第29話 届かない地へ
泥に沈んだのは、絶望か、それとも──
重力で沈んだ地表が、雨に洗われていた。
空はすでに抜けていたが、大地はまだ濡れていた。踏みしめるたび、靴底がぬるりと粘土質の層を掘り、わずかな抵抗とともに足音を飲み込む。
ロケットは、ほんの数十センチ先で止まったままだ。傾いた胴体が、地面に食い込みかけた左側に軸を浮かせている。周囲には泥の跳ね跡、そして──裂けかけた丸太。
レオは黙って膝を折り、手袋越しに丸太をつかんだ。素材は滑りやすくなっており、軽く力を入れるとぬるりと指の間を逃げた。手を離さず、そのまま全体を引き抜き、もう一度角度を変えて差し込む。
ロープに絡まった湿った苔を取り除き、滑車の回転輪に油を垂らす。何度も、何度も指先を動かしながら、彼は口を開かなかった。
「……動かす気?」
声がした。クレールだった。膝を庇うように小型端末を抱え、背後から歩いてくる。
レオは答えない。だが、片方の滑車にかけた視線を動かさず、静かにひとことだけ返す。
「終わってないから」
その一言に、空気が変わった。
クレールは立ち止まり、わずかに肩を下ろす。何かを諦めたような動作ではなかった。納得するように、軽くうなずいた。
「なら……私も記録を再起動する」
足音が戻っていく。代わりに、重い足取りがひとつ、近づいてきた。
「まだやるのか、レオ」
カリームの声だった。返答を待たず、彼はレオの隣にしゃがみこむと、反対側の滑車機構に手を伸ばし、無言で一歩前に出た。ロケットの下側に回り込み、ずり落ちた台車の支持具を確認する。重心が少し左に傾いていた。
「……いけるか」
問いではなかった。レオの背中に向けて、単に言葉を投げた。その声音に、迷いはない。
レオは頷きもせず、ただ次の丸太に取りかかる。丸太はすでに滑り台のように敷かれていたが、少しずつ角度がズレている。推進方向が右にぶれれば、次の押し出しで台車ごと逸れて転倒しかねなかった。
彼は端末でルートの確認をしない。地形の記録データはすでに頭に入っていた。今やるべきは、「押す」のではなく、「流れを整える」ことだった。
カリームが台車の右側へと回り、膝をついた。その背に、泥の跳ね返りが何本も線を引いている。宇宙服ジャケットは、動作に合わせて微かに音を立て、背面のサポート装置が低く唸った。
「合図くれ」
レオは無言のまま、肩越しに片手を上げた。それだけで、カリームは体を浮かせ、ロケットの外装下部に腕をかける。
息が、合った。
レオが丸太の先端を押し出すと同時に、カリームの足がぬかるみを蹴った。二人の動きは一直線に収束し、金属の軋みとともに、ロケットがわずかに浮き上がる。
ロープに触れたカリームは、一拍ののち、咄嗟に力を込めた。膝を深く折り、腰を落とすと、掌が軋むほどに拳を握り締める。地面に食い込むように足を踏ん張り、重力に逆らうように、一歩ずつ後退した。
──転がった。
丸太が一つ、押し潰される音を立てて滑った。地面に吸い込まれるように沈み、それでも後方の丸太がそれを引き継ぐ。ほんの、五十センチほど。
それだけで、ロケットが少し“前”に進んだ。
静寂が、揺れた。
「……動いた」
カリームがぽつりと呟く。だがレオは、それに返さなかった。顔も上げず、すぐに次の丸太の確認へ移る。
背後では、ロケット内部の機構が、わずかに揺れた反動で振動を繰り返していた。だが、警報音は鳴らない。設計上、想定された範囲内の応力。ギリギリだが、まだ「壊れていない」。
クレールが端末を見ながら、短く独り言のように解析する。
「……たぶん、地面が濡れてたからよ。乾いたままじゃ無理だった」
クレールは画面を撫でるようにして、ロケットの重心位置を見直していた。
「泥が滑りやすくなって、丸太の下に空間ができた。それで、ほんの一瞬だけ支点が変わったの。……それで、動いた」
「もう一本」
レオが低く告げた。すでに額には汗が滲み、酸素フィルターの端に湿り気が集まっていた。呼吸制御は続けているが、動作と共に微細な息の乱れが出始めている。
カリームは再び無言で動く。誰もやめようとはしなかった。止まれば、動かなくなる。だから、止まらない。
拠点の外れ、遠くに佇む装置の骨組みが、淡く光っていた。
