第31話 命を載せる刻
火はまだ届いていない。けれど、誰もがもう燃えていた。
空が、赤かった。
音も、消えていた。
誰も言葉を発さず、誰の足音も響かない。
それでも、全員が動いていた。静かに、だが確かに。
優司の指示がなくとも、マリアは端末を持ち直し、レオは荷重調整のチェックリストを拾い上げた。
クレールは再び照明を落とし、酸素消費を最低限に抑えた状態で、工程分担のメモを整え始める。
──火が点いたのは、炉じゃない。
この場にいる全員の、眼の奥だった。
窓の外、山際の空が鈍く赤みを帯びている。あれは夕日ではない。焼けた煙が、天を焦がしている。
全員が、音もなく動き出す。
命を賭けた最終整備が、いま始まる
酸素計の針が、静かに左へ傾いている。誰も口には出さないが、全員がそれに気づいていた。
冷却装置はすでに限界を超えており、外気の吸気率を下げるたび、内部の息苦しさがわずかに増す。
──時間がない。
その感覚は、装置の数値より先に、全員の皮膚に届いていた。じわじわと熱を帯びる地面。風に混じる、焦げた匂い。
ロケットの陰から覗く、煙の尾。
「明日の朝には……ここまで来るかもしれない」
レオの声は低かったが、誰よりもはっきりと聞こえた。
マリアが視線をそらし、クレールは端末の画面を閉じる。優司は何も言わず、設計図に指先を添えたままだ。
「……じゃあ決まりだな」
カリームが立ち上がった。大きな手で、壁に立てかけていたバールを取る。
「今夜中に全部整える。整備、調整、点火準備──明日、確実に飛ばすために」
その言葉に、誰も反論しなかった。
無言のまま、作業計画が脳内で組み上がっていく。
それぞれの動きが、これまでよりも速く、正確になる。
火の気配が背後にある。その現実が、全員を“次”へと駆り立てていた。
そして、クレールが動く。
「──明日、出すとしても。今日、やれることはまだあるわ」
すでに端末に目を走らせながら、静かな声で言った。「ロケットの再点火には、全員の確認が要る。推進剤の残量、出力配分、環境変動の計測データ……」
その声は、全員の中に入り込むように響いた。
レオがうなずいた。「やれる調整は全部やろう」
それが号令だった。
マリアは言葉を交わさず、すでに優司のもとへ向かっていた。調整と再点検のための端末を手に、炉のコントロールブロックを確認しにかかる。
クレールは環境データと各自のタスクを整理し、すぐに次の指示を出す。エルナは少女の呼吸を測定し、搬送に備えた装備確認に入る。
カリームは、静かに工具と非常用レバーを持って立ち上がった。必要とあれば即時対応する、そのためだけの動きだった。
外の風は、まだかすかに煤けていた。
炎は、明日には確実に来る。
だが、それより前に──自分たちで空を選ぶ。
その準備の時間が、今日だけは許されている。
金属の縁に、わずかな熱が残っていた。
優司は指先を添え、接合部の裏に潜ませたケーブルの感触を確かめる。硬く、乾いていた。だが、極薄の振動がまだ生きている。昨夜の点火で得た、炉の余熱だった。
反対側で、マリアが無言で位置を変えた。
ロケット内部から外した配線カバーを、剥き出しの接続部に仮留めする。細く削られた留め金が、かすかに鳴った。
工具の受け渡しは一瞬だった。何も言葉はなかったが、それで十分だった。
周囲は暗い。照明は最小限。
光源は端末の画面と、炉の側面で瞬く小さなステータスランプだけ。
音もなかった。風も、誰の呼吸も、聞こえない。
クレールは座ったまま、端末に手を添えていた。
スラスターの出力曲線と酸素供給ラインが交差するグラフを、一定のリズムで確認していく。眼球は動くが、指は止まらない。表示の上をなぞるように、次の項目へ移る。
レオが無言で操作台に向かったのは、その直後だった。
何も言われていない。それでも、自分の番だと理解していた。
操作盤に手をかける。
起動シーケンスは三番。過去に何度も繰り返した手順。だが、今日だけは手が止まった。
ふと──視線がそれた。
壁際のマットに、少女が横たわっている。
布にくるまれ、ただ、目を閉じていた。
それでも、耳が小さく揺れ指先が、毛布の端をほんの少し引いたのが見えた。
音もなく、ただその一動作だけが浮かんだ。
レオは視線を戻し、操作を続けた。
指は止まらない。レバーが静かに動き、端末が応える。
数字がひとつ上がった。
静かに息を吐いて、彼は短く言った。
「動いてる。異常なし」
誰も返事をしなかったが、それでいい。
エルナがそっと姿勢を落とし、少女の傍らに腰を下ろす。
静かに上下している。呼吸は浅く、額に浮かぶ汗はまだ乾かずに残っていた。
彼女は、もう一度だけ、フィルターの通気を手でなぞった。
手を引っ込めると、指先に少しだけ湿り気が残った。
それを、何も言わず布で拭い、ただ立ち上がる。
マリアが背後で視線を滑らせた。
優司の動きと、炉の表示。どちらも止まっていない。
彼女は端末を切り替え、次の制御項目を開いた。
誰も喋らない。
だが、誰ひとり止まっていなかった。
出発は明日。
今日が“命を載せる”ための、最終準備だった。
画面に、赤いマーカーがひとつ浮かんだ。
クレールは小さく息を止め、すぐに更新ログを確認する。再点火試験の残熱。予想より早く冷えはじめていた。
──予定を前倒しすべきか?
