二十一話「ずっと私のそばに」
年が明けてから、学校は以前にも増してピリピリとした雰囲気になりつつある。この時期の受験生は自由登校ということで学校に来る義務はないのだが、多くの生徒が自習室あるいは教室で机に噛り付いていた。各教室には科目指導の先生が二人付き、生徒から質問があれば適宜指導するという学習体制を敷いている。
さて、冬も深まるこの時期であるが、最大限の配慮をしなければならないことがある。
体調管理。
特にインフルエンザには注意が必要だ。生徒と面と向かってコミュニケーションを取ることが多い我々教職員には学校側からマスクが支給され、その着用が推奨されている。かくいう私もマスクを支給されたのだが、私だけ児童向けのスモールサイズ…………ジャストフィット。
生徒諸姉らの間でもマスクの着用は当然のことのようになっており、学校全体を見渡してもマスクを着けていない人のほうが珍しいくらいだ。学校全体でマスク軍団の完成だ。「マスク着用」が存在しない文化圏から来た人が見たらびっくりするんじゃないだろうか。
手洗い、うがい、早寝早起き、一日三食、感染予防を心がけて、この冬を乗り切りましょう────といったところで、事件は発生した。
◆
一月の後半。全国一律で開催される大学入試一次試験が終了し、私立入試や国公立二次試験の対策が本格化してくる頃。三年生以外は通常通り授業があるため、私は受け持っている二年生の教室へと向かう。
一年近く教鞭をとっていると教壇へ立つことに緊張もしなくなってくるもので。和気あいあいとした雰囲気の中、出席を取るために教室を見渡していたのだが、ふと、いつもの影がないことに気が付く。楪静乃────静乃ちゃんがいない。
「楪さんは……?」
「あ、風邪で欠席でーす」
私のこぼした質問に対し、クラスの子が「はいはーい」と返事をくれる。
……風邪だって!?
「しずっ……楪さんは大丈夫なの!?」
「さ、さあ、ウチらにきかれても……」
私が鬼気迫ると、最前列に座っていた子がたじたじになる。当然か。
しかし、静乃ちゃんからはまったくそのような連絡が入っていなかった。静乃ちゃんが病に伏す前兆なんてどこにも…………そういえば、習慣になっている夜の通話が昨夜はなかったっけ。メッセージを送っても未読状態であったため「寝ちゃったのかな?」と思っていたのだが、いやはや、まさかである。きっと静乃ちゃんは辛い思いをしているだろう。学校が終わったら絶対に連絡しよう。
そして、もしもただの風邪ではなくインフルエンザであった場合、ウイルスの潜伏期間を考えると発症の直前までイチャイチャしていた私って結構まずいのでは……。今は元気もりもりなのだが、明日、明後日にはどうなっているか分かったものではない。私が受験生に直接関わることはないにせよ、職員室でパンデミックを起こすのはヤバい。
私は不安に苛まれながら授業を開始するのだった。
仕事を終えてからスーパーでお買い物。動けなくなってからでは遅いのだ、ということでスポーツドリンクと栄養ドリンクとその他もろもろ栄養が付きそうなものをカゴに放り込む。ついでに、静乃ちゃんへのお見舞い用のゼリーや果物も買い込んでおく。
家に帰りついてからすぐさま携帯を取り出し、静乃ちゃんからのメッセージを確認する。
『紗耶香さんごめんなさい。先ほど病院に行ったところ、インフルエンザと診断されました。』
『私は大丈夫ですから心配しないでください。移るといけないので、お見舞いには来ないでくださいね』
『まだ夕方ですが熱が上がってきたので寝ます。おやすみなさい。』
『(ネコが眠るスタンプ)』
「静乃ちゃん……」
健気だ。私に心配をかけまいと強がっている姿がありありと想像出来る。今すぐ彼女に会いに行って熱に火照る体をギューッと抱きしめてあげたい。
だが、現実は非情だ。
私はお見舞い用に買ったフルーツを冷蔵庫に仕舞いながら重い溜息を吐いた。静乃ちゃんは「お見舞いに来ないで」と強い拒絶を示したのだ。当たり前といえば当たり前で、私が寝込んだとしても同じようなメッセージを静乃ちゃんに送るだろう。恋人になったからといって看病イベントが発生すると思ったら大間違いなのだ。
「しばらく会えないのかなぁ……」
静乃ちゃんと付き合い始めてからこの方数ヶ月、ほとんど毎日顔を合わせてきたのだ。胸の中にポッカリと穴が空いたような気がして落ち着かない。
晩御飯を食べて、お風呂に浸かって、夜を迎えるとその寂しさは一層強く感じられた。この時間は、いつもなら静乃ちゃんと通話しているはずだ。
「はぁ…………寝よっか」
やることないし。起きていたって静乃ちゃんのことばかり気にして憂鬱になるだけだ。
