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私の中の怪物  作者: 寿和丸
3部 医者になる

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54話 由香の迷い

由香はドラマ「愛の賛歌」に全力を尽くす考えでいた。

「私の評価はこの作品で決まる」そのように思い込んでいた。

勇次には絶対に見てねと言っておいた。それだけの自信作だったし、勇次への告白だった。


由香は女優として演じる時は役になり切るタイプだった。

役の人柄や個性を考え、役の人物がどのように考え行動するか徹底的に考える。

ある意味、役に惚れこむのだ。役の人物ならこの場面でどのような喜怒哀楽を表現するのか考えるのだ。

これまでのドラマ経験でつまらない役、あり得ない設定もいくつかあった。

女優が平凡なサラリーマンに恋する話はその最たるものと言える。

確かに世の中にはそのようなことも絶対ないとは言えない。だが、女優である彼女がもし、一介のサラリーマンに恋をするなら、その男性が余程魅力的であるはずだ。しかしドラマの設定ではサラリーマンの取り柄と言ったら誠実だと言うことだけだった。その設定を聞いて、彼女は大いに疑問を持った。

「え、人気女優が一介のサラリーマンに惚れた理由が誠実だけ?それはないでしょう。いくら何でもこの設定では話が進まないわ」

この時、彼女はサラリーマンがイケメンでスポーツマンと言う設定にし直してもらい、なんとか役柄と折り合いをつけた。

「でも顔が良い位で女優がサラリーマンに夢中になるなんておかしな設定ね」

その時は幸いに視聴率が稼げて、彼女の株はあがったが、あり得ない設定のドラマには今でも思い出し笑いをするくらいだ。


その点、「愛の賛歌」は実話であり、構成もしっかりしているドラマだった。

これまでの軽い役柄にはうんざりしていたし、ばかばかしいほどの設定ではドラマにのめり込めなかった。

それが今度の役では彼女のこれまでのイメージを一新させてくれるものだった。

「こんな役を待っていた。私はこの役で、世間からの評判を変えて見せる」

意気込みも高かった。ピアフの伝記を取り寄せ、読み進めていると感動してのあまり泣き出してしまう。

「彼女の経歴は悲しすぎるし、どうしてセルダンに憧れたのかも分かった。」


ピアフの母親は社会の底辺の生まれであり、父親も大道芸人だった。ピアフは売春宿が立ち並ぶ一角で、娼婦たちを真直に見て育った。当然教育も碌に受けられず、教養もない。この環境が彼女に多くの影響を与えたと言われている。そして、16歳で若い御用聞きの少年と恋に落ち子供をもうけるが、その子が2歳になったばかりの時に小児性髄膜炎で失ってしまう。

このようにして、波乱な人生を辿るが、20歳の時、ナイトクラブのマネージャーに見いだされ歌手としてデビューできた。身長142センチの彼女は小雀ピアフという芸名を与えられ、上流階級の客たちに受け入れられていく。小説家のジャン・コクトー、俳優のモーリス・シュバリエ、詩人のジャック・ボーガットと知り合い、詩を書くようにもなっていった。そして自ら作詞した「バラ色の人生」が大ヒットした。

やがて、第2次世界大戦が始まり、フランスはナチスドイツに占領されてしまう。この状況下において、ピアフはドイツ将校からも大いにもてはやされた。その一方で、フランス人捕虜たちに支援をしていて、彼女はレジスタンス運動も行っている。このあたり、彼女が人気歌手としてちやほやされて満足するのではなく、社会をよく見ていたことが分かる逸話だ。


戦後アメリカ公演に行き、彼女は大歓迎されるのだが、ここで、プロボクサーのセルダンと運命的な出会いをした。

「ピアフは強い男に憧れたの?」確かにセルダンは世界チャンピオンで強いのは間違いなかった。

「でも、単純にマッチョに憧れたのではない。セルダンは快活で朗らかな性格だった。強いうえに明るい性格なら私だって惚れるわ」

そして“愛の賛歌”が出来た。

「ただ、愛の賛歌は別れの歌でもある。ピアフはどうして別れの歌にしたの?新しい素敵な男性に巡り合えたと言うのに、この歌は死を予感している。」

フランス語の最後の部分では“いつかあなたと離れ離れのまま死んでも、あなたが愛してくれるなら、構うもんですか。何故ってその時、私も死んでしまうから”と別離に強く触れていた。

「どうして、愛し合っている最中に、死んでもいいなんて言うのかしら?」

最初、由香には良くわからなかった。

「愛への賛歌なら、死のことなんて持ちだすはずもないわ」と不思議に思った。

そして、由香はピアフの伝記を読み返し、その気持ちを慮っていくと、別離に至る考えが導き出た。

「ピアフはセルダンを死ぬほど愛していた。だから彼を不幸にしたくなかった。彼には奥さんも子供もいた。そんな彼の幸せな家庭を壊したくなかったんだわ」そのように結論する。

「ピアフは不幸な生い立ちをしている。でも自分だけが幸せになればいいと考える女ではなかった」

素晴らしい女性だった。由香はピアフを演じることに役者冥利を感じていた。

「これが私の代表作になる」そのように確信していた。


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