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Memento vivere




 春の陽気に包まれたリビング。

 ソファーに背を預け寝入っていた神崎栞は、けたたましい電子音に夢から引き戻された。


「う……ん?」


 齢は三十と少し。

 紺色のチュニックに白のスラックスを身にまとっていた。


「寝ちゃってたか」


 栞はそう呟くと、寝ぼけ眼で辺りを見回す。

 膝の上には畳み掛けの洋服、傍らには置きっぱなしスマートフォン。手帳型ケースの下から、液晶の光が漏れていた。

 そこでようやく、先ほどの電子音がアラームのものだと思い至った。


(優香を迎えにいく時間か)


 平日の昼下がり、そろそろ娘の優香の降園時間だった。

 普段ならば、幼稚園バスが家の前まで送迎してくれるのだが――急遽、保護者が迎えに来るよう通達された。


「ん……」


 ふと、電源の落ちた液晶テレビに目を向ける。

 ここ連日騒がれている『連続通り魔事件』のことが、脳裏によぎる。


 初めてその事件が報道された日を、栞は遠い過去のように思い出す。

 捜査が終わり、警察署の泊まり込みから解放された夫に朝食を振舞おうとしていた時だった。


 速報で流れた映像を見ていた夫の表情は、疲れ切った顔から刑事のものへと変わっていった。


 それは、深夜から明け方にかけて『誰かが襲われたらしい』という事件だった。

 というのも、被害者や遺体が見つかっていないのだ。

 現場に残っていたのはおびただしい量の血痕。血に染まった衣服の一部や肉片だとか。


 テレビや新聞は、令和の『遺体なき殺人』と持ち上げては背筋を凍るような事実を連日騒ぎ立てていた。


 そこへ、再びスマートフォンが鳴り響く。


「ひやっ!?」


 思わず、情けない声を漏らす栞。


「やだもう……スヌーズ機能付けてたっけ」


 顔を赤らめつつ、スマートフォンを手に取る。

 すると、アラームは一度も鳴っておらず、三十分後に鳴るように設定されていた。


 代わりに、ホーム画面には見たこともないタスクで埋め尽くされていた。


『緊急速報 屋根のある建物に避難して窓や扉を施錠して下さい』

『緊急速報 ミの安zんを大1に行どうしてくdさい』

『緊急速報 に げ て』


 読み進めるたびに、背筋が氷点下まで冷え込んでいく。


「なに、これ」


 底知れぬ不安がふつふつと湧いてくる。

 自然とスマートフォンを持つ手が震える。


「テレビ――テレビ!!」


 リモコンをひったくり、電源を付ける。

 いつもなら、不倫や政府への不満をだらだらと流すワイドショーが映るはずだった。

 しかし今は、真っ暗な画面に『信号が読み取れません』と出るだけだった。


「うそ、何で!?」


 苛立ちから強くボタンを押してしまう。

 他の局に合わせても、どれも同じような有様だった。


「優香――」


 我にかえると、震える指でスマートフォンを操作する。

 何度も間違えながらも、ようやく幼稚園へコールすることが出来た。


「お願い、繋がって……」


 祈りの言葉を口にし、栞は耳元に神経を集中させる。

 だが、誰かが出る気配はなかった。


 不安に駆られ、何度も夫の携帯電話にもコールする。

 しかし、長い呼び出し音の後に留守番電話の音声案内が流れるだけだった。


「~~~~!!」


 顔を強張らせると、栞はいてもたってもいられず車のキーをひったくり玄関から飛び出す。

 荒々しく運転席のドアを閉めると、セダン型のハイブリット車は電気音を僅かに鳴らして発進した。


 対向車が来たらすれ違えないほどの狭い小道を、制限速度を逸して通り過ぎていく。

 速度を維持したまま、一時停止の十字路に差し掛かった時だった。


 右の道路から、何かがのたりと姿を現した。


「あ!?」


 その正体が、スーツ姿の男性であるということを認識した瞬間だった。

 バンパーが飛び出した歩行者の左脛を弾き飛ばす。上半身がボンネットの上を滑って、栞の真正面へ突っ込んでくる。

 頭頂部がフロントガラスを突き破り、栞はハンドルから飛び出したエアバックに顔を跳ね上げられた。


 悲鳴すら出せない一瞬の間に、車はブロック塀に突っ込んだ。


 顔面と身体の痛みに呻き、運転席からずるりと這い出る。

 凹み、煙を上げる愛車。そのフロントガラスから生えた男の下半身。

 栞はそれらを交互に見て、ようやく自分が事故を起こしたことに気がついた。


 衝突の痛みに顔を歪めながら、愛車に突き刺さった人間のもとへと歩み寄る。


「あ、あの、あの」


 大丈夫ですか?

 などと間の抜けた問いかけをしようとして、言葉を飲み込む。

 人を殺してしまった。

 栞の視界がじわじわと狭まっていく。


「ァ……ギァ」


 と、フロントガラスから飛び出ている両足が暴れ始めた。

 あぁ、生きていたんだ!