その日は、静乃ちゃんとピクニックに行く夢を見た。
静乃ちゃんが休み初めてから三日後の土曜日。結果的に言えば、私はインフルエンザに罹患していなかった。
しかし、問題はそこではない。
「うー……しずのちゃん」
頭の中が静乃ちゃんでいっぱいなのだ。仕事中はどうにか意識せずにいられるのだが、食事中や休憩中など、気を抜いた瞬間に思考が静乃ちゃんで埋め尽くされる。大丈夫かな、辛くないかな、お見舞いに行きたいな。メッセージでの連絡は毎日欠かさず送っているのだが、起きている時間が疎らなのか静乃ちゃんからの返信は丑三つ時だったり昼下がりだったりとマチマチだ。故に、碌なコミュニケーションが取れていない。いや、病人にチャットをさせるなという話ではあるのだが……。
寂しい。静乃ちゃん成分を補給できていないせいか、日に日に元気が無くなっていく自覚がある。私ってこんなに重たい女だったの? と驚くばかりである。まあ、ちみっこいから体重的には重たくないけどね。きゃぴ。
まだ静乃ちゃんと離れ離れになって三日しか経ってないのだが……果たして、静乃ちゃんと付き合う前はどうやって日常生活を送っていたんだっけ?
「…………むむっ?」
静乃ちゃんのために何かできないかなー、とベッドの上で寝転がりながらネットサーフィンをしていると、一つ興味を惹かれる記事を見つけた。
「ふむふむ、これなら────」
上体を起こし、ベッドから飛び降りる。ええと、まずは……お化粧からかな!
私は静乃ちゃんへ送るそれのために、急ぎ準備を始めたのであった。
◆
孤独な世界は寂しくて。一人ぼっちの時間が長くなると、あの頃のことを思い出してしまいます。
────いかないで、さやかおねえちゃん
十年以上も昔のことなのに、今でもこうして鮮明に覚えています。
本当は離れ離れになりたくなくて。ひと夏の思い出で終わらせたくなくて。あの人と一緒に暮らしている「あやかちゃん」が羨ましくて仕方がなかったです。ずるい。さやかおねえちゃんは、わたしのおねえちゃんでもあるのに。
わたしとあの人が初めて出会ったあの夏、わたしはさやかおねえちゃんに恋をしました。無知で、初心で、大人からすれば未熟もいいところの恋心。それでも、わたしは長い時をかけて大切に育んできました。
いつか再会する日を夢見て。
しかし、その機会は十年経っても得られませんでした。お母様の仕事の都合で日本中を転々とする暮らしの中で、さやかおねえちゃんと相まみえることはもう無いのだと半ば諦めかけてもいました。母の仕事が落ち着いてきて、定住できるようになった頃には私は高校生になっていました。自宅は何の因果か、私が幼少期に過ごした土地の近くでした。
ここでなら、さやかおねえちゃんの足取りがつかめるかもしれない。私は死に物狂いで彼女の情報を集めました。
情報はすぐに集まりました。どこに住んでいるのか、どこの大学の何年生なのか、今は何をしているのか。さやかおねえちゃんを探る中で取り分け目を引いたのは「就職活動が上手くいっていない」という情報でした。さやかおねえちゃんには失礼だけど、これはチャンスだ、と思いました。お母様に泣きついて便宜を図ってもらうことにしたのです。お母様は、私が通う学校の校長兼理事長と知り合いであると聞かされていましたから。
私が二年生に昇級する四月。さやかおねえちゃんと────紗耶香さんと再会できました。苦節、十二年と二二〇日。あまりの嬉しさに、再会当初は奇をてらった行動をしていたような気がしますが、気のせいということにしておきましょう。
紗耶香さんは、いつ私が「しーちゃん」だということに気づいてくれるのだろう、再会できたことに喜んでくれるかな────そういう妄想ばかりしていました。しかし、共に時を過ごす中で紗耶香さんは私のことを覚えていないということを理解して、本当に落ち込みました。
十数年という年月の中で、私にとっての紗耶香さんは掛け替えのない────。
ねえ、紗耶香さん────さやかおねえちゃん。もう、私を、わたしを一人にしないで。わたし、ずっとさびしかったんだよ。はなれないでよ。そばにいてよ。どろどろ。
どろどろが心の中に巣食う。
どろどろ。
わたしも私も知らない深層。
もう離れないでください。寂しいです。世界で一番愛しています、紗耶香さん────。
目を覚ますと、暖色の豆電球が私を見下ろしていました。枕元に置いた電波時計の頭を叩き、十九時であることを把握します。中途半端な時間に目覚めてしまった私はもう一度眠りにつこうとしますが、すっかり覚醒してしまったようでとても眠れる気がしません。
気を取り直して部屋の明かりをつけて、ぐーっと伸びをします。
