第24話 灯る向こうで
灯がついた。それでも、夜は続いている。
陽がまだ傾ききらない朝の斜面を、三人の影が無言で登っていた。
ロケットのある森を背に、視界の開けた丘へと向かう小さな探索行。その目的は、前日に目星をつけた鉱石の再確認だった。
風は弱く、空気は乾いていた。だがその空に──異様な煙が立ち上っていた。
森の向こう、遠くの尾根から、墨を溶かしたような黒煙が帯状に昇っている。
「……あれ、煙、だよな?」
「なんか……すごく嫌な感じがする」
丘を登るにつれ、鼻の奥に焦げ臭さが染みついてきた。木だけではない、もっと複雑な“何か”が燃えている匂いだった。
先頭を行くレオが眉をひそめ、右手で制止の合図を送る。
焦げた木材とも違う。もっと複雑な、人工物の焼けた匂い──
カリームが一歩前に出て、山肌の土を指でこすった。
「こっち……たぶん、ロケットのパージで落ちた部品の跡だな。焼けた跡が続いてる」
地面には、黒ずんだ筋状の焦げ跡が広がっていた。その一部には、金属質の破片が溶けかけたように埋まっている。
エルナが無言でポータブル端末を起動し、風向きと気温、地形データを静かに読み込んでいた。
数秒ののち、小さく口を開く。
「……煙が上がってる。あの奥」
レオとカリームが顔を上げる。森の向こう、丘の稜線に沿って──黒煙が、空を染めていた。
……あれは、確かに“続いている”。そんな確信だけが、静かに胸の奥に滲んでくる。
「火、か……。まさか、あの時の?」
レオがつぶやく。
記憶の中に蘇るのは、数日前──ロケットのパージ時に火を吹いた、高熱の落下物だ。
「可能性はある」と、エルナ。
「ただし、あの距離と風向きだと、まだ時間はある。……今は、素材を回収しよう」
言い終えると同時に、彼女は背負っていた簡易掘削装置を地面に下ろした。
どこか“いつも通り”の動きだったが、目元だけが一瞬、煙の方角を見据えていた。
拠点の内部には、ひたすら静かな音だけが流れていた。
火は点いていない。明かりも、太陽が差し込むロケットのハッチから漏れるだけ。
空気は冷え、床には微かに霜が残っている。
「……マリア、熱交換器。数値、基準値より三%高い。許容範囲」
端末の画面を見つめたまま、優司が低く言った。
マリアは頷く代わりに、手を動かした。接続部を締め直し、配線を一部交換する。
ふたりの間に言葉は少ない。だが動きは噛み合っていた。端末に浮かぶ回路図と、現実の装置の隙間を、一つずつ埋めていくような作業だった。
ブオオオ……という低い通気音が、装置の奥から響く。
まだ“点火”ではない。ただ、エネルギー供給を行うための最終チェックが続いているだけだ。
それでも、この拠点にとっては“心臓の鼓動”にも似た音だった。
その作業音を、端末の光に照らされながらクレールが見ていた。
彼女は奥のスペースで、酸素残量と温度、予備バッテリー、乾燥材、食糧ストックなどの数値を一つずつ照合していた。
手元のメモリには、「現在の環境が維持できる猶予期間」の計算が並んでいる。
──半日。いや、食糧をさらに節約すれば一日。酸素循環の再利用を再計算してうまく回れば二日だが、それはあくまで、“今のまま”動かなければの話だ。
限界の計算は、毎日更新される。
だが、それは希望ではなかった。ただの「延命」だ。
クレールは視線を端末から外し、炉の方へ目を向ける。
金属板の影に立つ優司は、工具を持ったまま無言で動いていた。マリアもまた、慎重な指先で装置の外郭を撫でるように点検している。
──もう一度、動かす。
彼女は静かにそう思った。
この装置に火が入らなければ、明日はない。
そしてその火は、彼らが“奪って”きたものではない。ただ、“延ばす”ための光だ。
遠く、装置の奥から小さくパチ、と金属音が響いた。
その音に、少女が寝床の毛布の中で身じろぎする。
まだ深く眠っているが、眉がわずかにひそめられていた。
子どもでさえ、拠点の空気に含まれる“緊張”を感じ取っているのかもしれない。
気づけば、誰も言葉を発していなかった。
