十九話「私はもう少し体力を付けるべきである」
パチパチとシャワーから弾け出る水滴が私の肌を叩く。
後夜祭を二人で抜け出して、そのまま一緒に帰宅した。部屋から彩香ちゃんの荷物はすっかり消え去っていて、家には私と静乃ちゃんの二人きり。
明日から五日間は文化祭の振り替え休日だから静乃ちゃんは連休の終わりまで泊まっていくそうだ。
「恋人、なんだよね」
────結婚を前提に、私とお付き合いしてください
静乃ちゃんの愛の言葉が脳裏に響く。バスミラーに映る私は、にへら、と口元を緩めていた。
私たちは恋人になった……んだと思う、たぶん。明確な返事をしたわけではないけれど、彼女の口づけを受け入れた時点で答えは決まっているようなものだ。
「これから────」
恋人同士がワンルームに寝泊まり。何も起きないはずがない。
胸に手を当てて自分の身体を見下ろす。
脂肪が付いていない薄い肢体。小学生の時から伸びていない身長。
今までは「これが私だしな~」と深く考えることのなかった身体が途端に恥ずかしいものに思えてきてしまう。
「……こういう時の準備ってどうやるんだろう」
ムダ毛の処理とか肌の手入れとかは普段から欠かしていないから問題ないとして、化粧はどのタイミングでするのが正解なんだ? 付ける香水はコロンがいいのだろうか? アレをああしてああなっちゃうから爪は深めに切って手入れしておいた方が良い? そもそも静乃ちゃんは大丈夫な日なの?
もっと勉強しておけばよかった。自分とは縁遠い話だと決め込んで胡坐をかいていた結果がこれだ。
私は頭を捻りながら思案するが、一向に解決するわけもなく。いつまでもシャワーを浴びているわけにはいかないため、時間を掛けすぎない程度の「ほどほど」に身なりを整えてからリビングへ向かった。
「静乃ちゃん、おまたせ」
「ああ紗耶香さん、ちょうど良かったです。晩御飯ができましたよ」
「ばんごはん……? ああ、そっか。まだ食べてなかったね」
私が浴室で悶々としている間に静乃ちゃんは料理をしていたらしい。学校からの帰路でそういうことばかり考えていた私は帰宅後に間もなくシャワーを浴びたわけだが……これでは私が勝手に期待しているようで恥ずかしいではないか。
「どうしました。顔が赤いですけど」
「な、なんでもないよ…………おぉー、おいしそう。もう食べていいの?」
「はい、どうぞ」
メニューは豚肉の生姜焼きと千切りキャベツのサラダ、みそ汁とごはん。
この絶品料理が全て私のために作られていると思うと嬉しすぎて涙が出そうになってしまう。
おいしい、おいしすぎるよ、と舌鼓を打っていると、静乃ちゃんが不意に艶めかしい笑みを浮かべた。
「知っていますか紗耶香さん。一般的に、女性は食欲が満たされると性欲も増すそうです」
「へー……」
「愛しい人を堕とすには、まず胃袋から……ですよ」
ゾッとするほど妖艶な声で呟かれた声に私は反応できなかった。静乃ちゃんが調理をしていたのは食材ではなく、私だったんだー……ははは、なーんちゃって。
身の危険を感じながらも、料理が美味しすぎるので終ぞ箸が止まることはなかった。
◆
「明鏡止水」
曇りなき鏡。波紋なき水面。
私は一切の邪心を持つことなく、ベッドの縁に腰かけて静乃ちゃんの準備を待っていた。
浴室の方から聞こえる水音は……そう、たぶん雨でも降っているのだろう。決して静乃ちゃんの裸体など考えてはおりませぬ。
誰ともなく弁明しながら、私は状況を整理する。
後夜祭でイイ感じになって、告白されて、恋人になって、今に至る。
私にとっては急展開だが、静乃ちゃんにとってはきっと違うのだろう。四月に出会ったときからモーションはあったし(私が気づかなかっただけ)、そもそも静乃ちゃんは私のことを十数年間待ち続けていた。
恋人になったことは私たちのゴールじゃない。恋人になったことが私たちのスタートなんだ。
私が年上で、静乃ちゃんが年下。
私が教師で、静乃ちゃんが生徒。
きっと世間は私たちの関係を認めてくれない。でも、それがどうしたというのだ。私たちは私たちだ。
