第25話 境界の岐路
境界の手前に、静かな準備だけが重なっていく。
炉が点いた夜。喜びの余韻が、誰の心にもあった。
──だが、時間は待ってくれない。
ロケットの壁に立てかけられた端末の画面には、火災の拡大図と風向シミュレーションが表示されていた。
黒い煙の帯は、日を追うごとにこちらへ迫ってきている。
クレールは、端末から目を離さぬまま静かに言った。
「……五日。風向きが変われば、四日で火がここまで届く。次の雨が来れば話は変わるけど、それは祈りにすぎない」
誰も言葉を返さなかった。
クレールは続けた。
「だから、動く。まずは避難場所の確保。情報収集に、あまり時間はかけられない。これまでの探索で把握できた地形をもとに、三つ……いや、四つ。候補地を洗い出す。どれも理想とは言えないかもしれない。でも──今の私たちが選べる最善よ」
端末を操作して、粗い線画の地形図が浮かび上がる。高所から撮ったものではない。
レオたちが過去数日かけて歩き、記録してきた座標と目視の情報を、クレールが必死に「地形」としてつなぎ合わせたものだった。
即座に動いたのは、レオ、カリーム、そしてエルナだった。
装備を軽く整え、酸素濃度の安定した時間帯を狙って出発する。目的は単純だ。──“この星で、次に生き延びられる場所”を見つけること。
探索用の装備を整えながら、レオが背後の壁に貼り付けられた手描きの地図を指でなぞる。
レオが腰のベルトを締め直しながら、壁際に貼られた手描きの地図に目を向けた。何度も折り畳まれた紙は角が擦れ、インクもところどころ滲んでいる。だが、それが彼らの“生きてきた時間”の証だった。
クレールは沈黙のままロケット端末を見つめていた。液晶の光が、彼女の目元に疲労の影を映す。
「……候補地は、あくまで“今ある地形情報”から導き出したもの。完全な保証はできない。だけど──時間がない。やるしかないのよ」
その声に、誰も返事はしなかった。ただ、それが“判断を委ねられた側の苦しみ”であることを、3人は悟っていた。
クレールが正面を向く。「行って。……でも、無理はしないで。あなたたちは、ここに戻ってこなければ意味がない」
その言葉に、レオが片手を上げて応じた。
「やり遂げるさ、命を繋げるために」
その軽さの裏に、深い緊張があった。
拠点を出たとき、空はまだ青かった。
だが、青さの下にある空気は冷たく、肌を刺すような静けさがあった。森の中の音は遠のき、風の流れが細くなっていく。
三人は言葉を交わさずに歩いていた。
レオが先頭、道なき道を踏み分けて進む。カリームは数歩離れ、草むらや木の影に目を走らせる。エルナは一歩後ろ、端末を確認しながら足元の勾配を注意深く見ていた。
道はやがて、ゆるやかな傾斜へと変わる。
木々がまばらになり、地面に岩が混じり始めた。踏みしめた感触が変わる。登り坂──そしてその先に、最初の候補地があった。
レオが岩肌に手をかけ、静かに身体を持ち上げると、冷えた風が頬を撫でた。
丘の上──そこには、想像以上に広い視界が広がっていた。
「見てみろ、これ……」
低く呟く声に、後ろを登ってきたカリームが息をついた。「おお……なるほどな」
眼下には、森と平地が波のようにうねり、そのさらに先に、黒煙が揺れていた。火災はまだ遠い。ここまで登れば、数キロ先の動きまで見渡せる。
「これなら、来る奴も火の向きも、ぜんぶ分かるな」
レオが言うと、カリームが岩壁を背に腰を下ろす。「守りやすいな。背中が塞がってるし、もしも逃げるときは、逆に斜面を滑り降りればいい」
風が抜けていく。空は高く、冷たく澄んでいる。何より、ここには“静けさ”があった。
エルナも遅れて到着し、端末を開いて測定を始めた。レオはその横でしゃがみ、足元の岩を指先でなぞった。
「……あんまり、草がないな」
岩の間には、細い土の層しかない。柔らかい苔も、しがみつくような根も見当たらない。
「水脈が浅いのかもしれない。地質は固くて、防御には向くけど……重量には弱い」
エルナが端的に答えた。端末の数値は、岩盤の脆さを告げている。
レオは一瞬、黙る。けれどすぐに顔を上げた。
「いや、それでも価値はあるな。ここ、見張りには最高だ。偵察用の小拠点として使えるかも」
カリームが頷いた。「そうだな。たとえば本体は下に置いて、ここに警戒班を常駐させるとか」
少しずつ、可能性が形になっていく。
レオは最後に、遠くの煙を見やった。風の向き。斜面の角度。逃げ道と視野の確保。
「悪くない。……けど、次も見ておこう」