ただ、装置の鼓動だけが続いている。
──この音が止まれば、すべてが終わる。
誰もがそう思っていた。
午後の光が傾き始めたころ、森の奥から足音が戻ってきた。
葉を踏む音は三つ。丘へ登った探索隊──レオ、カリーム、エルナだ。
ロケット脇までたどり着くと、カリームがヘルメットを脱ぎながらつぶやいた。
「……燃えてた。丘の上から見て、たぶん三キロは広がってる」
その言葉に、マリアの手が一瞬止まった。
だが優司は何も言わず、視線だけを上げて彼らの帰還を確認した。
「煙、真っ黒だった。ずっと出てる。……あれ、止まんねぇと思う」
カリームの声は落ち着いていたが、その背には薄い煤がうっすらと積もっていた。
森の上空には、もう陽の光が届いていない。黒い膜のような煙が、視界の上をゆっくりと覆っていた。
エルナがロケットの影に立ち、端末を起動した。風向きと気圧、湿度の変化を確認しながら、静かに言う。
「このまま南南西の風が続けば……早くて五日、遅くて七日で、火がこの拠点に届く可能性がある」
言葉は短く、明瞭だった。
その響きに、誰もすぐには返事をしなかった。
クレールが一歩前に出て、エルナから端末を受け取る。
画面には、単純化された地図と炎の広がりが示されていた。風の矢印は、確かに“こちら”を指していた。
「……ありがとう。記録する」
そう言うと、彼女は目を伏せ、わずかに息をついた。
そのとき、端の毛布のあたりで、カサ、と小さな音がした。
少女だった。しなやかな体が弧を描きながら伸び、腕を前に突き出し、わずかに身を引くように軽やかに動いた。全身が一瞬緊張し、すぐにふっと緩むその動作は、優雅さとほのかな警戒心を漂わせていた。
まだ半分夢の中にいるような目で、煙の匂いが残る空気を嗅いでいた。
レオが膝をつき、静かに声をかけた。
「怖いか……」
返事はなかった。だが少女は毛布をきつく握りしめたまま、視線を火から外さなかった。
まるでその熱が、何か大きなものを呼び寄せるとでもいうように。
その場の誰もが、言葉を失っていた。
──何が正解かは、まだわからない。
だが、火はすでに始まっていた。
日が傾いていた。
空の色は褪せ、森の向こうから立ち上る黒煙が、夕光の赤に混じっていた。
それでも、ロケット内部には──別の色が生まれつつあった。
鈍く、低い唸りが床の奥から響いていた。
耳を澄まさねば気づかないほど微かな音。だが、それは確かに“動き出した”ことを告げていた。
試作炉の外郭が、微かに脈を打っていた。
手をかざせば、かすかな振動と熱。
まだ弱い。だが確かに、“生きて”いた。
「……外郭温、上昇傾向。制御域に到達まで──あと少し」
マリアが低く、どこか息を詰めるような声で言った。
端末の画面には、制御出力の数値が震えるように変動していた。
優司は、その表示を見つめていた。
無言のまま、手元の工具をゆっくりと置く。
次いで、炉の中央部へと手を伸ばす。
最後の接続──その一手にすべてがかかっていた。
彼の指先が、冷えた金属の継ぎ目に触れた。
一瞬、躊躇のように止まり、それから確信をもって押し込む。
「──接続、完了」
カチリ、と金属が噛み合う音が鳴った。
直後、炉の内部がゆっくりと、音を立てて“目を覚ました”。
ピィィ……という微かな起動音。
そして──
ぼうっ、と。
中央の伝熱板が、橙の光を宿した。
最初は点のようにかすかだったが、数秒のうちに、芯からにじむように膨らんでいく。
光は静かに、だが確実に、拠点全体を照らし始めた。
空気が変わった。
冷たさが後退し、代わりにわずかな熱が、床から、壁から、指先から広がっていく。
「……入った」
マリアの目が、信じられないというように端末の表示を見つめていた。
エネルギー供給系統、安定。熱放射、正常。制御系、許容範囲──
すべての数値が、綺麗に“生きて”いた。
「やった……」
小さく、漏れるような声がマリアの口からこぼれた。
レオが振り返り、目を見開く。
「点いたのか? ……これ、ほんとに──!」
彼は駆け寄ろうとしかけて、足を止めた。
