止まったように感じた。
……何も起こらない。
誰もが、内部のどこかで覚悟を深めかけたとき──
「……来た」
マリアの声が、かすかに震えた。次の瞬間、制御盤が点滅し、反応炉内の熱量表示が急上昇する。
続いて、ロケット全体が、ごくわずかに、軋んだ。
「点いた……!」
レオが叫ぶより先に、地面が、ごく微かに振動した。
「──これが、俺たちの火だ!」
レオが、喉の奥からしぼり出すように叫んだ。
声は震えていたが、誰よりも真っ直ぐだった。
その瞬間、全員の動きが止まった。
クレールの指が操作パネル上で微かに震える。だが、ためらいはなかった。
彼女は右手を静かに持ち上げ──そして、押した。
──点火信号、送信。
──点火。
反応炉の底部で、鈍い唸りが立ち上がる。
振動はまだない。だが、金属フレームの底が“揺れる準備”を始めた。
炉内の流体が回り始め、推進室の端にある圧縮バルブが順に開いていく。
「出力、上がってきてる」
クレールが短く言う。だが、その言葉も全員には必要なかった。
彼らの背中には、確かに“火が育っていく”音が届いていたからだ。
沈黙。
ほんの数秒──だが、永遠のように伸びた。
レオが喉を鳴らした音すら、室内に反響する。
マリアは無言で両目を閉じ、一度だけ深く息を吸う。
エルナは表示画面を睨んだまま、眉ひとつ動かさない。
音が、消えた。
空気も、鼓動も、時間さえも。
外の風も、岩にしみ込む水の気配も、誰の呼吸すらも──何も聞こえない。
世界が、止まった。
……そして。
“何かが引き裂かれる音”が、耳を突き破った。
次の瞬間、ロケット後部から、鋼を叩き割るような轟音。
全員の視界が、揺れた。
それが「生きている」という証だった。
世界が、息を呑んだ。
そして、爆ぜた。
機体後部から、轟音。
鋼を殴りつけるような金属振動が、船体を貫いた。
「推進剤、着火!ブレードに伝わった!」
クレールの声も一段高くなる。モニターの表示が一斉に切り替わった。
──全身が、背もたれに叩きつけられた。
骨が軋み、内臓がずれる。
視界がぶれ、耳の奥で何かが割れる音がした。
それでも、速度は止まらない。
重力が、一段、また一段と跳ねる。
押し潰す力が、皮膚を沈め、血を遡らせる。
骨が内側から軋み、神経が焼けるようだった。この加速は、味方ではない。
──沈み込む。
次の瞬間、重力が跳ね上がった。
視界の端が引き裂かれ、身体が椅子に縫いつけられる。
制御はしている。出力は最小。だが、それでも──加速する。
逃げ場はなかった。推進剤が燃えた以上、この機体は“走る”しかできない。
止めるには、まだ早い。
制動のタイミングを、間違えれば即座に横転する。
マリアが即座に冷却系と駆動補助のモジュールに視線を走らせ、わずかに唇を噛む。
背後で機体が軋む。
全体が、動き始めた。
警告灯がひとつ、赤く灯った──
「振動過大、後方支持が──!」
クレールが表示を睨んだまま、ほんの一瞬、指を止めた。
レオの喉が、ごく小さく鳴る。
恐怖は、這い上がって当然だ。──だが、手は止めなかった。
モニターのグラフが一瞬、波打った。後方の軸が、限界値ギリギリまで振れている。
光と音と命が、すべて一点に集中する。
死ぬか、生きるか──
いま、全員が本気で未来へと進んでいる。
優司は、何も言わない。
だが、ブレードの数値が微かに揺れた。
その揺れを、クレールが確認し──ふ、と息を吐いた。
「……制御、入った。次の臨界に移行する。振動値、収束中」
クレールは、レオの手元を見ていた。
あのブレの中で、恐怖に呑まれなかった男。
(──信じていい)
そのわずかな確信が、彼女の判断を支えた。
信じたのは数字じゃない。
あの瞬間、彼の手が──誰よりも先に恐怖を追い越していた。
次の瞬間、振動が落ち、赤から青へと変わる表示が一つ、二つ──
誰かが、笑った。誰かが、泣きそうな顔をした。
誰も、言葉にはしなかったが──全員が、感じていた。
遠くで、岩に擦れる木の軋みが聞こえた気がした。
あの重たい世界に、“音”が戻ってきていた
床が震えた。重たい塊が、地面を這うように滑り出す。
そして、炉の咆哮が遅れて届いた。
重低音の中で、ロケットは丸太の上を滑る。
──でも早すぎる。
丸太が悲鳴を上げる。ブレードの噛み合わせが、わずかにずれた。
クレールは端末を睨みつけ、視界の端で、赤い表示が点滅するのを見た。
「落とす」
声は低く、揺れていなかった。
判断ではない。“反射”だった。
全体を動かすのは、クレールの制御だ。
だが、その意思を“前線に伝える”のは、レオの手。
照準と速度、ブレード角の微調整を送信しながら、クレールはモニターの一行に、ふと目を留めた。
──誤差、0.7秒。まだ縮められる。
右手が走る。次の指令を即座に入力し、レオの軌道補正へとつなげた。
「行ける。次、もう一段階落とす」
誰にでもなく呟いた声に、熱が滲んでいた。
クレールが低く呟き、手首を反転させて出力値のグラフを呼び出す。
タブを一つ、二つ──。彼女の指先が数値の下限に触れた瞬間、推進出力が急降下した。
レオが出力抑制のレバーを押すが、間に合わない。
「──頼む、止まってくれ……!」
その声だけが、音に呑まれていった。
反応は、なかった。
音も、映像も、何も返ってこない。まるで、叫んだ声が宇宙にでも吸い込まれたようだった。
それでもレオは、手を止めなかった。
モニターの端で、誤差がわずかに縮まっていく。その数値を睨みつけながら、彼は細かくレバーを押し戻し、角度を補正する。
──これは、戦闘じゃない。
でも、命を賭けた操縦だ。
「頼む」と願ったのは、ブレーキでも、機体でもない。
自分自身に、だった。
止まれ。ぶれずに。全員を、守り切れ。
目の奥が熱い。だが、涙は出ない。
ただ、背中に乗ったままの“全員の命”が、レバー越しに伝わっていた。
ただ、背中に乗ったままの“全員の命”が、レバー越しに伝わっていた。
「……これ、速すぎる」
マリアの声が落ちた。
数値は正常だが──彼女は、実際の“感覚”が合わないことを知っていた。
点けたのは、火じゃない。それを背負う覚悟だった。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.032】
起動確認完了。機体は加速状態。
ただし、速度と感覚に齟齬あり。以降の監視と補正が必要。
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