 そんな希望が胸中に広がる。


「だ、大丈夫ですか! 救急車を――」


 と、被害者の顔を見た瞬間だった。


 肌は紫色に変色しており、頭部は皮膚が剥がれ耳は片方が無く、頬や喉元から白い骨が覗いていた。

 腹をすかせた猛獣のように、真っ赤に染まった歯をガチガチと鳴らす。

 白目をむいているというのに、両手を栞の方へ的確に伸ばして掴みかからんとシートを引っ掻いていた。


 それはまるで、ホラー映画で見た『ゾンビ』と呼ばれる化け物にそっくりであった。


「ひっ」


 栞は悲鳴をあげて、飛び退く。

 フロントガラスは粉々に砕け、男が運転席の上へと滑り落ちる。

 小さくうめき声を漏らすと、血だらけになった顔で栞を見上げる。


「お願い、来ないで……来ないで」


 衝突で足をやられたのか、男は上半身だけでアルファルトの上を這ってくる。

 ――何処かに逃げ込まなくては。

 踵を返し、助けを求めようとした瞬間だった。


 ピピピッ!

 ピピピピッ!!


 閑静な住宅地に、スマートフォンのアラームが最大音量で鳴り響く。

 驚きのあまり、栞はスマートフォンを取り落とした。

 画面には『優香のお迎え時間♡』と表示されていた。

 すぐさま拾い上げ、恨めし気に何度も停止ボタンをタッチする。


 静かになったのを確認し、安堵の息を漏らして顔を上げた瞬間だった。


 ――アァ。

 ――ギァゥ。


 ブロック塀に反響する、飢えた獣の鳴き声。それが幾重にも増していき、視線の先に人影がわらわらと映り始める。

 後ろを振り返るが、同じように狭い通学路は血塗れの人間で埋め尽くされていた。


 栞はその光景を目の当たりにし、これから起こりうることを察知した。


「アハハ……アハ」


 糸が切れたように、その場にへたり込む。

 無性に、腹の底から笑いがこみ上げる。


「優香――」


 よろける様に血塗れの人間が一人、二人と栞に覆いかぶさる。チュニックに爪が食い込み、栞の肌へ歯が突き立てられる。


 栞は激痛に喉を震わせたが、その悲鳴は何重もの呻き声に掻き消された。


     *


「あぁ、クソッ!」


 紺色のチュニックの女性が見えなくなったところで、宗一郎は双眼鏡から目を背けた。

 歳は十九、ジーンズにパーカーというファッションは年頃の男子としては派手さに欠ける出で立ちだ。

 肩からはフルサイズのクロスボウが下がっていた。


 市営団地の屋上、金網のフェンス一枚を隔てて広がる外の風景。

 普段ならば、ここから人々の日常を見下ろせただろう。しかし今や、現実とは思えないほど様相を変えていた。


 家屋や自動車から立ち上る黒煙。

 腹の底から押し出されたような、化け物の唸り声。

 あちらこちらで伺える奴らの食事風景。


「もうここまで広がっていたとはな」


 双眼鏡をしまい、立ち上がろうとした瞬間だった。


 宗一郎の隣に、制服姿の女子高生が歩み寄る。

 十六歳くらいだろうか。アイボリーのカーディガンに、チェックのスカート。

 その下から覗く太ももは、薄く紫に変色していた。


「どうした、早苗」


「あ、ぅ」


 緩慢な動きで、フェンスの向こうへ紫色の人差し指を伸ばす。

 宗一郎らがいる団地から、狭い路地を三つ先超えた先。

 そこへ素早く双眼鏡を向けると、レンズの向こうには泣きじゃくる女の子が映った。

 四、五歳くらいだろうか。二階建てのベランダで小さくなり、膝を抱えて何度も涙を拭っていた。


 双眼鏡を下に向けると、玄関には化け物が集まり始めていた。

 数にして十体くらいだろうか。様子を伺っている間にも、その数は徐々に増えつつあった。


「手遅れだ。あの娘はもう――」


 言いかけて、隣の早苗がフェンスを破ろうとしているのが目に入った。


「おい、早苗!」


 宗一郎が、早苗の左腕を掴む。

 瞬間、人の温もりなど微塵もない冷たさが掌に伝わる。


「うー」


 早苗は掴まれた腕を一瞥するが、再びフェンスを裂き始めた。

 まるで万力でも押さえつけているかのように、宗一郎は早苗の腕を抑えることはできなかった。

 紙を裂くように、針金が音を立てて断絶していく。


「解った、解った!」


 とはいえ、早苗は『一度決めた事は絶対に曲げない頑固者』であるのは、宗一郎もよく知っていた。

 やれやれと手を離し、妹へ短く語りかける。


「俺が辿り着くまで無茶はするなよ。“メメント・ヴィヴェーレ”だ」


「あー」


 人一人が通れるほどの穴を開けた後、早苗は振り向いて緩慢に頷いた。

 そしてゆっくりとした足運びで、目的の家に向かって跳躍した。


「本当に解ってるんだか」


 小さくなっていく早苗の背中を見届けると、肩から下げたクロスボウを手に取り弦を引く。

 矢を装填すると、宗一郎は階下へと足を向けた。

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