その場の空気が、もうすでに変わっていることに気づいたのだ。
炉から放たれるその光は、ただの機械の起動ではなかった。
それは、“生き延びる力”だった。
カリームが、何も言わずに天井を仰いだ。
顔には煤がこびりついていたが、目の奥にあるものは、まるで子供のようだった。
「……これで、夜が越せるな」
誰かが、そうつぶやいた。
誰も、すぐには言葉を出せなかった。
ただ、静かにその光を見つめていた。
それは──やっと、だった。
何度も何度も繰り返した確認。
焦げた部品。割れた接合部。暴走の兆候。素材の不足。酸素の消耗。
そのすべてに、手を止めず、声も上げず、ただ前を向いていた。
振り返ることはなかった。進むしかなかった。
──だからこそ、今、そこにあるこの“光”が、あまりに遠く思えた。
やっと。
やっと──届いたのだ。
誰の手も借りず、誰の命も奪わず、
この惑星で、自分たちの手で灯した初めての灯火。
レオが息をついた。
その頬に、うっすらと笑みが浮かんでいた。
カリームは、目を伏せ、腕を組んだまま動かなかった。
だが、その背中はどこか安堵していた。
マリアは、炉の光を手のひらで受け止めるように、そっと前に出た。
まるで、その温もりが消えないように。
少女が、毛布の端を握りしめたまま、炉に一歩近づいた。
その橙の光が、彼女の頬に淡く映り、静かに目を細める。
そして──
エルナが、通路の奥から歩いてきた。
誰も気づかなかったが、彼女もまた、この光に“呼ばれた”のだ。
いつものように端末を手にしていたが、今は操作していない。
ただ、静かに、炉の光を見つめていた。
数値でもデータでもない、“生きている”熱。
それを、彼女は理解していた。
その目が、わずかに揺れた。
冷たく凍った瞳の奥で、何かがゆっくりと溶けていくようだった。
クレールは動かなかった。
ただ、静かにその光を見ていた。
整然とした端末の情報よりも、今は目の前の“橙色”のほうが確かだった。
クレールは、一歩だけ前に出た。
その動きに気づいた者は少なかった。
誰もがまだ、光の中に立ち尽くしていたからだ。
彼女は、炉から目を逸らさずに口を開いた。
その声は、静かだった。けれど、明確だった。
「……でも、ここには長くいられない」
熱の余韻が残る拠点に、その言葉だけが冷たく落ちた。
マリアがわずかに眉を動かす。
レオがゆっくりとクレールのほうを振り向く。
カリームは何も言わず、ただ顎を引いた。
少女の視線だけが、依然として炉の光に縫い止められていた。
「煙の動きと、風の流れ。地形の傾斜と湿度。どれも──この場所が安全ではいられないことを示している」
クレールは、言葉を切りながらも、正確に言い切った。
「風向きと湿度次第だけど──早ければ五日、遅くとも七日で、この拠点にも火が届く可能性がある。
……最長でも、あと七日。それ以上は、この熱も、この空気も、保証できない」
端末の画面は今も手元にある。だが、誰もその数値を見ようとしなかった。
彼女の言葉だけで、十分だった。
誰かが、深く息をついた。
だが、言葉にはならなかった。
炉の光は、確かに灯っている。
だがその周囲を、変わりゆく現実がじわじわと侵食していた。
──それでも、この熱は“希望”だった。
クレールはもう一度だけ、その光を見た。
そして、ひとつだけ息を吐いた。
「……出発の準備を、始めましょう」
止まれない。なら、進むしかない
……ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし続きを読んでみたいと思っていただけたなら、
星をそっと置いてもらえると、うれしいです。
……たったひとつでも、背中を押されるような気がするのです。
【整備ログ No.024】
試作炉、点火確認。出力は不安定だが、最低限の生命線は確保された。
だが、外では“火”が迫っている。ここが終点ではない。
次なる移動準備を、早急に。
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