兄の憂鬱
エルネスタに明らかな距離を置かれて、クリストフは不安に苛まれた。私室に招いて会う事も拒否され、つい先日の訪いはろくに話す事もままならなかった。下宿のリビングに居る間、殆どトールと話していた上、約束があると言って早めに帰ってしまった。
其れも此れも、自分がエルネスタにプロポーズして以来の事だ。明確な返事はまだ貰っていないが、色よい返事でない事は確実だろう。他の誰かに掻っ攫われてしまう焦りから、早まったことを為出かしたのではと、気が気でない。
「そう言えば、トールさん、エルと何を話してたんですか?」
「ああ、エルと共通の知人に関して、ちょっととんでもない事を耳にしたから、詳しい話を聞こうと思ってな」
「とんでもない事ですか?」
「耳を疑ったよ……」
トールが遠い目をして黙ってしまったので、クリストフはそれ以上は聞けなかった。
次の休日にエルネスタが訪ねて来てくれた時、クリストフは下宿から外へ連れ出すことにした。町中を二人で歩く方が、下宿の共用リビングよりも邪魔が入らないように思えた。エルネスタは、嬉々として散歩を楽しんでいる。クリストフは、もっと早く連れ出せば良かったと少し後悔した。
「ボク、行ってみたい所があるんだけど、いい?」
「何処?」
「クリューガー・ブランドのお店!」
「へえ、エルも洋服に興味があるんだな」
「ヴィルさんがマネキンをしているお店だって聞いたから、どんなお店か外からでも見てみたかったの」
エルネスタの興味は、クリストフが想像したようなものではなかった。自分が着飾ることより、知り合いが絡んでいるお店だという興味の持ち方だったらしい。クリストフも来たことはなかったが、さすがに有名ブランド店というべきか、大通り沿いを歩くうちにそう時間もかからずに見つかった。
「うわぁ、大きくて綺麗なお店だねー」
「敷居が高いな。とても中には入れないよ……」
「うん、確かに」
エルネスタ達がおっかなびっくり窓硝子越しに店内を覗いていると、背後から声が掛かった。
「おう、エルじゃないか。珍しいな、こんな所で」
「あっ、ラインハルトさん」
「えっ、ラインハルトって、まさか……」
「クリス、こちら『紅刃』のラインハルトさんだよ。前に、ボクの護衛をして貰ったことがあってねー」
「エル……お前、何気に大物の知り合い多いよな……」
エルネスタがこそこそと小声でクリストフと話していると、ラインハルトから思わぬ申し出があった。
「丁度よかった。エルに頼みたい事があってな。ちょっと、この店に寄ってってくれ」
「え、此処?」
「そういや、そっちは誰だ?」
「ボクの兄のクリスです。トールさんの所で冒険者の修業中なの」
「どうも。初めまして。クリストフです」
「トールの所のクランか、面倒見良いって聞いたな」
ラインハルトは二人を伴って、慣れた調子で店の裏口から中に入って行く。階段を上り、突き当たりの大きな扉の前に立つと、ノックしながらも何の躊躇もなく開け放った。
「バーサン、邪魔するぞ」
「まあ、ご挨拶だこと」
唖然として固まる二人を他所に、ラインハルトは中に居た女性と軽口を叩く。
「あら、そちらの可愛らしい二人は何方?」
「ヴィルの妹分と、その兄貴だ」
「まあ、ヴィルヘルムさんの? 貴方もうちの服着て、披露会に出てみない?」
「……ハハハ……」
「いきなり無茶振りするなよ。このバーサン、ここの店のオーナーで、インゲっていうんだ」
「初めまして」
「こんにちは」
ラインハルトに促されて、エルネスタ達は部屋の中へと入り、勧められたソファに怖々腰掛けた。洒落た格好の若い女性が入って来て、人数分のお茶を並べる。邸勤めで曲がり形にも場数を踏んでいるエルネスタはともかく、クリストフは場違い感で居たたまれない思いをした。
「じゃあ、本題に入るか。ヴィルの所の祝いを、このバーサンと用意したんだ。エルが祝いを持って行く時に、一緒に持って行って貰いたいんだが、どうだ?」
「嵩張らなければ大丈夫ですよ。ボクが手に持てる位までなら」
「それなら、充分許容範囲だ。今日預けてもいいか?」
「まだ産まれたとも連絡ないんで、早いですよー」
「それもそうか」
その場でお茶を飲みながら話している間、クリストフは借りて来た猫状態だった。エルネスタの所にヴィルヘルムから連絡が入ってから、改めて祝いの品を預かる事にして、二人はこの場を辞する。店を出る頃、クリストフは魂が半分抜けかかっていた。
「俺、全然駄目だな……エル、俺、また鍛え直すよ」
「これは鍛えるとかの話じゃないと思うけど」
「エルは堂々として話していたのに、俺ときたら全くだらしなかった」
「ボクはラインハルトさんと面識あったもの。クリスは初対面でしょ? 仕方ないよ」
「でも……」
「誰にでも得手不得手はあるでしょ? それとも、クリスは何でもボクより出来なきゃ駄目って思うの?」
「いや、そうじゃない。うん、エルの言う通りだな」
「えへへー」
久しぶりに、兄妹で腹を割って話せた気がする。クリストフは、知らず知らずのうちにエルネスタへ自分の虚像を押し付けていたことに気が付いた。少し、肩の力が抜けていった。