迷いかけた思考を、すぐ切った。まだ、動くべき時間ではない。
「レオ、座標ブロック四から八、再入力して」
声は低く、よく通る。
レオは端末をのぞき込み、操作パネルの一角をタップする。反応は鈍いが、異常ではない。
「……問題なし。微調整だけ。出力は維持されてる」
そう言って、彼は一瞬だけ背中を伸ばした。
その視線の先には、作業中のマリアと優司がいる。互いに言葉はないが、手は止まらない。
レオは目を細め、肩越しに振り返る。
「クレール」
呼ばれた方は、声の調子で察した。彼の言葉は、質問ではない。
「成功させるぞ」
その言葉に、何の反論もなかった。
ただ、端末の片隅で酸素供給タイマーが音もなく切り替わる。
カリームが後方で、工具箱の中身を見直していた。
予備の接続パーツ、金属片、固定具、削りかけの留め金。無言でひとつずつ並べ、掌の上で感触を確かめる。
使われる予定はない。だが、すべてを把握しておく。
優司は振り返らなかったが、マリアがわずかに口角を動かした。
エルナは拠点奥の端末で、環境モニタの再確認をしていた。
今のところ、呼吸は保たれている。だが、どこかでリズムが崩れれば──
彼女は立ち上がると、画面を切り替え、可能な限りの調整を。
──運ぶ、と決めた命だ。
その片隅で、少女は目を閉じたままだった。
何も聞こえていないように見えたが、時折、布を引く手が微かに動いていた。
音はなく、空気が揺れるだけ。そのわずかな震えに、誰もが何かを感じていた。
誰も口にしない。
だが、それでも全員が同じ方向に動いていた。
丸太が、一本ずつ転がされていく。
水を吸った地面に沿って、軋みながら沈んだ。
同じ幅。同じ角度。誰も何も言わないまま、間隔が揃っていく。
目の高さからでは列の端が見えない。だが誰も確かめようともしなかった。
一本を据えるたびに、誰かの装備が重くきしんだ。
先頭でカリームが木を抱え、脚を深く割って沈めていた。
靴底が泥に食われる。浮かせないように動き、無理には持ち上げない。
肩で押し、足で止める。木が止まると、また次が動いた。
レオはその数歩後ろで、補助材を拾い、土に挟み込んでいた。
正面を見ないまま、転がった枝を避け、次の間隔に向かう。
呼吸音が短い。装備の中で少しだけ漏れていた。
マリアが木肌の泥を払う。
手ではなく、前腕部の装甲で滑らせる。水分を吸った繊維が、ざらりと音を立てて剥がれた。
クレールは数メートル離れた位置から、誰の動きも遮らず、ただ視線を移していた。
干渉はしない。指示もない。だが歩く場所は、絶対に他と重ならなかった。
木の列は、続いていた。
どの一本が最初で、どこが最後かはわからない。誰もそれを気にしていなかった。
ただ、動く身体が、そこに木を置いていくだけだった。
優司が一度だけ背を伸ばし、空を見た。
何も言わず、次の器具を手に取り、支柱の足元を確認する。
そのそばにマリアが滑るように入り、ずれた固定具を持ち上げる。言葉はなかった。
装備越しに金属が軋んだ。
水気の中で、重さだけが正確に伝わっていた。
優司は、整備エリアの端で、ケーブルの結束を確認していた。
端末には何も表示されていない。ただ、接続点に残っていた湿気を指先で拭い、乾いた布を挟み込む。
その動作が終わると、彼は振り返らずに移動した。
マリアが後を引き継ぎ、接触部にカバーを固定する。
仮留めではない。出発時に負荷がかかる位置だと理解していた。
手元はぶれなかった。空気の揺らぎで作業順を変えることは、もうなかった。
数メートル先、レオが装置の反応系を確認していた。
操作台のリズムをもう一度、指先でなぞっていく。
指の動きはゆっくりだった。速度ではなく、正確さが求められるとわかっていた。
レオが操作台に手を置いたまま、ふっと声を落とした。
「……減速、間に合わなかったら?」
クレールは画面を見たまま返す。
「それでも落とす」
指先がタブをひとつ開き、隣の表示に切り替わる。そこには数値のグラフが重なっていた。
レオが軽く顎を引いた。
「落としすぎたら?」
