53話 愛の賛歌
事件の後、勇次は大学からも何の注意も受けず、無事に進級できた。
やがてテレビの新番組が放映される季節になる。勇次は居間でドラマを見ることにした。
「あなたが、ドラマを見るなんて始めてよ」と妙子に茶化されるほど、勇次はまずテレビを見ることはなかった。小学生の高学年からパソコンに夢中になり、テレビに見向きもしなくなった。学校で友達がテレビの話をしていても無関心でいた。今は子供が出来、漫画アニメを一緒に見るようになって、多少はテレビに触れ合うことが多くなった程度だ。
「うん、大学でこのドラマが評判なんだ。みんなが話題にするから、一度は見ようと思ったんだ」
そのドラマは霧島由香の主演だった。これまで、勇次は由香をテレビで一度も見たこともない。ただ学校であまりに評判で、由香が出演していることもあって、見ようと思ったのだ。
実は由香からも、「今度のドラマは力を入れているの。絶対見てね」と言われていた。
そのドラマの題名は“愛の賛歌”だった。
“愛の賛歌”は日本では岩谷時子氏の名訳が有名だが、フランスのシャンソン歌手エディット=ピアフがプロボクサーのマルセル・セルダンとの恋を歌にしたものだ。
1947年二人はピアフのアメリカ公演で知り合い、恋に落ちるが、セルダンには妻子がいた。相思相愛で二人の仲は誰もが知るものとなり、この大恋愛をピアフは歌にしたのだ。そして49年にセルダンは飛行機事故で生涯を閉じた。この飛行機事故を基にして“愛の賛歌”は作詞されたように思われているが、事故の前に書かれており、妻子ある男性との愛を断ち切ろうとして書かれたものとされる。このあまりに短い出会いと別れ、その時のピアフの心情と歌詞がミックスして世界で大ヒットした歌である。
“あなたなしには生きていけない。あなたがいればもう何もいらない”激しいほどの熱情を歌い上げた。それと共に恋人を失った彼女の気持ちが切々と伝わってくる内容だった。
元の歌詞はピアフの心情をストレートな表現で書き表しているが、岩谷さんの訳は婉曲な表現になっている。それが日本人に高く受け入れられ、越路吹雪の歌で大ヒットした。越路吹雪はこの歌を持ち歌として、69年末の紅白歌合戦でも歌った。この時、彼女は気持ちが乗ってしまい、持ち時間を大幅に越え、他の出演者の持ち時間が短くなった逸話も残されている。それほどに感動的なステージだった。
「あなたがいればもう死んでもいい」と歌えるのは女性だから言えるのだろうか。日本とフランスでの表現の違いはあるが、恋を歌ったものは日本にも数多くある。百人一首にも入っている、儀同三司の母の「忘れじの 行く末までは難ければ 今日限りの命ともがな(お前のことは一生忘れないと、あなたは強く言ってくれた。だからこそ今一番幸せな今日限りの命でありたい)」と共通しているように思える。更に式子内親王は「珠の緒よ 絶えなば絶えね ながらえば 偲ぶることの 弱りもぞする(命の糸よ 絶ち切れるなら絶えてしまえ 長く生きれば 偲ぶる恋も弱ってしまう)」と言い切っている。女性だからこそ、命を懸けると言い切れるのだろうか。同じ百人一首で「偲ぶれど 色に出にけり我が恋は 物や思うと 人の問うまで(隠していたが、私の恋は顔色に出てしまったようだ。他人から誰か思い人がいるのではと問われるまで)」これを歌ったのは平兼盛で有名な歌人だ。また同じ時に壬生忠見は「恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思いそめしが(恋していると私の名前は早くも立ってしまった。人知れず思っていたのだが)」と歌った。どちらも有名な歌だが、やはり儀同三司の母や式子内親王のものと比べ、強く響かない。恋の歌は断然、女性のものが優れているように感じる。
女性だから思い切った言動にも出られるのだろう。
そして、ピアフとセルダンの実話に基づいて映画にもなり、ドラマも多く出された。この恋愛劇が由香によってまたテレビで見られることになった。正直勇次はこの実話をよく知っているし、ストーリーも承知している。改めて見ようとは思えない内容だが、由香から「見てね」と言われると見ないわけにはいかなかった。
そしてテレビの前で由香の迫真の演技に目をくぎ付けにされていく。
由香の女優としての演技力は高く評価されていたが、これまでは現代風のコメディタッチのものに多く出演していて、シリアス的なものにはあまり出ていなかった。
「霧島由香はトレンディードラマには向いているが、悲劇のヒロインは似合わない」そんな声も聞こえていた。
彼女にとって、このドラマにより評判を覆す絶好の機会となった。
その為に勇次と会うのも控えたし、「必ず私の代表作にしたい」と思いが強かった。
それが、今回は命を懸けた恋という迫真の演技に繋がった。
妻子ある男性に恋をして、何もかも捨てようとする。
「不倫はいけないこと、やってはいけないこと」と分かっている。それでも男に会いたい。会わずにはいられない。今すぐにでも男の厚い胸板に飛び込み、優しく愛撫されたい。その女の気持ちが痛いほど分かって来る演技だった。
由香の演技は迫真というよりも、何かそれを通り越して本当に命を掛けていると思わせるほど、危機迫るほどのものだった。
「名前も評判も捨てる。お金なんかどうでもいい。ただあなたが欲しいの」
美女に迫られて、相手の俳優はたじたじとなり、完全に虜になるのも無理はないストーリーだった。
「あなたしかいらない。あなたがいないとだめなの」
そのような切々なセリフに、見ていた勇次も、実際に由香から言われたようで、思わずドキッとしてしまう。
「これは由香が私に言いたい言葉ではないのか」そんな風に思えてくる。
2時間という長いドラマがあっというまに終わった。