「お待たせしました、紗耶香さん」
静乃ちゃんは穏やかな声音で現れる。ベッドサイドランプの暖色に照らされた姿はいつもの寝間着ではなく、生地の滑らかなネグリジェだった。
何かを言うわけでもなく、静乃ちゃんは自然と私の隣────ベッドに腰を下ろした。
ピタリとくっついた腕同士で熱が往来する。
心地いい緊張が場を支配する。薄着の肌寒さと身体の火照りが良い塩梅に溶け合う。
「……?」
これから始まることを予見して静乃ちゃんの言葉を待っていた私だったが、彼女は慈しむように私を眺めるだけで何もしてこない。
静乃ちゃんのことだから言葉巧みに私を転がしてリードしてくれると思っていたのだが……。
五分ほど経っただろうか。居心地の悪さを感じた私はとうとう切り出した。
「そ、その……しないの?」
「ふふっ、何をですか?」
「なっ────!」
そう来たか。
羞恥攻め、というやつだろうか。主導権が向こうにあることは分かりきっていたし、寧ろ導いてほしいとさえ考えていた私だったが、初めての営みでこれは要求レベルが高い。
私は顔を真っ赤にしながらしどろもどろに答えを返す。
「その、恋仲になった人たちがやるっていう……噂のアレだよ」
「アレ、ですか。浅学な私には分かりかねます」
「も、もう! アレっていったらアレだってば!」
指示語で誤魔化すと静乃ちゃんは可笑しそうに惚ける。まったく、こういう時にまでからかってくるのはいただけませんなと頬を膨らませると、静乃ちゃんは優しく微笑んだ。
「紗耶香さん、本当に私でいいんですか?」
「いいも何も、私たちは恋人になったんだし……」
「そうですね。でも────」
静乃ちゃんはほんの少しだけ物憂げな表情を浮かべた。
「まだ、紗耶香さんの口から愛の言葉を貰ってないです」
言われて、私はハッとした。
告白を受けてから今の今まで私は静乃ちゃんに一言でも「好き」と伝えただろうか。思い返しても、私は彼女の好意を甘んじて受け入れているだけだった。
ともすれば、それは呪縛である。
言葉には魂が宿る。口に出してしまえば、もう引き返すことなんてできないから、無意識のうちに避けていたのかもしれない。
「私も欲しいです。紗耶香さんからの愛の証拠」
静乃ちゃんは拳三つ分、私と距離を取った。
私と向き合うために開けられた距離が、何処か溝を表しているように思えてしまって────縋るように今の気持ちを静乃ちゃんにぶつけていた。
「私は静乃ちゃんのことが好き。そして、私は今とっても幸せです────」
紡ぎだした言霊は私たちを結ぶように狭隘な部屋に舞っていく。
「十年後、二十年後……私たちがおばあちゃんになった時に『今が最高に幸せだね』って笑い合えるような愛を静乃ちゃんと育んでいきたいです。不束者ですが、よろしくおねがいします」
言った。言ってしまった。飾り気も何もない、その場で思いついたままの私の気持ち。
静乃ちゃんは私の言葉を受けて驚いたような顔を見せ────次の瞬間には眩しいくらいの笑みを浮かべて泣いていた。
「私、すごく……すごく嬉しいです。本当に紗耶香さんと出会えてよかった」
頬を伝う彼女の涙を指で拭って、そっと抱きしめる。
暫く抱き合って心を落ち着かせて、静乃ちゃんは取り直した。涙を零したことで少しだけメイクが崩れていたが、そんな彼女を美しいと思った。
「なんか、そういう雰囲気じゃなくなっちゃったね」
私は取り繕うように笑う。
お互いに準備していただけに勿体ない気持ちもあるが、次回に持ち越したと考えれば「勉強の時間」が確保できたとも言える。
マナーとか流れとかを学んでから臨もう。今日は些か性急に過ぎたのだ。うん。
もう寝ようか、と消灯するためにリモコンを手に取ったところで────ガシッと静乃ちゃんに腕を掴まれた。
「紗耶香さん……お楽しみはこれからです」
「ほー…………」
私の愛の言葉で燃え上がったらしい静乃ちゃんは凄かった。
十数年も我慢していればこうなるかー、と達観しつつ、次は最後まで頑張ろうと意気込んで意識を手放した。