クレールはそこで初めて彼を見た。
「抑える。あなたが」
少しだけ、レオの唇が上がった。
次の操作に移る指が、わずかに速くなった。
声は冷たくなかった。ただ、明確だった。
その声のあと、ふたつの端末が同時に更新を始める。
ひとつは酸素供給の制御タイマー。もうひとつは、推進システムの臨界判定。
画面は淡い青から緑へ、そして赤へと切り替わっていく。誰も驚かない。予定されていた進行だった。
カリームはその裏で、備蓄ラックを再配置していた。
使わなかった部材、使えなかった金具、傷の入ったパーツ。
手に取って、戻して、並べる。何の意味もないように見えたが、整えておくことだけは守っていた。
エルナが隅の座席に腰を落とす。
小さな端末を開き、環境数値をもう一度見直す。
酸素、気圧、振動。問題はない。だが、その“問題のなさ”が、かえって何かを予感させた。
ロケットの側面に張られたシールドが、かすかに軋む。
金属が冷え始める音ではなかった。何か別の圧がかかっていた。
それが外からか、内からかはわからない。
少女はまだ目を閉じていた。
しかしその眉が、ほんの一瞬だけ動いた。
次の瞬間には、また静かに沈んでいた。
誰も気づかないふりをしていた。
作業を止めなかった。
誰かが小さく息を呑んだ。
それきり、誰も口を開かない。だが、誰も立ち止まっていなかった。
動いていた。静かに、だが確かに。
端末の明かりが、ひとつ、ふたつと落ちていく。
クレールの指が、最後の入力を終えたのだと知れた。
画面に映るタイムラインは、最初の点火予備動作。その後、十五分ごとの操作ブロック。
手順の全ては、すでに記憶している。だが、確認は必要だった。
“失敗できない”からではない。“誰にも譲れない”からだ。
レオは黙って手袋を外し、掌を軽く握って開いた。
操作系の応答に遅延はない。だが、指先の感覚は最後の最後まで確かめておきたかった。
練習は終えている。確認も済んでいる。
──それでも、自分が担うのは「止めること」だ。そこだけは、繰り返し確かめた。
優司は、最後のボルトを締め直していた。
異常はない。けれど、彼はいつも最後の一本をもう一度だけ確認する。
その手が止まるのを、マリアが横で見ていた。声はかけない。ただ、次の装備を無言で差し出す。
それが、彼らのやり方だった。
空は、もう青くない。
拠点の外、山際の空が鈍く赤みを帯びている。あれは夕日ではない。焼けた煙が、天を焦がしている。
カリームが、遠くの空を一度だけ振り返った。
だが何も言わず、装備のチェックに戻る。
物を運ぶ腕ではない。何かが崩れた時に、迷わず動くための準備だった。
エルナは、少女の寝かされた場所に視線を落とす。
温度も維持されている。
それでも彼女は、もう一度だけ座席角度を調整した。体が傾いたときに、どこにもぶつからないように。
少女は目を閉じていた。
だが、目蓋の奥がわずかに動く。
空気の変化か、誰かの足音か、それとも気流の乱れか。何かに反応するように、毛布の内側で手が握られる。
照明は落とされ、代わりにロケット本体の冷光が足元を照らしていた。
火の気配はまだ届かない。だが、匂いはあった。焦げた木の皮の匂い。燃え残った湿気のにおい。
それを誰も、指摘しない。
優司は、構造体の裏に隠したひとつの補強材を、もう一度だけ叩いた。音が、響いた。
レオがそれに気づいて振り返り、何も言わずにうなずく。
クレールが、遠くからその様子を見たまま、操作ログをひとつだけ閉じた。
──火が点いたのは、炉じゃない。
この場にいる全員の、眼の奥だった。
明日、全てが動く。
そして、起動予定時刻まで──
運命の刻は残り僅か。
動く理由は、誰も語らなかった。ただ、それぞれが止まらなかった。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.031】
再点火工程、全項目確認済。真夜中、予定通り始動見込み。
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