誰も反対しなかった。
彼らは一歩ずつ、選択肢を積み上げている──生き残るために。
丘を降りる途中、誰も余計な言葉を発さなかった。
風は背中を押していた。
だが、それ以上に三人を急かしていたのは、次の候補地への期待だった。
森の端を抜けると、地面は徐々に柔らかくなり、遠くにひらけた陽光が見えてくる。
遮るもののない平地──今度こそ、“置ける場所”かもしれない。
森が終わる。そこから先は、なだらかな平地だった。
日差しを受けた草原は、淡い緑と黄のグラデーションを描きながら広がっている。
大小の低木がところどころに根を張り、ところによっては風に押された獣道のような踏み跡もある。
レオは足を止め、遠くを見やった。「広いな……悪くない」
森に比べて明るく、空気も乾いている。ロケットの移動経路としては理想的な開け方だ。
足元の地面は柔らかいが、沈み込むほどではない。カリームがしゃがんで、土を掬って匂いを嗅いだ。
「腐葉土……それも、だいぶ熟成してるな。水気もある」
「つまり、作物が育つってことか?」
「そういうことだ」
エルナは簡易センサーをかざしていた。「地層は浅いが、湿度と温度の安定性は高い。住環境としては……最適に近い」
レオの目がわずかに細くなる。ここまで来て、ようやく希望の輪郭が浮かび始めていた。
「光量もあるし、近くに水脈もある。運搬も楽、危険も──」
そのとき、草の揺れが止まった。
カリームが一歩前に出る。風が吹いているにもかかわらず、ある一帯だけ、動きがなかった。
「……こっちだ」
低く短い声に従って、レオも歩を進める。近くの低木の根元に、黒くひび割れた地面があった。
草が押しつぶされ、土が抉られている。四本爪の深い踏み痕。
「……通ってるな」
レオが小さく言った。
さらに進むと、数メートル先に倒木があった。根元が裂け、幹には何かに噛みつかれたような痕がある。
「最近だ」カリームが言う。「まだ木の皮が乾いてない」
エルナがそっと頭を上げた。「……このあたり、獣の通り道と重なってる可能性がある」
「どれくらいの頻度で通る?」
「不明。けど、群れで移動しているなら、ここは“道”そのものだと思った方がいい」
沈黙が落ちた。
風は流れていた。けれど、いつどこから風の流れが狂うか──誰にも予測できない。
それでもレオは、振り返って言った。
「素材はいい。住むには最高。……問題は、通る相手と、通るタイミングだ」
カリームが首をひねった。「……全部が完璧な場所なんて、この星にあるか?」
レオは小さく笑った。「あれば苦労しねえよ」
空は高かった。
だがその下には、目に見えない“通行者”たちが、今日も足跡を刻んでいる。
踏み込んだ瞬間、足元から響きが返ってきた。
ごつり、と鈍く、乾いた音だった。レオは片膝をつき、拳で地面を叩く。もう一度──ごつ、ごつ。やはり、同じだ。
「……硬い。今までのとこより、明らかに底がある」
土ではなく、岩盤。しかも浅い位置にある。
カリームが重心を落とし、わざと強く踏みしめてみた。「沈まねえ。多少の重量じゃびくともしないな」
エルナは端末を操作し、地層断面を表示する。「基盤岩。おそらく地下に大きな岩塊が連なっている。構造物の設置には最適」
「ロケットの脚も安定して立つか?」
「傾斜もないし、風の抜けも良い。構造上は“理想”と言っていい」
レオは周囲を見渡す。ここには木々も草も少ない。その代わり、視界がいい。高低差もないため、周囲に何が近づいてもすぐ気づける。
「ここまで来て、やっと文句のない土地に当たったか……」
ぽつりと漏らしたレオの声に、誰も反論しなかった。
だが──
「ただし」
エルナの声が割って入る。「風向きが、少し悪い」
レオが首を傾げる。彼女は端末の画面を回し、表示された矢印を指さす。
「こっちから火が来る」
風下だった。しかも、燃え広がっているあの黒煙の方向と、ちょうど直線上に位置している。
レオはしばらく空を見上げたまま、黙っていた。遠くに見える黒い煙が、ゆっくりと蛇のように揺れながら伸びていた。
「保証できない。巻き込まれる可能性がある」
足元は完璧だった。だが、空はそうではなかった。
どこかに決定打はないのか──それが誰の表情にも滲んでいた。
この場所には、記憶があった。
森を抜け、水場が現れたあの時──獣の群れに襲われたのは、まさにこの谷の手前だった。
だが今、三人はその“奥”へと足を踏み入れている。
かつて届かなかった場所。その先に、洞窟はひっそりと口を開けていた。