────なんだか、とても奇妙な夢を見ていた気がしたのですが……。
夢の内容は覚えていません。しかし、あまりいい夢ではなかったような気がします。高熱の時に見るような奇天烈なものではなく、整然とした走馬灯でありながら暗く淀んだ……まあ、いいでしょう。思い出したってどうしようもないですから。
ふと、部屋に置いてある姿見が視界に入ります。汗と寝ぐせでボサボサの髪の毛、リンゴのように色づいた顔、腫れぼったい瞼、むくんで膨らんだ頬。とても紗耶香さんに見せられる状態ではありませんね。気が滅入ります。
発症から三日目となる今日。熱は下がってきましたが、依然として関節の痛みや喉の腫れは引かず、苦しい状態が続いていました。食欲もすっかり減衰してしまい、毎食手つかずとなっています。ご飯を作ってくれるお手伝いさんに申し訳ないです。
ベッドの上で上体を起こしただけの私がボーっとしていると、スマートフォンが通知で震えました。何事かと見遣ると、紗耶香さんから連絡が入っているではありませんか。飛びつくように端末を手にし、その内容を確認します。
『プレゼント フォー ユー!』
『(動画ファイル)』
「動画……?」
昨今のチャットサービスは便利になったもので、文字媒体以外にも画像や動画といったデータを簡単に送受信できるようになっています。私は紗耶香さんから送られてきた動画を開きました。
『…………えー、と、撮れてる?』
あまりにも可愛らしい紗耶香さんのご尊顔が画面いっぱいに映し出されたものですから、私はすかさず一時停止ボタンを押しました。私が倒れ伏してから三日間、顔を合わせることもできず、声を聴くことも叶わなかった恋人の姿がそこにはありました。自然と頬が緩むことを自覚しながら続きを再生します。
『やっほー、あなたの……こ、恋人の紗耶香です! しばらくお話しできてなくて、静乃ちゃんが寂しい思いをしているんじゃないかなーって思って、ビデオレターを撮ってます。あ、スマホで撮影してるんだけど、うまく撮れてるかな? えへへっ』
紗耶香さんが微笑むにつれて、私も「ふふっ」と声がもれました。紗耶香さんのヒマワリのような眩しい笑顔が愛しくて仕方がありません。少女らしい高めの声音も大好きです。
『今日は静乃ちゃんに見てほしいものがあってね、よいしょ、はい、見える?』
愛らしい紗耶香さんの顔から一転、カメラは机の上に置かれた何某かを映し出します。
これは……カレーですか?
『じゃじゃーん、今日の私の晩御飯です。カレーだよ。手作りなんだ~。だいぶ前だけど、静乃ちゃんが家に来たときに一緒に作ったでしょ? その時のレシピを意識して作ったんだ。美味しそうでしょ?』
紗耶香さんは自慢げな口調で、カレーをアップで見せつけてきます。映し出された具材がところどころ三角形だったり短冊形だったりと少々いびつですが、しかし、確かにとても美味しそうです。食欲がなかったはずの私のお腹が「ぐぅ」とご機嫌に鳴きました。
動画には再び紗耶香さんの顔が映ります。
『静乃ちゃんが快復したら、また作るからさ。早く元気になってね。待ってるよ』
紗耶香さんは力なく笑いました。その笑顔を見た瞬間、感情があふれ出しそうになります。
寂しいのは私だけではないんだ。今すぐ紗耶香さんのもとへ走って行って、その体躯を抱きしめたい。そんな衝動に駆られますが、叶わぬこと。今の私にできることは、せいぜい画面の中の彼女の顔を指でなぞることくらい。
────早く治して紗耶香さんに会いに行きます。
『静乃ちゃんが元気になったら私もうれしい。とにかく今は、よく食べて、よく休むこと。えーと…………あ、あなたの美雪紗耶香でした! またね!』
終わり方は考えていなかったのか、ぶつ切りのような形で動画は終了しました。私は可笑しくなってクスクスと笑いを漏らします。久しぶりに笑ったような気がして……心の内にぽかぽかと温かいものが広がっていきます。
「ごはん、私も食べたくなりました」
ふらふらとした足取りでキッチンへ向かいます。きっと、夕食分のおかゆが作り置きしてあるはずですから。今頃、紗耶香さんもカレーを食べているのかな、なんて考えながら口元を緩めるのでした。
◆
静乃ちゃんが学校を休み始めてから一週間が経過した。私は励ましの意味を込めて毎日のようにメッセージビデオを撮っていたのだが、あれって後から見返すと凄まじく恥ずかしい。静乃ちゃんに「消していい?」とメッセージを送り、「すでに私のパソコンに移転保存済みです」と返ってきたときは頭を抱えたものだ。やめてー。
さて、本日も元気に学校へ出勤なのだが、心持ちが普段とは異なる。何を隠そう、静乃ちゃんが復帰するのだ!