装置の骨組みは、仮設のままだった。接続端子のひとつが外れかけており、風が吹くたびにわずかに揺れていた。その反射が、ロケットの外壁に淡く跳ね返る。
クレールは、ロケット内部の仮設制御区画で、ひとり端末を睨んでいた。
表示されているのは、酸素循環と冷却装置の負荷、そして外気温のわずかな上昇傾向。
装置が稼働しているにもかかわらず、静かに広がっていく“熱”の波だけが、押し返せずにいた。
彼女は何も言わなかった。代わりに、操作記録のページを開いて、一行だけ新たに追加する。
──作業継続中。進捗、限定的。環境余裕なし。
文字を打ち終えた指先が、ふと止まる。データのどこにも“終わり”とは書かれていない。だが、確実に何かが削れている。その感触だけが、記録を重たくした。
視線を端末から外すと、作業区画の外で丸太の上にかがみこむレオとカリームの背が見えた。繰り返す動作。崩れた丸太。押し戻す力。積み上がる疲労。
(このままじゃ……)
胸の奥に浮かびかけた言葉を、クレールは押し殺す。
代わりに、冷却フィルターの稼働出力をわずかに引き上げ、酸素供給装置の動作リズムを見直す。──焼け石に水。それでも、何もしないよりは。
そのとき、後方の仮眠区画から扉が開いた。エルナだった。小型診断端末を手に、静かに歩み寄る。
「まだ続いてるのね」
クレールは頷くだけで応じる。エルナの視線が、そのまま端末に滑る。数値の意味を問うことなく、彼女はふと別のログを呼び出した。
少女のバイタル記録。脈拍、呼吸、体温。どれも極端ではないが、微細なノイズが続いていた。
「昨日より、呼吸が浅い。目を開けても、すぐ閉じる。反応が鈍いわ」
そう言いながらも、エルナの声音には判断がなかった。
「原因は?」
クレールが問う。
「わからない。熱もないし、異常数値はない。けど……“違う”感じがするの」
ふたりの視線が交差する。だが、それ以上は交わらない。
遠くで、また金属が軋む音がした。誰かが丸太を持ち上げ、ずれた滑車を修正しているのだろう。
マリアはその音に気づきながらも、壁際で静かに立っていた。彼女の端末にも、現在地の地形傾斜図が表示されている。
「この角度では、もうすぐ無理が来るわね。滑りすぎれば逸れるし、押しすぎれば潰れる」
マリアはそう言って、淡々と図面を拡大した。すでに、今の方法では限界が近い。
だが、それでも進んでいる。
それが、いちばん厄介だった。
──
ロープの張力は限界に近かった。滑車はうなり、軋み、金属疲労の兆しすら漂わせている。
泥に沈んだ丸太は、もはや「転がる」より「沈む」ものへと変わりつつあった。
レオが一歩、前に出る。
歯を食いしばり、力を込める。全身の筋肉がきしみ、背中のフィルターが濁った呼気で曇る。
「──っ……まだ、いける」
その声に、カリームも無言で続いた。
滑りやすい斜面に膝をつき、丸太に手をかける。掘り返すように押し、滑車のロープに体重を預けた。
だが──動かない。
ロケットの傾きが大きすぎる。丸太の支点が沈みすぎていた。
それでも二人は、やめなかった。
泥水が跳ね、靴の縁から染みる。
酸素フィルターが警告を発する音の中、誰も止めろとは言わなかった。
ただ、遠く、クレールが静かに目を伏せる。
マリアは無言のまま、端末を閉じた。
──限界だ。
誰の口からも、その言葉は出なかった。だが、皆が理解していた。
「これでは間に合わない」と。
数秒、あるいは永遠のような時間。誰もが、沈黙に包まれた。
その中で、レオだけが前を見ていた。
眉間にしわを寄せ、唇をかすかに引き結び、目だけは──まだ、折れていない。
「……まだ、他に手があるはずだろ。俺たち、ここで終わるわけにはいかない」
息が白く混じる。泥まみれの手を、そっと拳にした。
「このままじゃ、焼かれる。なら──考えろ。何か、何かあるはずだ……!」
誰も答えない。
だが、マリアがわずかに視線を滑らせ、作業中の優司の背中を見た。
背中は語らない。ただ、前を向いていた。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.029】
状況は進行中。まだ限界には届いていない。
判断と準備の継続を推奨。
続行の意思がある読者は、“ブックマーク”で記録管理を推奨。