森の湿気が変わる。空気の層が一段、沈んだようだった。
谷間を抜けた先、斜面の窪みにぽっかりと口を開けた黒い影──それが最後の候補地、D地点の洞窟だった。
岩盤がむき出しの地面には草ひとつ生えておらず、足を踏み入れた瞬間に、温度が一段下がる。
レオは岩壁に手を触れた。「冷たいな……こっちだけ空気が動いてる」
カリームは鼻をひくつかせた。「なんか……獣臭っていうか、獣が死んだ後みたいな臭いだな」
その言葉に、エルナがゆっくりと端末を起動する。「中に何か……棲んでいた可能性が高いわね。今は反応なし。けど……」
彼女は言葉を切った。
レオはしゃがんで、岩と岩の隙間に残る痕跡を指先でなぞる。削られた跡。重たい何かが、引きずられたような痕だ。
「昔、ここで何かあったのは間違いないな」
一同は無言で頷き合い、簡易のライトを点灯した。
レオが先頭、カリームが後衛、エルナがセンサーを手に持って──短時間だけ、内部の確認に踏み込む。
足音が、吸い込まれるように消えていく。
奥へ進むと、洞窟内は意外なほど広く、ゆるやかに下へ続くスロープ状になっていた。
そして、壁面にふと光が溢れていた。
「これは……」
レオが低く声を漏らした。
それは発光していた。
弱々しい蛍光かと思えば、まるで月光が凝縮されたかのような柔らかな緑が、岩の表面から染み出していた。
照らされた空間だけが、世界から切り離されたような静けさに包まれる。濡れた壁がわずかに光を撥ね返し、反射ではない光の“息づかい”すら感じられた。
「……これが、苔?」
レオが低く呟く。
それを見ていると、時間感覚がゆらぐ。美しい。けれど──どこか、異様だった。
苔が、壁を覆っていた。
天井から床まで、どこもかしこも、緑の薄光がびっしりと張りついている。光は穏やかなはずなのに、目が慣れない。
照らされるほどに、輪郭が曖昧になっていく。
レオは無言で先を照らした。
足元に、沈んでいるものがあった。
毛並み。骨。牙の折れた顎。
小型の獣──中型──そして、それよりも大きな何かの骨格。
いずれも苔に一部を覆われ、まるで光に“飲まれて”いるようだった。
数は、一つではなかった。
二つ、三つ。奥へ進むにつれ、数は増え、散乱のままに横たわっていた。倒れ方はまばら。爪痕も、争った形跡もない。
その光の中では、すべてが静かだった。
苔が柔らかく揺れ、死骸が光を受けて沈黙している。
誰も言葉を発さなかった。
ただ、レオが少しだけ足を止め、カリームが何も言わずに手のひらを広げ、岩壁に触れた。
そこには“気配”がなかった。
息も音も熱も──ただ、光と、死だけが積もっていた。
エルナがライトを低く向けた。「何らかの毒性がある環境の可能性が高い」
沈黙。
レオは、奥を見やった。さらに深部へ続く影の先は見えない。けれど、その闇はただの空間ではなかった。
「……住めないのかもしれない」
そのつぶやきに、誰も反論しなかった。
一同はそこで引き返した。
洞窟を出ると、外の風が思ったよりも暖かく、湿っていた。さっきまでいた空間が、異質だったことを、身体が改めて理解していた。
「火災からは、もっとも遠い。でも──」
エルナが静かに言った。「“潜る”には、相応の準備が要る。ここは、未知が多すぎる」
誰もそれを否定しなかった。
ただ、もう一度あの暗がりを振り返り、何も言わずにその場を後にした。
調べた。それぞれを。
可能性と不安を抱えながら、すべての候補地を──。
森の向こうに、拠点の輪郭が見えてきた。
何も持たずに戻る道。だが、その背には、いくつもの“選択肢”が貼りついていた。
すべてを見た。
登れぬ丘。獣の通り道。焼ける大地。
そして──死骸が沈む、光に満ちた穴倉。
選ぶ理由は、どれにもあった。
選べない理由も、すべてにあった。
だが、“選ばなければ”進めない。
──次に話す者の言葉が、この命運を決める。
進めば、何かを失う。
だから、次は──“誰が、何を、選ぶのか”。
答えは、まだない。だが、判断はもう始まっている。
静けさの先にある一歩が、すべてを変える。
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.025】
移転候補地A〜Dの踏査記録を収集完了。
各地点に利点あり、同時に重大なリスクを伴う。
現段階では最終拠点は未定。
次の選択が、生存条件を左右する見通し。
次の決断を見届けたい者は、“ブックマーク”への登録を推奨。