昨日のチャットで連絡を取り合ったから間違いない。今日からまた静乃ちゃんに会えるのだ。ウキウキせずにはいられない。ホームルームで静乃ちゃんの姿を拝めるのが今から楽しみで仕方がない。
学校にたどり着き、廊下を歩く。鼻歌交じりに職員室に向かっていると、横合いからヌッと伸びてきた手に引っ張られ、空き教室に連れ込まれた。
何事!? と悲鳴を出す間もなく怯えていると、私の頭上に見慣れた顔…………が。
「静乃ちゃん!」
「お久しぶりです、紗耶香さん」
「えっ、本物だ。本物の静乃ちゃんだ」
「はい、本物の静乃です」
艶めく黒髪、パッチリ二重に通った鼻梁、桃に色づく柔らかい口唇。長らく喉を使っていなかったためか、その声はいつもより少しだけ低いものだったが、直に元に戻るだろう。
本物だ。私の恋人。静乃ちゃんだ。
「ホームルームまで待てなくて、紗耶香さんが出勤してくるまで空き教室で待ち伏せしていたんです」
「けなげ…………」
けなげ……か? 誰もいない寒い教室で一人、一体いつから待っていたんだろう…………まあいっか。
私は静乃ちゃんの実在を確認するようにペタペタと彼女の体に触れる。誰も見聞きしていないからこそできる、私たちだけのコミュニケーション。
「くすぐったいです」
「ねえ、抱きしめてもいい?」
「もちろんです」
大手を広げる静乃ちゃんに飛び込む。私の顔が来る位置にちょうど彼女の胸があって、この柔らかさも一週間ぶり。ぎゅーっと抱きしめると、静乃ちゃんの体温が私に伝播する。
あったかい。
静乃ちゃんは抱きしめ返す代わりに、私の頭をさわさわと撫でてきた。それが心地よくて、私はスリスリと静乃ちゃんの身体に顔をこすりつける。
「静乃ちゃん、寂しくなかった?」
「寂しかったです。毎日毎日、紗耶香さんに会うことに焦がれていました」
「私もだよ。私も静乃ちゃんのことばかり考えてた」
「一緒ですね」
「うん」
静乃ちゃんと触れ合えることが何物にも代えがたい至上の喜びとして私の心を支配している。
ああ、どうしよう。泣きそうなくらい嬉しい。
「この一週間で気が付きました。紗耶香さんと離れ離れになることがとても辛いということに」
「……私も。静乃ちゃんがいない生活がね、すごく辛かった」
私は着けていたマスクをずらし、口元をあらわにする。静乃ちゃんは察してくれたようで、わずかに膝を曲げてくれた。
彼女の首に腕を回し、吸い付くようにキスをする。大好き。
「ねえ、今日は私の家に泊まっていってよ」
「……明日も学校ですよ?」
「いいじゃん。一緒に登校しよ?」
「着替えを持ってきていません」
んっ。
口答えばかりする悪い口に、お仕置きのキスを落とす。
「じゃあ、取りに帰って」
「せ……積極的ですね」
静乃ちゃんは耳まで真っ赤になっていた。至近距離で見つめあうと恥ずかしさが勝ったのか、視線をそらされる。
「あれれ、照れてるの?」
「照れてなんか……でも、その、そうですね…………いつもと立場が逆なので、困惑しています」
「たまにはこういうのも、ね」
自分から激しく求めてしまうくらいには寂しかったのだ。これくらいのワガママには付き合ってもらわないと。
私と静乃ちゃんの朝の逢瀬は、時間が許す限りいつまでも続くのだった。




